第40話 屋根の下と一番
秋陽に電話しに行った瑠依が、楓の部屋に戻ってきた。彼は腑に落ちないような表情をしながら首を傾げていた。
「……姉貴が、自分の部屋使っていいって」
その発言の異様さに、楓も首を傾げた。
「秋陽にいに電話したんじゃないの?」
「電話したのは秋陽にいに、だったけど、途中で姉貴が代わってきて……」
「秋陽にいと紫さん、一緒にいるの?」
「みたいだな」
瑠依は釈然としない表情を浮かべながらも、まあいいか、と言って楓を見た。
「許可が下りたし、薬持ってこっちに来いよ」
「……え、でも……」
事も無げに言う瑠依に、楓は傍にあった枕を抱きしめながら渋った。
自分でも何を渋ることがあるのだろう、と思ってはいるのだ。幼い頃は瑞谷家に泊まるのなんてしょっちゅうだったし、子ども四人で川の字になって寝たこともある。
だから、躊躇する必要なんてないはずだ。
遠慮しているから、とかじゃない。迷惑がかかるかもしれない、という思いはあるけれど、躊躇させるのは別の理由からなのだと、楓は勘付いていた。その正体が何なのかは分からないけれど……。
躊躇っている楓の様子を見かねてか、瑠依は楓の座るベッドの隣に腰かけた。楓の身体が反射的にびくりと震えた。
「……楓? どうした?」
その様子に、瑠依が怪訝な顔をする。
自分でもどうしたのだろう、と思う。どうして、こんなに胸がざわめくのだろう。
あの時の気持ちと似ている。安藤君が私に近寄ってきて、私の身体を支えたときと。
でも、あの時は恐怖が勝っていた。今まで触れられた男の人の手の得体の知れなさ。でも、今は、恐怖ではない。これは、何……?
楓は心の中でうーと唸りながら、そのざわめきをかき消した。なんだか、良くない感じがする。
「……分かった。お邪魔します」
かき消した思いを埋めるように、楓は瑠依に頭を垂れた。
「薬、飲んだか?」
瑠依がキッチンから声を掛けてくる。何とはなしに点けたバラエティ番組から目を離し、
「飲んだよー」
と答える。
瑞谷家のリビングルームには、ダイニングテーブルだけでなく、その横にクリーム色のソファとテレビが置いてある。自分の部屋に比べて物が多いはずなのに、窮屈な感じは全然しなくて、むしろ心地よかった。特にクリーム色のソファは楓のお気に入りで、よく座らせてもらっている。落ち着くのだ。ここにいると。
しかし、今日は何故だかそのソファに座っても落ち着くことはなかった。手持無沙汰になりながら、素足の指の間を広げたり狭めたりして、BGMと化しているテレビの音を受け流している。
どうして、こんなに落ち着かないのだろう。いつも来ている場所なのに。いつも、ここでご飯を食べているのに。なじみの場所なのに。
母が入院するようになってから、瑠依の母である律子さんはよく楓と秋陽を呼んでお泊り会を挙行してくれた。当時中学生だった秋陽と紫と、小学生だった楓と瑠依、四人で朝まで喋って、律子さんに怒られて、被った布団の中でふふふと笑いあったりして。
本当に良くしてもらっていたなぁ、と思う。幼い頃は、無邪気にその優しさに甘えていたところもあった。でも今、律子さんに同じ気遣いをされたら、私は純粋に受け取ることができるだろうか。ごめんなさいと、遠慮していただろうか。
私が悪いと。何もかも私が。
さっき自分が見てしまった夢を思い出す。
安藤君のお父さんとお母さんは、どうして安藤君を見捨ててしまったんだろう。彼が悪い子だったから? ……そうは思えない。確かに、最初は彼が怖かったし、得体が知れなかったけど、置いていくほどひどい人には思えない。
もっと話を聞くべきなのだろうか。彼を理解したら、私は自分の罪と向き合えるだろうか。自分の存在に向き合えるだろうか。あの日の答えを出せるだろうか。
楓は、さっきから心がざわつくのは、そのことに引っ掛かっているからなのでは、と思った。
安藤君と話せば、このモヤモヤは解消されるのだろうか―――。
「楓」
「ひゃあっ」
楓は思わず声をあげてしまった。後方から話しかけてきた瑠依はそんな楓に驚いたような目を向けた。
「どうした? さっきからなんか変だぞ」
「そ、そうかな……ちょ、ちょっと考え事をしてたから、かな……」
楓がしどろもどろに誤魔化すと、瑠依は暫く押し黙ってじっと楓を見つめた。
その瞳に、楓はどきりとした。瑠依は既にいつもの寝間着のTシャツとジャージに着替えている。自分も水色のパジャマに着替えている。でも、何故か薄着であることが不安になった。……どうして?
「……なあ、楓」
「な、なに……?」
瑠依がようやく口を開いたと思ったら、今度は楓の座るソファに腰を下ろしてきた。
……な、なんで座るの?
楓の心臓は跳ね上がった。
「安藤ってやつのことを気にしてるなら、それは楓が気に病むことじゃない」
「え……」
楓は瑠依の言葉に固まった。胸のざわめきも掻き消えた。
―――どうして、瑠依が安藤君のことを知っているの。あれは、全部夢だったはずだ。
「……なんで、そのことを知ってるの?」
「なんでって、楓が言ったからだろ」
その言葉に、楓の思考は停止した。組み合わせた膝裏がスース―する。
私が言ったのは、夢の中、じゃなくて、現実……?
じゃあ、「自分が瑠依を縛ってるかもしれない」と言ったのも。
「自分勝手だ」と言ったのも。
自分が「両親をなじってしまった」ことも。
全部、現実で瑠依に言ってしまった……?
全部、現実……?
「……っ」
顔が青ざめる。どうしていいか分からない。瑠依の顔を見れない。頭の中が真っ白になる。
何で、なんで、瑠依は、何を思って、私は醜いところ、知られたくなかったこと、瑠依は―――。
だって、だって、嫌だ。瑠依に拒否されるのは、醜いと思われるのは、嫌われるのは。
「楓!」
瑠依の声が耳元でして、楓はびくりと全身を震わせた。瑠依が楓の肩を掴んでこちらを覗き込んでいる。
駄目だ。瑠依の顔を見れない。だって、私は。私の醜いところを、瑠依に知られて……。
「落ち着け。楓」
瑠依が楓の身体を揺さぶって、目を合わせようとしてくる。
嫌だ。その目に、少しでも私を軽蔑する色を見てしまったら。
見てしまったら、私は。
軽蔑の眼差し。否定の瞳。何度、何度行っても、私の声は届かなかった。
お父さん。
———私は、お父さんにとって最後までいい子になれなかった。
もう否定されるのは嫌だ。もう嫌だよ。
大好きな人に拒絶されるのは、もう。
唐突に、全身を温かいものが覆った。
それが、瑠依の身体だと理解するのに、時間がかかった。
でも、それは、幾度となく感じてきた熱だった。
母の病院に行く道すがらでも、精神科にかかった後でも、『家族』だと言ってくれた時も、そして、あの夢の中でも。
あの夢は、確かに現実だったのだ。
今感じているこの熱が、そう教えてくれる。
彼は言った。精神科の帰りに。「嫌いにならないよ」と。
そして、さっきの夢でだって。あんなに酷いことを言ったのに、幻滅されても仕方ないのに。
それでも彼は、抱きしめてくれた。その熱を分けてくれた。
ずっと、「変わらないもの」が、「離れない存在」が欲しかった。
『家族』にそれは叶わなかった。
母も、父も、秋陽すら、今は傍にいない。私が何もできないから、不甲斐ないから。期待に応えることができないから。
でも、瑠依なら。『家族』だと誓った瑠依なら、「離れない存在」でいてくれるのだろうか。
どこにも行かないでいてくれるのだろうか。
「……落ち着いた、か?」
瑠依が楓の様子を伺おうと抱きしめた腕を離しかけた。その腕を楓は引き戻した。
触れていて。離さないで。独りにしないで。
赤子は親からの愛がないと死んでしまう。誰からも愛されず、温もりを感じずにいる赤子は、死んでしまう。
楓も、生きるために瑠依の温もりを求めた。行かないで。私を見て、と。
ふと、楓の脳裏に昼間の女子生徒の言葉がよみがえってきた。
『私は彼の一番になりたい。もしそうなったら、あなたは私の存在を受け入れてくれますか?』
怖い。それは、怖い。とてつもなく。
恐れて、自覚した。私が、瑠依の一番でありたい、と。
一番であれたら、私はずっと瑠依の傍にいられる。
そう思いながら、楓は瑠依の胸に顔をうずめた。
それが何を意味しているのか。その感情を何と呼ぶのか。
この時はまだ、気づかずに―――ただ身を委ねて。
***
「それで、ずっと一緒に寝てんの?」
美園は窓辺の縁に頬杖を突きながら、結論を言った。
ついさっき瑠依が一部始終を伝え終えたところだった。
「お前が言うといかがわしい意味に聞こえる」
「受け取り手の問題なのよ。このむっつりスケベ」
美園はしらーとした目を瑠依に向けた。それは憐れんでいるようにも蔑んでいるようにも取れる目だった。
「それで、ほんとに手は出してないの?」
「出すわけないだろ」
「……よくもまあ、そんな生殺し状態で耐えられるわねー」
美園の言うことにも一理ある。
瑠依が楓を自分の家に泊めるようになってから、楓は紫の部屋ではなく、瑠依の部屋で寝るようになっていた。同じ屋根の下でというだけでも精神的にきついのに、まさか同じ部屋で寝るなんてことになるとは思っていなかった。
あの夜から楓はどこかおかしかった。前からも自分から離れまいとする姿勢は見て取れたが、最近はそれが顕著になってきている。だから、夜も離れたがらないし、挙句の果てには「手、繋いで」とまで言われて、夜中の間ずっと繋がれっぱなしの手はもう限界だ。肉体的にも、理性的にも。
「……まあ、あんたが楓を独りにしたくない気持ちも分かるけどね」
美園がため息を吐きながらくるりと回転した。
隣で佇む瑠依を見上げながら、言い放つ。
「でも、その我慢大会いつまで続くの?」
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