第9話 紅葉と約束
『何してるの?楓』
やわらかくて、真っ白いシーツにくるまれたような感じ、そんなやさしい声が、私の名前を呼んだ。
私はぱっと振り返って、おかあさんを見た。くりくりとしたキレイな瞳は、私を面白そうに伺っていた。クリーム色のつば付き帽子をかぶり、空色のワンピースを着たおかあさんは、私の隣にしゃがみ込んで、握りこんでいる私の手にちらりと目をやった。
私は、秘密がばれたみたいに恥ずかしくなって、素直に母へと手を差し出した。
『あら紅葉』
おかあさんは私の掌に包まれた黄色、赤、茶色、色とりどりの葉っぱを覗き込み、弾んだ声をあげた。
涼しい風がほっぺたに当たって、おかあさんのきれいな髪もふわあと舞った。
『たくさん落ちてたからね、拾ってるの』
そして、そうだ!と恥ずかしさも消えて私は、思いついた。
『おかあさん、手出して』
『手?』
お母さんが揃えて差し出した両の掌に、私はたくさんあるうちの三種類の葉っぱをのせた。
『おかあさんにあげる』
そういうと、お母さんはまたうれしそうな声を出した。
『いいの? お母さんにくれるの?』
『うん。たくさんあるから』
私がこくりと頷くと、お母さんは私のだいすきな、絵本の中のお姫さまみたいな、やさしい笑顔を見せた。
『ありがとう、楓。お母さん嬉しいなぁ』
その言葉に私もうれしくなる。
いつも、お母さんはお仕事で大変だ。パソコンに向かっているときは、ずっとまじめな「おとな」の顔をしているけど、それは「頑張っているしょうこ」なのだと、秋陽にいが言っていた。
だから、「ごはんにしようか」とか「遊びに行くぞー」とはっちゃけた母の姿と笑顔が見れるのは、私の宝物で、一番だいすきな瞬間。
今日はたくさん笑ってほしいなー、とうきうきした私は、そのお母さんの手に添えられた葉っぱを指して、
『お母さんはどれが好き? 好きなの、もっと取ってきてあげる』
と言うと、お母さんは目をぱちぱちさせて、
『お母さんが好きなの? うーん……』
と自分の手の中にある葉っぱたちをじー、と見つめた。
その間に、秋陽にいとお隣に住んでいる瑠依くんが、だだだだ、と地面を駆ける音が聞こえた。男の子は元気。
『お母さんはこれがいいかな』
と、おかあさんは真っ赤な葉っぱを指さしてそっとつまんだ。手みたいな形の鮮やかな葉っぱ。おかあさんはくるりくるりと茎を軸にして回転させた。おもてうら、おもてうら、と回る、回る。
『どうして?』
『一番、秋、って感じがするからかな』
それにね、とお母さんは私のほうへ首を伸ばし、私を見ながら微笑んだ。
『この紅葉はね、楓ともいうの』
まるで、いたずらがばれたかのように、くすぐったげに、口元をふわっと緩めて言った。
そして私は、私の名前が出たことに驚いた。
『私?』
『そう、あなた』
おかあさんは片方の手に「楓」を広げ、その表面を親指でそっと撫でた。
そして、唐突な驚きに、ぽかんとしている私を、やさしい、今までで見た中で一番きれいな眼で見つめた。
『……どうして葉っぱの名前つけたの? きれいだから?』
私がその目を見つめながら聞くと、おかあさんはふふふとほころんだ笑みを浮かべ、目じりを下げた。かわいい、それに、すてき。
『それもあるよ。楓には可愛くて、きれいな女の子になってほしいって願いもあった』
『私、かわいい?』
お母さんの願いにかなっているかどうかわからなくて、私は尋ねた。
『うん。すごくかわいい。周りの男の子が放っておかないんじゃないかなってくらい、かわいい』
おかあさんは楽しそう。そうかな。もし、私がかわいいなら。
『おかあさんの子どもですから』
『ぶはっ。か、楓そんな言葉どこで覚えてきたの?』
まだあなた、4歳になったばかりじゃない、とお母さんはおかしそうに肩を揺らして笑った。
今日のお母さんは、本当によく笑う。嬉しい。この時間がずっとだったらいいのに。
『あーお腹痛い』
おかあさんはお腹を抱えて涙目になった。
え? え? え?
『おかあさん、大丈夫? おなかいたいの? びょういん? ちゅうしゃする?』
私はおかあさんの目に現れた涙にぎょっとして、焦っておかあさんに近寄り、いつも瑠依くんのお母さんがしてるみたいに何度も腰をさすった。
『あ! 大丈夫大丈夫よこれは! 全然痛くないやつ。お母さんは大丈夫よ。むしろ楽しいの』
と、おかあさんは腰をさすっていた私を抱き上げ、ぎゅうと抱きしめた。
『ほんと? おかあさん大丈夫?』
『うん、大丈夫』
お母さんは明るく言って、ぽんぽんと私の背中をたたいた。私はよしよしと頭を撫でて返す。
その様子に、いつも頑張っているおかあさんの姿を思い出して、
『無理しないでね』
私がそう声を掛けると、
お母さんの肩が急に震えて、身体が硬くなった。
しかし、それも一瞬で、その代わりに更にぎゅうと抱きしめられた。
『……ありがとう、楓』
その声が震えていて、詰まったような声で。
おかあさんの顔が、見えない。
『おかあさん、ほんとに大丈夫? 悲しい?』
『ぜんっぜん。悲しくないよ。楓がいて、秋陽がいて……私はほんとに幸せ』
そう言って、頭をくしゃくしゃと撫でるおかあさんの手。
『ほんとに、いい子だなぁ……』
おかあさんが鼻声になった。
また、泣いてる?楽しいのかな?
『……あのね、楓』
『なあに?』
『「楓」ってつけたのにはね、もう一つ理由があるの』
秘密を明かすように、耳元でそっと囁かれる。おかあさんのシャンプーの匂いがした。
『楓がもう少し大人になって、大事なことがわかるようになってから、そのもう一つ、教えてあげる』
『今はだめなの?』
『今は、まだ早いかなぁ。それに、私が恥ずかしいかも……』
おかあさんの言葉の調子が普通になり、安心した私はおかあさんの首に抱き着いた。そして、絶対に教えてもらうために、ぎゅうとおかあさんを抱きしめて、私は念を押した。
『私がおとなになったらだよ、絶対だからね』
『うん。約束』
『やくそく』
もう一つの「私」の秘密。
おかあさんとの「約束」。
***
楓が目を開いた。
「楓?」
楓の傍についていた兄の秋陽が、薄目を開けたまま動かない楓に声を掛けた。秋陽の赤みがかった黒の前髪がゆらりと揺れ、端正な顔立ちは憂いを帯びている。
「大丈夫か、楓」
「先生、藤森さんが、」
秋陽が腰かけていた丸椅子から身を乗り出し、診察室のベッドの縁に手をついて、楓の様子を伺おうとする。
待機していた看護師の一人が、医者を呼びにカーテンの奥に消える。
「…………おかあさん」
楓の色の薄い唇から発されたか細い声に、秋陽の動きは止まった。その表情が陰る。
「…………おかあさんのとこ行かなきゃ」
掠れた、今にも泣きだしそうな声で呟くや否や、楓はベッドから起き上がって裸足のまま立ち上がり、診療室の白いカーテンをシャーと乱暴に開けて、投げ出されたように外へ飛び出した。
「楓!!」
秋陽が叫ぶ声を背中に受け、それでも楓は、ただ病棟の廊下を走った。足を前に出す。ただそれだけ。
消毒液の匂い。
ひんやりと冷たい空間。
暗く光る蛍光灯。
無機質な床。
真っ白な壁。
楓の足はもつれる。それでも前に進み続ける。そうしなければならないように、何かに突き動かされているかのように。
ただただ。ただただ。
足が、ちぎれる。
身体が痛い。
それでも。
そうして、一つのドアの前に着く。
真っ白い長方形のドア。
楓は、全ての動きを止めた。そして、そのドアを前にして立ちすくんだ。時間も止まったかのように、何もかも、微動せず。
乾いた喉と、固まった唇。青ざめた肌
どれくらい時間がたっただろう。
楓の手が動いた。
しかし、その腕はがくがくと震え始める。もう片方の手で震える手首を押さえつけながら、ドアノブに手を掛けた。静電気が走ったかのように、楓の指がびくりと動く。
それでも、そのドアノブを強く、強く握りしめる。
あとは引くだけで開くドア。
それだけで、その先の空間が開かれる。
お母さんに、会える。
病棟の階段を駆け上がり、秋陽と共に駆け付けた瑠依が見たのは、一つのドアの前で崩れ落ち、白いドアの壁にすがって泣き叫ぶ楓の姿だった。
投げ出された足。
壁に爪を立て、しがみつくように力の籠った細い腕。
耐えるように握りしめた拳。
ひくひくと痙攣する喉。
泣き叫んでいるはずなのに、涙の出ない瞳。
かすれた嬌声。
「……っ……おかあさんっ…………ごめんなさいっ……っごめん、なさいっ……」
しゃくりあげた声はまるで赤ん坊のように病棟に小さく響き、
ずるずると沈み込んでいく身体は、今にも消えそうに縮こまり、
そのすべてが痛々しくて。
自らを断罪するように責め立て、自らで首を締めあげているような、そんな贖罪のような姿。
瑠依は、彼女がこのドアの前にいる姿を何度も目にしていた。
この病棟を、彼女が訪れたのは11回。
このドアを開くことなく帰ったのは11回。
小学一年生から、今、高校二年生に至るまで、毎年1回ずつ。
そして、この回数ごとに、彼女は自分自身を裁き、己を呪っていった。
そうじゃない、あなたのせいじゃない、と否定してくれる人は周りにいたとしても。
一番、彼女が自分の罪を否定してほしい相手は、
「楓のせいじゃないよ」と言ってほしい相手は、声も出せない。
ドアのすぐ隣の、真っ白な壁に設置してあるプレートには、
『藤森遥』―――――――――彼女の母の名。
そして、カルテにはこう書かれている。
統合失調症の症状。
自殺未遂経験あり。
病名、遷延性意識障害。
現在、ドアの向こう側にいる、楓の母の意識はない。
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