第39話 暗闇と電話
部屋の電気も、ベッドの脇にあるランプの灯りも、全て消した。
今この空間で、必要なのは互いを感じるための五感だけだった。
いつも減らず口をたたく紫が、唇を薄く開いたまま、静かにこちらを見つめている。その瞳には、これから行われる行為に対する不安と期待が入り交じっていた。栗色の髪は、白いシーツの上にさらさらと広がり、まるで波のようだった。頬は月明かりに照らされて白く光っている―――その美しさに何故か目頭が熱くなった。
闇の中で、おぼろげな紫の輪郭へと手を伸ばす。さらりとしたワイシャツの布地と、柔らかな感触を掌に感じ、指の腹でそっと撫でる。
すると、紫が息を漏らした。その性格からは予想もできないほど儚げで艶やかな声が密やかに響いた。
紫へと顔を近づけると彼女の瞳が潤むようにこちらを見上げている。その瞳に、身体の火照りは一気に高まって、倒れ込むように彼女の体に覆いかぶさった。柔い唇を食み、溢れる吐息ごと飲み込んでいく。
落ち着いていた息が荒み始めると、紫の腰に乗せていた掌をワイシャツと肌の間に滑り込ませる。びくりと身体が強張る気配がしたが、拒むような仕草もなかった。
そのまま進めようと、掌を上に滑らそうとしたその時。
秋陽のスマホが鳴った。
財布と一緒にガラステーブルの上に放っていたそれは、振動でガラスを揺らし、普段よりも大きなバイブ音を立てて秋陽を呼んだ。
電源を切っておけばよかった、と思いながらそのまま行為を進めようとした刹那。
今度は秋陽のものではないスマホが鳴った。その着信は秋陽でも聞いたことのある英語の曲だった。確か讃美歌だった気がする……。
バイブ音と讃美歌の合唱に、諦めたのは紫だった。
「はい。どっちも出る」
先ほどの雰囲気はどこへやら、淡白に指示を出して紫はベッドから起き上がり、自身のスマホを取り、耳にあてる。
「はい。もしもし?」
紫が電話越しに話しかける姿を横目で見ながら、秋陽もしぶしぶベッドから重たい腰を上げ、不快に揺れるスマホを取る。
液晶画面を見ると、そこには『瑞谷瑠依』の名前が表示されていた。
どうして、よりにもよって弟からの着信なんだ。
秋陽はまだ熱の残る体に居心地の悪さを感じながら、重たい気分で電話に出る。
「瑠依か」
「秋陽にい、今研究室ですか?」
受け取った瞬間、瑠依から答え難い質問をされ、秋陽は再び息を詰まらせた。
「……今は所用で別の場所にいる。どうした、なにかあったのか」
誤魔化しながら用件を問うと、今度は電話の向こうで瑠依が押し黙るような気配がした。
「……どうした?」
秋陽が念を押すように問いかけると、瑠依は重々しく口を開いた。
「秋陽にいは、今日家に帰ってきますか」
「いや、今日は……帰らない」
秋陽が濁した声に、そうですか、と瑠依は言った。
「帰らないなら、楓はうちで預かります」
突拍子もない言葉に秋陽はフリーズした。瑠依の発した言葉の意味が飲み込めなくて、は? と返すと、瑠依が追い打ちをかける。
「楓を独りにするのはやっぱり無理です。秋陽にいが帰ってこないなら、楓は今日も家で一人になる。そんなの見過ごせない」
「……ちょっと待て。それは、この前の約束も踏まえたうえでの判断なのか?」
「はい」
よどみのない返事に、秋陽は頭を抱えた。
……どうしてこいつは、俺が危惧していることを惜しげもなくしようとしているのか。
「……相手がお前でも駄目だ。そうするくらいなら、親戚のところに預ける」
「それじゃあ、楓がもっと傷つくだけです」
強い声で反論する瑠依に、秋陽は頭痛を覚えた。
自分が危惧していること。
それをどうして、一番傍にいるはずのお前が分からない。
一番傷つくのは、楓が家で独りでいることじゃない。
彼女が、
「……なあ、瑠依。お前の気持ちは変わってないのか」
もし、お前に楓を女性として見ている気持ちがあるなら。それは、
「……変わっているかもしれません」
その答えに、秋陽は息をのんだ。
恐れていることが、自分の後ろにまで迫ってくるような感覚がする。
「……それは、楓を女として好きだってことか」
瑠依はなにも言わない。しかし、それが答えだった。
秋陽は首を振って、駄目だ、と拒否する。
「それなら尚更楓をそっちに寄越すわけにはいかない」
瑠依は楓の理解者だ。一番の、と言っても過言ではない。
だからこそ危うい。二人の間にある感情が信頼だけなら良い。
けれど、信頼と愛は紙一重だ。それが異性の間であれば、尚更。
いつ、どんなとき、情愛に傾くか分からない。信頼が強ければ強いほど、その思いが傾いた時の反動は計り知れない。
そして、その片割れの瑠依は、楓を女性として見てしまっている。
危険すぎる。
秋陽の全身が警鐘を鳴らしていた。
楓は清いままでいなければならない。穢れのない、純粋なままでいなければ。
気づいてしまう。自分の出生の可能性に。どうして自分が生まれたのか。
もし、楓がそれに気づいたとしても、————俺には説明できる術がない。守ってやれる術がない。
瑠依、それがお前にできるのか。
その時が来ても、楓を守れると言い切れるのか。
考えているものの重圧に、ぐらっと視界が揺らぐ。
眩暈だ。そう気づいた時には秋陽はガラステーブルに足をぶつけていた。鈍い痛みが走る。
しかし、そんな痛みにも構ってはいられない。
こいつに隠し通すことはできないのかもしれない。いっそのこと、事情を説明してしまえば、瑠依は分かってくれるかもしれない。
「……瑠依」
秋陽がおぼろげな思考の中、全てを打ち明けるという苦渋の選択をしようとした刹那、
「代わって」
後ろから手が伸びて、秋陽のスマホはその手に奪われていた。
紫だった。
「おい……」
抵抗の言葉もむなしく、紫は素早くスマホに声を掛けた。
「瑠依。そこに楓ちゃんはいるの?」
「……姉貴?」
スピーカーモードにしたのか、紫が掲げたスマホから瑠依の声が聞こえてきた。
「何をして、」
「いいから、あんたは黙ってなさい」
紫がぴしゃりと言い放つ。秋陽は呆然とすした。だが眩暈が酷く、抵抗する力も残ってはいない。
そんな中で、紫は実の弟と会話し始める。
「ここに楓はいない。いたらこんなこと言わない」
「楓ちゃんが好きってこと? あんたもようやく自覚したのね」
さらっと言い放った紫に、戸惑う瑠依。どうして姉が秋陽の電話に出たのか、見当がつかないのだろう。
「楓ちゃんを預かるって話だけど、それは今日だけ?」
「……秋陽にいが帰ってくるならいいけど、帰ってこないなら、暫くうちで預かろうかと思ってる」
「そう。それなら、そうしなさい。秋陽は当分帰れないから。あ、私の部屋使っていいって楓ちゃんに言っておいて」
「お前何勝手なこと言って……」
「いいから。瑠依、くれぐれも楓ちゃんをよろしくね」
声を上げようとした矢先、紫は素早く言ってのけると電話を切ってしまった。
また、眩暈がする。さっきよりも強い。
「……なんで勝手に許可するんだ」
恨みがましい声をあげると、紫はごとりとスマホをテーブルに置いた。
「暫く秋陽はあの家から離れたほうが良い」
紫はそう断言すると、ベッドの縁にもたれ掛かって頭を押さえている秋陽のほうに近づいていき、その左手を取った。
そして、グレーのパーカーの袖をぐいと捲る。
「いつから、してるの」
そこには何本もの痣があった。刃物で斬ったと分かる傷。
秋陽はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
こいつに誤魔化しは通用しない。
「……大学の時から」
素直にそう告げると、紫はふうとため息をついた。やり場のない思いを吐き出したようだった。
「家でしてたの」
秋陽は黙ってうなずく。
「限界なんでしょ。身体も心も」
そう言いながら、紫はしゃがみ込んだ秋陽の傍で自分もしゃがみ、そっと秋陽の髪を撫でた。
「あの場所が、秋陽を苦しめるものの原点なら、秋陽はあそこにいないほうがいい。一旦離れるべき。離れて、整理するの。自分が抱えているものは何なんのか。どうしたら、それを解決できるのか」
「解決できるほど単純じゃない」
秋陽は苦しげに言葉を吐き出した。
どうすればいいのか、それは自分が
ただ、自分は独りなのかもしれないという思いと、楓がこの可能性に気付いた時何を思うのか、ただそれだけが頭の中をループして離れなかった。
自分は、楓の兄でありたい。信じていたい。でも、そうじゃないかもしれない。兄妹じゃないかもしれない。
今まで、ずっと、そんなことがあるはずはないと蓋をし続けていた。自分の大切な母を、妹を、家族を、守らなければならないと思って今までやってきた。
でも、見ないように蓋をして、頑張るたびに、その反動は大きくなっていった。そのたびに、母に対する疑念も高まっていって―――。
「ねえ、なんでそもそも、楓ちゃんと兄妹じゃないなんてことになったの?」
紫が髪をすきながら尋ねてくる。その優し気な仕草に、また彼女に触れたくなる。でも、行為に及ぶには興が削がれてしまった。
そして、紫の質問に、思い出したくもない過去を想起して、胸やけがする。
自分の中ではっきりしているのは、あの男に対する憎しみだけだ。それだけは自分の中にあると断言できる。それほどまでに、俺はあいつが憎い。
「……あいつが初めて家に来たのは、楓が五歳の時だった」
考えるだけでもはらわたが煮えくり返りそうになる。
急に訪れて、家庭をめちゃくちゃにしていった男。
たくさんの傷を残して去っていった男。
「それまでは一度たりとも家に戻ってきたことはないんだよ。完全に姿をくらましてた。それなのに、楓は生まれている」
その事実が示すこと。それは一つしかない。
「つまり、遥さんは別の男の人と接触したってこと? その間にできたのが楓ちゃんだって?」
気遣うような声が響く。本当に紫にしては珍しい。でも、その気遣いに秋陽は笑ってしまった。
自分に対する嘲笑なのか、それとも、大人という身勝手な存在に対する嘲りか。
「おかしいと思ったのは中学生だった。男子のほうが、そういう情報を知るのは早いからな」
それで、家庭に、母に疑いを持つようになったなんて、本当にどうかしている。
好きな女子は誰かとか友人が色めき立っているそばで、自分は気づきたくもない可能性に足を踏み入れてしまったのだから。
だから、怖い。
気づくのは、疑念が頭を掠めていくのは一瞬だ。
楓が自分の存在に疑問を持ってしまったら。おかしいと感じてしまったら。自分が
今度こそ、楓は自分の居場所を見失う。
自分のように。
「……そんなことに、なってほしくない」
秋陽は消え入るような声で呟く。蚊の鳴くような声だった。
そんな秋陽の頭を紫はそっとかき抱いた。
安らぐ。少しでも。秋陽ははっと息を吐いた。言葉で慰められるよりも、こうして触れてくれことが有難かった。自分は一人ではないのだと思える。
その温もりに、秋陽はおずと手を伸ばす。
その伸ばされた手を取り、紫は幾重にも刻まれた傷に口づけを落としていく。
「傍にいるから。私は、秋陽の傍にいる」
そう囁かれた言葉に、秋陽は追いすがるように紫を抱きしめ口づけた。何度も何度も。存在を確かめるように。
紫は秋陽の頭を撫でながら、その口づけに答えていった。
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