第11話 憂いと覚悟
「……不明瞭?」
喉に何かが引っ掛かったような感覚がする。瑠依は思わず乾いた唇を湿らせた。胸の奥で、ざわつく何か。これは、不安だろうか。
瑠依の問い返しに、秋陽は視線を逸らさぬまま唇を動かした。
「瑠依、お前は楓が好きか?」
秋陽の問いは、どこまでも直球だった。何の飾りもなく、YesかNoかを問う質問。
嘘を許さないような、尋問にも似た声音に、瑠依は一瞬喉を詰まらせたが、それでも確信をもって答える。
『不明瞭』。その言葉だけで、自分と楓との繋がりを、自分の想いを揺らがせたくなどなかった。
「好きですよ」
「女性として?」
瑠依はその問いに息を詰めた。
女性として。
それは恋情か? 劣情か? 恋心か? 情欲か?
自分に問いかければ、多分そのどれでもない気がした。
自分が楓に向ける思いをいざ言葉にしようとしても、それははっきりと形にできないような何かで。
こんなふうに、楓との関係を考えたことはなかった。
俺にとって、楓は楓だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「楓が女性かどうかと聞かれれば、まぎれもなく女性です。でも、俺には重要なことじゃない」
「だから不明瞭なんだよ」
叱るような言葉に、瑠依は秋陽の目を見た。その力の籠った目に、瑠依の胸が再びざわつく。
秋陽は何が言いたいのか。自分に何を気づかせたいのか。
楓のことで、気づいていない何かがあるのか。
そう思うと、つま先から言いようのないぞわぞわとした波が這い上がってきた。
「瑠依。お前が楓を大事に思っているのは知っている。守りたいと思ってくれていることも。今まで、あいつに何かがあったとき、傍にいてくれたことには本当に感謝している」
落ち着いた雰囲気を取り戻しつつ、でも、と秋陽は強い口調でつづけた。
「今のあいつを守るためには、その今まで通りでは不安なんだ」
その指摘に、瑠依は胸を刺された。
そして、自分がさっきからずっと抱えていた、苛立ちのような感情の正体が分かった。
俺は、自分が不甲斐ないんだ。
楓を守りきれない。
楓を支え切れない。
楓の傷を癒してあげることができない。
悲鳴を上げ、泣き崩れた楓の姿を見て、自分の力のなさを突き付けられた。
傍にいたはずなのに。守ると誓ったはずなのに。
俺は、あいつに何ができただろう。
あの時の弱弱しい腕を、身体を。何かを切望している笑顔を。誰にも見せず隠した傷を。
あの時、繋ぎ留めたと思っていた。そしてこれからも、と。そうやってあいつの傍にいつづけた。
でも、あいつはもう『限界』だ。
バスの中、「怖い」と呟きながら、しがみつく楓に、俺は恐れた。
また、消えてしまう、と。
手の中にいるのに、腕の中に彼女は確かに存在しているのに。
温もりはここにあるのに。
彼女の掠れた叫びは、痛みは、俺を切望しているのに。
彼女は意識を失い、俺の声に答えなくなった。
その時、消えるということを、いなくなるということを、肌で感じたのだ。
怖かった。楓がいなくなることが、これほど自分を揺らがすとは思っても見なかった。
きっと、俺は楓がいない世界では生きてはいけない。
そう思うほどの、喪失感と、寂しさだったのだ。
楓は生きているけれど、
また、消えてしまうかもしれない。
彼女が抱えるものは、きっともう、幼い頃の比ではない。
今まで、積み重なったものが露呈したら、決壊したら。
あいつは、どうなるのだろうか。
そうなったとき、俺は楓を守れるか?
再び、繋ぎ留められるか?
「……秋陽にいは、俺ではあいつを支えられないと思っているんですね」
「そうは言ってない」
秋陽は否定しながら瑠依をなだめるように、語気をやわらげた。はあ、と息を吐きながら背もたれに体を預けて。ぎしと長椅子が鳴る。
「楓にとって、お前は一番安心できる存在なんだと思う。身内の俺以上に」
悔しいけどな、と続ける。
そう言われて驚いたものの、瑠依自身は自分を認めることができなかった。
楓にとって、一番安心できる相手が俺なら、楓は何故あそこまで追いつめられるのか。
何故、『限界』を迎えてしまったのか。
瑠依は、自分で握りしめた拳を見つめながら、歯を食いしばった。
「だからこそ、お前にははっきりさせてほしい」
その強く芯の通った言葉に、秋陽も今が踏ん張りどころなのだと、家族を守れるかどうかの瀬戸際に立たされているのだと、知っていて、覚悟を決めようとしている。
そう感じた。
言葉にはしないけれど、もう、家族を失いたくはないのだと。
それはどれほどの重圧か。覚悟か。
その思いの片鱗に触れ、瑠依は思わず拳を握りしめていた。皮膚に爪が食い込む。その痛みが強くなるほど、溢れてくる思い。
楓を、失いたくない。
そのためにも、
楓を守り切れる力が欲しい。
今のままでは駄目なのなら、
「俺は、どうすればいいですか」
瑠依は拳に力を入れたまま深く息を吸い込み、秋陽を見据えた。
秋陽はその力の籠った瞳を見つめながら、一息ついて言った。
「お前は、お前の感情以上に、あいつを優先してやれるか」
秋陽はその言葉を発したとき、その目の奥に得体の知れないものを宿していた。深く、悲しく、そして憎しみのようなものを。
瑠依は、彼の人生を垣間見たような気がして、あの炎天下の空を、楓のあの笑顔を思い出した。
「あいつは、自分の感情を優先して家族をめちゃくちゃにした。自分のよこしまな、自分本位の感情で、母を、妹を苦しめた」
秋陽は忌々し気にそう吐き捨てた。
「あいつ」とは誰のことを指しているのか。
『出ろ』と言ったあのどす黒い声が、瑠依の体の中でこだました。
「もし、お前が楓を女性として意識する時が来ても、そうでなくとも、それが楓を傷つけるものになるとしたら、楓がそれを望んでいないとしたら、お前はそれを抑えられるか」
瑠依は、そう聞かれたとき、自分の中の何かが動いた。しかし、気づかないふりをした。今、その感情は必要ない。そう切り捨てて。
今、秋陽は自分に責任を問うているのだ。
楓を守るという覚悟を。
傷つけるものではなく、守る者になれるかと。
自分本位になったあの父親のようにはなってくれるなと。
楓に『限界』がきているからこそ。
楓が母親の二の舞にならないためにも。
それで、楓が守れるのなら。
彼女の傷が癒せるのなら。
楓が壊れる姿を見ずに済むのなら。
分かりました、と言おうとして、その時、胸が閉まった。
自分の中の何かが消えていくような、抑えられているような、息苦しさと、悲しみが襲ってきた。
それは酷く強く、体が飲み込まれるような衝撃だった。
はっ、と息を吐く音だけが漏れる。喉までが、からからに渇いている。
秋陽は不自然な動きをする瑠依を訝しんで、どうした、と顔を覗き込もうとした。
その時、
「ちょっと、うちの弟いじめないでくれない?死に急ぎ野郎さん」
聞きなれた声がして、瑠依と秋陽は病棟の入り口のほうを振り返った。
かつ、とハイヒールのかかとの音をさせながら近づいてきたのは、まぎれもなく瑠依の姉、紫だった。
「よ」
陽気に手を挙げ、ふわりとした茶髪をなびかせる姉は、あまりに病棟に似つかわしくなく。
白いTシャツにジーンズというラフな格好をした紫は、瑠依のほうへ屈んでいる秋陽に目をやり、にやりと口角を上げた。
「半年ぶりの再会ね。秋陽。ちょっとお話しましょうよ?」
一瞬不穏な空気を漂わせて笑う彼女の姿に、昨夜の酔って荒れ狂った姿を重ね、瑠依はけほと喉を鳴らした。
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