第22話 青空と水浸し


「きりっつ」


「れい」



 覇気のない調子でだらだらとHRの終わりを告げる、今日の日直当番の掛け声が終わった瞬間、楓は自分の学生鞄を持って、自分の席から離れた。




 間宮の視線がHR中も何か言いたげにちらちらと自分のほうへ向けられていた。今も、背中越しにその視線がこちらに向けられているのが分かる。


 今は正直間宮と話したくなかった。昼休みの面談の時話した内容を掘り下げられるのは、今は耐えられる気がしない。


 美園の席に近寄り、声を掛ける。



「美園は部活?」



「そうだけど。旦那待たなくていいの?」



 旦那というのが瑠依のことを表していることを察し、楓は苦笑しながら、急ぎ早に返答する。



「大丈夫。今日は違うとこで待っておくから。部活頑張ってね」



 そう一気に言って、バイバイと手を振る。まだ先生はこちらに近づいてきてはいない。


 楓は今しかない、と思って教室から出ようとする。



「藤森さん、またね」



 一番席の隅っこの席が彼の席なのか、安藤が目ざとく楓を見つけて話しかける。その挨拶に、楓は挙動不審ながら、ぎこちない笑みを返した。



 そして、教室を出ていくことに成功した。


 廊下を歩きながら、どこで瑠依を待とうと思索する。


 間宮先生に見つかりそうな場所は避けたい。


 そう思って、楓は一つの場所へと足を向けた。





 ここなら誰も来ないだろうと腰を下ろしたのは、庭園の中にぽつんと一つだけ設置してあるベンチ。その表面を一撫でして、汚れていないかどうかを確かめる。外にあるはずのベンチは手入れが行き届いているのか、汚れらしき汚れはついていなかった。楓は安心して腰を下ろす。


 そして、スカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、矢継ぎ早に瑠依にラインを送った。



『終わったら連絡ください。今は庭園にいます』



 送り終わってからスマホをポケットに入れ直し、代わりに四つ折りの紙を取り出す。


 それは今日、帰ってきたばかりの模試結果。


 楓はふうと一つ息を吐いた。その紙が示す情報を一気に読み直し、空を仰いだ。


 目をつむる。暗闇が視界を覆う。



 頑張った、つもりだった。夏に受けた模試も、第一志望はE判定で。そこからさらに勉強を積んで受けた模試が、この春休み中の全国統一模試。少し手ごたえを感じていただけに、変わらない判定結果にはどっと疲れが湧き上がる。


 自分の目標が、誰でも届くようなものでないことは分かっている。その難易度も。どれだけ困難なのかも。全国の受験生の中で、その大学の合格通知を貰えるのは、ほんの一握りの秀才だけだ。




 楓が東京大学を第一志望に考えていたのは中学の時からだった。いや、漠然と、自分のせいで母が自殺を図ったと認識しだしたころから、実は念頭にあったのかもしれない。心の中で、誰かが頑張り続けなければならないのだ、と言う。母のためにも。家族のためにも。そして、父のためにも。


 第一これは、自分に課した罪への罰なのだ。頑張らなければならないなら、中途半端は許されないと。誰に言われるでもなく自分で課した。そこまでしなければならない理由がお前にはあるだろうと、心の中で誰かが責め立てる。



 そして、兄の秋陽がしたように。秋陽もまた、血反吐を吐きながら大学受験を乗り越えた。自分の面倒を見る傍ら、時間があれば机に向かい、でもそれを悟られぬよう自分にはひた隠しにするように、何でもない風を装って。それでも、秋陽は必至だった。


 それが、母のためであることを、楓は理解していた。自分が母を助けるのだと、その意志は強固で。見ていてこちらが辛くなるほど。手を抜くということを知らず、ただただ参考書と向き合っては、自分の道を突き進もうとしていた。


 休んだほうが良いのではないか、という言葉は投げかけたくても口には出来なかった。同時に、負担になっている自分の存在が恨めしかった。大丈夫か、と言いたくても、自分が兄を大丈夫にさせていない元凶なのだと悟った。それが心苦しくて、重荷でしかない自分を、ただただ責め続けるしかなかった。そして、兄が無事受験期を乗り越えることを願うことしかできなかった。


 自分もそうしようと思うのは、楓にとっては当たり前のことだった。


 自分のせいで、母は。兄は。こんなにも苦しんでいるのに。自分がその道を行かないことはあり得ない。


 わたしも、その道を行く。


 負担になった分、自分の罪の分、私は。


 楓はE判定の文字を食い入るように見つめた。


 まだ、足りないのだ。


 この結果は、もっと頑張れと言う。


 まだ足りないのだという証。



 こんなものでは、償いにもならない。二人を助ける手立てにもならない。



 楓は瞳を開いた。鳥がちちちと鳴きながら、真っ青な空の中、飛んでいる。それはあまりに遠く、一つの点にしか見えないほど小さな姿だった。


 遠く、小さく。微かで。



「お母さん………」



 その時、



 ぷしゃあっーーという音と共に、体に冷たいものを受けた感覚があった。


 楓は目を見開いて音のしたほうを見ると、黒髪の少女が青いホースをこちらに向けているところだった。そして、その表情は顔面蒼白で。榛色の瞳が、これでもかというほど見開かれていた。


 その少女は、ぼとりとホースを落とした。まだ水が放射されているホースは、土色のコンクリートに水たまりを作っていく。


 彼女はそんなこともお構いなしに、放した手を顔にやって、わなわなと震えだした。



「なななななななな、なんてことを……わたしはっ」



 少女は震える唇でそう呟いた後、超特急で楓の傍に近づき、



「ごめんなさい。ごめんなさい。大丈夫ですかっ」



 と、被害に遭ったはずの楓よりも大丈夫かと言いたくるほど狼狽えながら、薄桃色のハンカチを取り出して、楓のセーラー服にあてがった。



「あの、大丈夫です。落ち着いてください。それよりも、お水止めましょう」



 彼女が狼狽えている分、楓は冷静になれて、黒髪の彼女に声を掛けた。初対面なのに自然と声を掛けられたのは、彼女のあまりの狼狽えっぷりのせいだろうか。



「あっ、そうですね!」 



 まだわたわたと挙動不審でどうしてよいか分からないといった風の彼女を連れて、楓は蛇口のほうに行く。


 二人で水道管を覗き込み、蛇口を止めようとする。



 そして、その時、蛇口からホースがとれた。蛇口は上を向いていて、思い切り二人の顔に水が噴射された。



「わっぷ」



 二人はその冷たさに悲鳴を上げた。


 そして、気づいた時には、二人ともびしょぬれ状態だった。まるで、バケツの水を被ったように、余すことなく全身水だらけ。


 楓は状況理解が追い付かなくて、呆然とした。


 すると、



「すごいっ! あはははははは、すごいっ、あはははは」



 隣にいた黒髪の彼女が突然笑い出した。



「ふ、」



 その快活でよく響き渡る笑い声に、楓も何故か吹き出していた。


 そしてそれは、止まらない笑い声に変わった。



 びしょぬれの自分たちの姿が滑稽だったからか。


 相次いだハプニングの可笑しさのせいか。



 とにかく何故かおかしくて。


 二人は暫くお互いびしょぬれの姿を見ながら笑いあっていた。






「ごめんなさい。笑ってしまって。あなたを巻き込んでしまったのに」



「いえ。平気です」



 暫くしてから改めてぺこりと頭を下げる黒髪の少女に楓は手を振って、大丈夫であることを示した。


 こんなに笑ったのはいつぶりだろうか、と思えるほど、自分はこの時笑ったという感覚が楓にはあった。



「優しい人ですね。良かった。水をかけてしまった時は、どうしようかと頭が真っ白になりました」



 そう言って、ほお、と息を吐く彼女に、先程の狼狽えぶりを思い出し、また楓はふふふと笑みがこぼれた。


 彼女の明るさがそうさせるのだろうか、こんなに自分が笑うなんて。


 不思議な感覚だった。


 張りつめていた何かが溶けていくような感じだった。



「花に水を上げようとしていたんですか?」



「そうなんです」



「それならそこにいた私も悪いですよ。そんなに、気に病まないでください」



「そんなことありません! ベンチは座るものなんです! そこに人がいるのは予想してなきゃいけないことですよ! だから気づかなかった私がいけないです!」



 黒髪の彼女は、頬を紅くしながら両手を振って、楓の言葉に異を唱えた。


そうやって、しばらく自分に非がある、いや私だ、といった押し問答が続いた後、それを締めくくったのはまた彼女の笑顔だった。



「でもごめんなさい。さっきの楽しいと思っちゃいました」



「それは、私もです」



 整った顔立ちに、何もかも晴れたような微笑を浮かべた彼女に、楓は正直に答えた。

 


「そしたら、おあいこですね」



 さっきから気になっていたのだが、彼女には日本語の発音で不思議なところがあった。外国人鉛というか。そして、日本人だとしたら珍しい、榛色の瞳。



「あの、失礼かもしれませんけど、外国人の方ですか?」



 おそるおそると楓が尋ねると、ぎゅーと黒髪を両手で絞って水を出していた彼女は、顔を楓の方に向けて、はい、と答えた。



「アメリカと日本のハーフなんです。日本にはこの前来たばかりで。日本語を話すのは久しぶりです。どこか、おかしなところとかありますか?」



「いえ、イントネーションが少しくらいで、あとはもう完璧だと思います」



「そうですか、良かった」



 そう言って、黒髪の彼女はにっこと笑い、すらりとした色素の薄い肌色の手を楓のほうへと伸ばした。



「髪が茶色ですけど、あなたも外国人ですか?日本語はもうペラペラみたいですけど」



「……いえ、これは生まれつきなんです」



 楓はそう伝えるのに、自分でも無意識に顔を強張らせていた。


 その姿を、黒髪の少女は一瞬思案するようにじっと見つめた。



「もし、よろしければなんですけど、お花にお水をあげるのを手伝ってもらえませんか」



「え、あの、わたしでいいんですか?」



 楓が突然の申し出に及び腰になると、黒髪の少女は楓の腕を引っ張ってホースを持ち直した。



「あなたがいいんです!」



 そう良く通った鈴のような声に、楓は顔を上げて彼女を見た。


 黒髪の水にぬれた部分が太陽に反射して、きらきらと輝いていた。その姿は同性の自分でもとてもきれいだと思った。邪な美しいとかではなく、彼女は何処か神聖な雰囲気を纏っていた。




「私の名前は奏、です! よろしくお願いしますね!」


 

 そういうと彼女は、何もかも吹き飛ばしてしまいそうな、そんな明るい笑顔を楓に向けた。




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