第10話 瑠依と秋陽
待合室のロビーは、酷くがらんとしていた。
すでに日が傾き始めており、外と病院を隔てる大窓から入り込む日差しが、ロビー一帯をオレンジ色に染め上げている。
一時間にバスが一本しか通っていないという、交通の便の悪い病院を訪れる患者自体が少ないのか、それとも診察受け入れ時間を過ぎたからか、待合室に並べられた小豆色の長椅子に腰を下ろしているのは、瑠依と、その斜め後ろでがばっと足を開きながら新聞を広げ、点滴を打っている初老の男性だけだった。
受付の事務員も指定の席で待機しているものの、書類整理などの実務をこなしているのか、呼び出しの気配もない。
時折聞こえる看護師同士の会話と、新聞をめくる音だけが、静けさを掠めていく。
瑠依は長椅子に腰かけながら一人、知らせが来るのを待っていた。何度も受付上の丸時計を確認した。座り続けてもう一時間は経つだろう。
傍らに置いた自分と楓、二人分の学生鞄が瑠依の心を逆撫でる。その片方は僅かに膨らんでいて。もう中身はだめだろう。暖かくなってきた分、食材が腐るのは早い。
それを彼女に預けたのは、わずかな希望からだった。今回は大丈夫なのではないか。彼女は白い扉を開け、自分の母と対面し、その後、「お腹が空いた」と無邪気に用意した弁当の包みを開けるかもしれない、と。
『大丈夫』と言った彼女の言葉に、少し期待していた。虚勢だとは分かっていても、止めたい衝動と同時に、背中を押したい自分もいた。
今年こそ、彼女は解放される。過去から。しがらみから。彼女を苦しめるものから。
渇いた傷口から血が流れることなく、その傷は塞がるかもしれないと。
心から、何の影もなく、彼女が笑えるようになるのではないか、と。
毎年抱いては、かき消されていく希望。
それがいかに甘い考えだったのかを今更ながら思い知る。
それどころか。
それどころか。
彼女の残した温もりと、失った反応と、ガラス細工が割れたような嬌声。
あの日、彼女が見せた笑顔の奥に隠されたものの片鱗。
今日、自分が目にした彼女の姿は。
瑠依は瞳を閉じた。ぼやけ、狭まる暗闇の中で、胸の奥に巣くう、苛立ちとも悲しみとも異なる、言いようのないわだかまりを噛み潰す。
噛み潰して、こぼれてきた想いに、瞼の裏が熱くなるのを感じた。
何でもいい。
早く、会いたい。
「色気が駄々洩れだぞ。無意識に看護師悩殺してくれるなよ」
そんな揶揄するような声に、瑠依は瞼を開いた。
呆れたような顔をした秋陽がそこにいた。先ほど会ったときも思ったが、シュッとした印象を受けるのは、黒い襟付きTシャツを着ているからだけではないだろう。
もともと知性的で、落ち着いた面はあった。それに加えてシャープな大人の雰囲気が出てきた、と言えば聞こえはいいし、女性受けは良いかもしれない。
しかし、1カ月前より、彼は確実に痩せただろう。
瑠依は不安を抱きながら楓の兄に尋ねた。
「楓は」
瑠依が思わず腰を浮かすと、秋陽は手でそれを制止し、瑠依の隣に腰かけた。
「さっきまではカウンセリングを受けてたが、今は精神科の診察中だ」
そう言った秋陽に、はやる気持ちを抑えながら瑠依は尋ねた。
「楓はどうなんですか?」
顔はこちらを向かず、ただ前を向きながら秋陽は答える。
「体のほうに異常は見られなかったらしい。エコーも血液検査もしたが、腹痛や意識混濁の原因となる問題はなく、」
秋陽は一つ息を吐いた。
「やはり心の問題だろう、と言われた」
何故かその言葉に、瑠依は苛立ちを覚えた。思わず身を乗り出し、秋陽に詰め寄る。
「……毎回毎回、ここで診察やカウンセリングを受けて出てくるのは結局その結論ですよね? でも、一向に楓はよくならない。ましてや、あいつはもう、」
「限界だよ」
語気が荒くなった言葉は、秋陽の言葉に吸収された。自分で言うよりも、彼の口から発されたほうが衝撃だった。
『限界』。その言葉の意味。
泣き崩れた楓の姿が瑠依の脳裏をよぎる。
やはり、そうなのか。
「あんなに、壊れそうな楓を、俺は今日初めて見た」
お前が、楓を抱きかかえて駆け込んできたときも、と呟きながら、楓の兄は自分の足元を見つめていた。どうしてよいか分からない、というように。
「カウンセリング、薬物療法、行動療法、EMDR。トラウマを克服するための治療法はどれも試した」
それでも、楓の傷は癒えない。
自分が悪い。自分がいい子じゃないから。自分が、母を殺した。
そうやって自分を責め続ける限り。傷はえぐられ続ける。
彼女の兄が言外に含んだ言葉が、肌に突き刺さる。
彼は、生まれてから今まで、楓の全部を見てきた人だ。彼女が殻に閉じこもる姿を一番傍で見てきた人。
彼は、母を、妹を救うために医者の道を選んだ。
昔から面倒見がよく、責任感の強い人だった。だからこそ、家庭のすべてを背負おうとしている。
瑠依は、その憂う横顔を見つめることしかできなかった。広いようで、必死に踏ん張っている背中を。
「どうしたら、あいつを開放してやれるんだろうな」
秋陽のその言葉に色はなかった。のせる感情を、意味を図りかねているように、迷うように。赤くくすんだ黒く長い前髪だけが、その顔に憂いの影を落とした。
ただ、その時瑠依には、得体の知れないものが秋陽の背後に潜んでいるような気がしていた。
しばらく、二人は沈黙を守っていたが、秋陽がそうだ、と口を開いた。
「お前に聞きたかったんだ。最近の楓、どうしてた?」
多忙な大学院生は、妹の近況を心配した。その口調に引っかかるものは感じなかった。瑠依は、先程の違和感は気のせいだったのかもしれないと思いながら、記憶から楓の姿を引っ張り出す。
「昨日までは春休みの宿題とか、模試の勉強とか、とにかく勉強に時間費やしてましたよ。深夜まで起きてたときは、さすがに叱って寝かせましたけど。朝昼晩はちゃんと食べてたし、急に食欲がなくなったのは昨日の夜と今朝で、」
「……なあ、頼んでたほうがこんなこと言うのも図々しいかもしれないが、瑠依。お前俺との約束覚えてるか?」
急に秋陽がこめかみを抑えた。
それだけで、瑠依は何を言われるのか、大体の予想がついた。今、秋陽を取り巻いている感情は至極わかりやすい。
「覚えてます」
「俺はお前に、部屋で二人きりになるな、って言ったよな? それなのに、深夜にあいつの部屋に行ったのか?」
「行きました」
静かに、それでもはっきりとした怒りの感情をぶつけられるが、瑠依は正直に答えた。多分、楓の食事の面倒を見ると約束したときから、責められることは覚悟していた。
「約束を破ったことは悪いと思っています。でも、あなたがいなくて、楓は今一人なんですよ」
秋陽を責めたいわけじゃない。彼は自分の方法で、家族を救おうとしている。
それでも、結果的に今、楓は家に1人きりだ。母がいた。兄がいた。その部屋で一人になる。
ベランダで、うずくまって、心を殺していた、あの時のように。
寂しさを押し殺して、一人縮こまるくらいなら。
心の奥に影を隠すくらいなら。
隣に、目の届くところに。楓の傍に行かずにはおれない。
「俺はあいつを一人には出来ません」
きっぱりと、これだけは曲げたくないと放った言葉に、秋陽は悲しいような、苛立ったような顔をした。知性のある顔にしわが寄る。
「それでも年頃の娘なんだよ。あいつは。お前だって馬鹿じゃないから分かってるだろ」
「俺が楓に手を出すとでも思ってるんですか」
秋陽が警告するのは分かる。幼い頃のままとは行かない事情が、年月を経るに連れて付属してくることも。
でも、ありえないだろう。そう思いながらも投げた瑠依の問いかけに、秋陽は押し黙った。
彼は、はあ、と顔を抑え、苦いものを飲み込むように背もたれに寄り掛かる。
「手を出す、か。そうだな」
瑠依は、目を見張った。秋陽が本気で自分と楓の関係を疑っていたとは思わなかったからだ。
秋陽は長椅子の縁に首をあて、天井を見上げたまま、ポツリと、しかしはっきりとした声で言った。
「お前ら、付き合ってるのか?」
この話の流れを、不快に感じている自分がいる。瑠依はもやもやとしたものが雪崩れ込んでくるような感覚を得た。
学校の、好奇心にかられた野次馬たちには幾度となくされた質問だ。
だが、幼いころから知っていて、浅くない付き合いを続けている家族の兄に、妹と自分の仲に、邪なものがあると思われていることが信じられなかった。
何をいまさら、と言いたくなる。
「付き合ってませんよ」
揺れることなく言い放った瑠依。秋陽はその言葉に、今までで一番重いため息をついた。
「瑠依、学校で気になる人は」
「いませんけど」
「異性に興味は、」
「なんなんですか」
秋陽の訳の分からない質問に、瑠依は腹が立ち、声をあげた。楓を待っているこの時に、彼女の実兄からされる問いが、何故これなのか。何の意味があるのか。
瑠依の苛立ちを受け止めて、秋陽は瑠依を見た。瑠依の中を覗くように射る視線。そして、その瞳のまま、秋陽は言った。
「不明瞭なんだよ。お前らの関係は」
俺には、それが一番怖いんだ、と言った秋陽の言葉に、瑠依は一瞬固まった。
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