第21話 模試と進路
お昼時だ。先生が思い思いに自分のデスクで昼ご飯を食べているせいか、海苔の匂いが微かにしてきた。楓は一つのデスクの上にあるポッキーをちらりと見た。先生だから糖分が必要なのかな、と思いながら、真ん前に座る間宮へと向き直る。
担任の間宮先生は、楓が一年生のときも担任で、面倒を見てくれていた女性教諭だ。快活で物事をすぱすぱ決める思い切りの良さがあって、去年の合唱曲を決める際、候補の二曲間で揉めていた生徒を一蹴し、「じゃあ多数決で」とにべもなく言い放ったことがあった。しかし、こだわるときはとことんこだわるし、面倒見はとてもいい。こうして定期的に面談を行い、生徒の状況を知ろうとする教師は数少ない。
髪は無造作にポニーテールで纏められ、その束も鬱陶しいのか頭の上のほうにピンを指して止めていた。お団子にしないのかと聞いた際、そんな可愛らしいものはガラじゃないからこれでいいのだ、と言っていた。スーツのワイシャツを着こなした姿は、まだ20代後半に見える若々しさを放っていたが、実は30代なのだと知って驚く生徒は少なくない。
生徒にも慕われていて、楓にとってはお世話になっている先生だった。そして今年もお世話になる先生。
「あったあった。これ、藤森の模試結果」
間宮のデスクは、どの先生と比べても整頓されていると言っていいほど、その上に一切無駄なものがなかった。だからだろうか、ドンと置かれたクラス全員分の模試結果の用紙の山が余計に存在感を放つ。その中から間宮は真ん中のほうをぺらぺらとめくりながら、一枚の紙を抜き取った。
そして、間宮はそれをじっと一瞥した後、楓に手渡した。楓はその用紙を受け取ると、自分が志望校として書いた大学がずらりと並んだ箇所を見つめる。
暫く眺めていた楓に、時間をおいて間宮が尋ねる。
「本当に第一志望はそれでいいの?」
「はい」
その質問に即答すると、間宮はそうか、と言って椅子の背もたれに背中を預けた。ぎしと結合部分が鳴る。
「これはさ、藤森の合格が厳しいから言うんじゃないってことは念頭に置いてほしいんだけど、他の選択肢だっていろいろあるのよ。国立だってこの辺にはいくらでもあるし」
そう言いながら、間宮は楓が持っている紙をよこすように促し、楓はそれに応じて間宮に用紙を渡す。
間宮は受け取った用紙をデスクの中央に置き、楓にも見える様にと椅子をずらした。楓はずれて空いた部分に椅子ごと移動させて近寄る。
間宮はとん、と長く細い人差し指で用紙の一か所を指し示した。
そこには、第一志望。東京大学、理Ⅲ、と見間違えようもなくはっきりと書かれている。
判定はE判定。
「藤森のお兄さんも東大行ってるわよね。志望動機はそれが大きいの?」
間宮は楓のほうに体を向けながら尋ねる。楓は、あの、と言った。
「それもあります。でも、一番上の国立大学で、医学部じゃないといけない、っていうのが第一の理由です」
「いけない」と言った楓に、間宮は内心でため息をつきたくなった。高校二年生で志望校に具体的な目標や夢を見出す生徒は珍しい。
けれど、楓の意志はそういうのとは違う。根本から。自分の志望校は誰かに強制されているように、一年のころから揺らがず。「行きたい」でないことに、間宮はひどく心苦しさを感じた。
そして、これを切り出すのも心苦しかったが、担当の生徒のプライベートに首を突っ込まざるを得ない時が、教師にはある。
「医学部なのは親御さんが関係しているの?」
楓はその時、びくりと肩を震わせた。
この子はいつもそうなのだと、一年生の時から見ている間宮は痛々しい思いが湧いた。
楓は暫く押し黙った後、消え入るような小さな声で、
「……はい」
と返事をした。
何と答えてあげてよいか一瞬迷いが生じるが、間宮は特にこの生徒には向き合ってあげなければならないと思っている。だから、迷いを断ち切るように唇を動かす。
「そういう気持ちも大事だとは思う。確かに親御さんのことは心配だろうし、自分が何とかしなければ、と思うのは親孝行だと思うよ。でも、一番はさ、藤森がどこに行きたいか、なんじゃない?」
彼女にこう言ってしまうのは、本当に心が断ち切られるような思いだった。彼女の家庭環境、経済的な問題、彼女の背後には高校生の心身では受け止めきれないほどの問題と現実がのしかかっている。それを、一教師の自分ではどうしてもあげられないというのは、10年もの間幾度となく感じてきたことだったが、彼女の場合その思いは一潮で、ただただ悔しかった。
でも、だからといって、彼女の人生から目を逸らすことはできないし、教師としてすべきことではない。
「ありがとうございます。先生にそういってもらえるのは嬉しいです。でも、やっぱり大きなお金が必要になる大学はいけないし、それに努力して行けるならやっぱりここがいいです」
目の前の生徒は、その顔に硬さを滲ませながら言った。
本当に、それでよいのか、と聞きたくなるようなそんな表情。
彼女が努力するなら、とことんまで努力するだろう。自分の体も顧みないほどに。
それが、高校生活として、教師が薦めるべき姿なのか。藤森楓の人生の一期間として、また一生に関係するであろう大学という進路は、重要であることは思い知っている。
ターニングポイントとも言えるほど大事な期間。
今彼女が出した道筋が、本当に彼女にふさわしい道なのかどうか、間宮には判断しかねた。
柔軟になって考えていてみてほしい。
あなたの人生はこれからなのだから。
急いで決めなくてもいい。ゆっくり考えていけばいい。
急ぐ必要はないのよ。
掛けたい言葉はいくらでもある。しかし、それが今彼女にかけるにふさわしい言葉なのかは分からなかった。
今はこれ以上言うことができない、と間宮は苦々しい思いを抑えながら、「分かった」と言って楓に模試結果を手渡した。
楓は「ありがとうございます」と受け取り、その表情に一瞬だけ落胆の色を宿した。
E判定は誰だって堪えるだろう。しかも、目指すところが目指すところだけに、その道のりは果てしなく遠い。
それでも、藤森は止めることはないのだろう、と間宮は思う。
彼女が職員室を出る前に、間宮は一つのことを思い出して彼女に声を掛けた。
「体調は大丈夫なの。病院には行った?」
彼女は始業式中に倒れた。自分が保健室まで担いで連れて行った。女性の自分でも運べてしまうことに、間宮は驚くと同時に、それほど肉がないのだと心配になったのだ。そして、あの時彼女は確かに意識を失っていた。そんなことはめったに起こることではない。肝が据わっていると自分で認識している間宮でさえ、血の気が失せた。
無理していることは明らかなのに、それを止めることができない自分が、また歯がゆかった。
「はい。もう大丈夫です。病院にも行って、薬も貰いました。ご心配おかけして、すみませんでした」
楓は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて、それ以上の追及を逃れるように、足早に職員室の扉を開けて出ていった。
間宮はふうとため息をつき、背もたれに体を預けた。
これでよかったのだろうか。自分は、彼女にまだ何か言ってあげられることがあったのではないだろうか。
そんな思いに目がきゅうと痙攣し、間宮は鼻筋をつまんだ。
「間宮先生、一杯いかがですか」
急に横から声がかけられて振り返る。先ほどまで楓のいた場所に、黒縁眼鏡をかけた白衣姿の男性が立っていた。その両手には白とレモン色のマグカップが握られている。
「遠山先生、ありがとうございます」
湯気が立ち上るマグカップを差し出され、レモン色のほうを両手で受け取る。まだ肌寒い春先の空気に、この暖かさは嬉しかった。
「レモンティーですね」
湯気の匂いから、甘さと酸っぱさが香った。
「糖分も必要ですからね」
遠山はにっこりと笑うと、自分のマグカップに口をつけた。
その姿を見つめながら、間宮はそうだ、と腰を上げる。
「先日は、うちの生徒がお世話になりました」
「いえいえ。今さっきいた子ですよね。藤森楓さん」
今学期、保健医として着任してきたばかりの、まだ青年とも呼べそうな容姿の彼に、間宮はええ、と頷く。
「昨日のように、倒れることはよくあるんですか?」
「いや、意識まで飛ばすのは、先日が初めてです」
前任の中島先生との引継ぎがちゃんとできていないのだろうか、と間宮は思った。
藤森楓は、この学校の中でも注意しなければならない、として挙がっている生徒の一人だ。それは、問題行動を起こすとか、そういったことでの注意ではなく、家庭環境といった問題を抱え、またその身にも問題が根付いてしまっているような、教師としては気にかけなければならない生徒だった。
そして、彼女は去年も体調を崩し、何度も保健室のお世話になっている。
だから、カルテや今までの記録を見れば分かるだろうに、と思いながらも、まだ新任ということで目を瞑っておく。決して注いでもらったレモンティーに懐柔されたわけではない。
そのとろりとした液体に口をつける。その甘さと暖かさに固まっていた心身がほぐれるようだった。
「そうですか。病院には行ったと言ってましたね。良かった」
遠山はずずっと飲みながら、そう口にした。
先程の会話を聞いていたのか。
間宮は彼を食えない青年だと認識しながら、そうですね、と答えた。
「遠山先生、また藤森が保健室でご厄介になることがあったら、その時は詳しく聞き出していただけるとありがたいです。こちらも、認識していないわけにはいきませんから」
「分かりました。明日にでも聞いておきます」
遠山はその時、にっこりと意味ありげに笑った。湯気で黒縁眼鏡のレンズが曇っていたので、その表情は間宮には分からなかった。
「それにしても、藤森さんは東大を目指しているんですね」
その言葉に、どこまで聞いていたのかと間宮が呆れて口を開けてしまったところに、
「あの兄弟は、色々大変でしょうね」
と、一人の男性教諭が割って入ってきて、二人は意識をそちらに向けた。
もう50は超えているだろう、白髪交じりの髪を整え、黄土色のセーターを着たその先生は、間宮の反対に位置するデスクに座っていて、積み上がった資料の隙間から顔を出していた。間宮と同じ二年生の担当で、確か四組の担任教師である。
「渡部先生は、藤森のお兄さんも見ていらしたんですか」
「そうです。懐かしいな。あの頃はね、癖のある生徒が多かったんですがね、メガホン持って屋上で叫びだしたりする女子生徒がいたりして」
どれほど衝撃的だったのか、渡部ははっはっはっと腹式呼吸のように笑いながら、書類の隙間から愛嬌のある皺だらけの顔をのぞかせた。
「藤森秋陽もその中でも飛びぬけて癖のある生徒でしたね」
「確か、生徒会もしていたんでしたっけ」
藤森秋陽は、この学校の歴史の中でも、東京大学の医学部に合格した生徒として記録されており、教師の間でも名をはせている。
旧帝大に合格するだけでも立派なものだったが、天下の東京大学、しかも最難関と言われている理Ⅲに合格したのだ。注目を浴びないほうがおかしい。
しかし、間宮はそれが楓のプレッシャーになっているのではないか、と思案していた。
「どんな生徒さんだったんですか」
遠山が間宮の机の上に白いマグカップを置き、渡部のほうへ身を乗り出しながら聞く。
間宮もそれは聞いてみたいと思い、レモン色のマグカップをデスクにおいて真剣に聞こうと身構える。
渡部は昔のことを思い出すように、皺が刻まれた目元を細め、虚空を眺めた。
「遠山先生とは同年代なんじゃないですかね。……とにかく、愚直で、我が道を突き進むという感じの生徒だったんですが、高校生らしくない大人びた雰囲気がありましてね」
楓にも言えることだと間宮は思った。家庭環境がそうさせるのか、それとも遺伝なのか。彼らの上には、大人の自分たちでも想像を絶するような環境が、今も続いているのだろう。
そう思いながら、渡部の話を聞くことは、自分の責務でもあるかのような、そんな感覚を間宮は得ていた。
渡部は目を細めたまま、言葉を続ける。
「東大に合格しても、ああこの生徒だったらやってのけるだろうな、という風格がありましたよ」
「そんな天才肌だったんですか?」
遠山がそう尋ねると、渡部は急に顔を顰めた。まるで、思い出したくないことを思い出したかのように。
そして今までの雰囲気とは打って変わって、重々しく口を開いた。
マグカップから立ち込める湯気が、三人の間で天井へと昇っていく。
「いえ。それとは違いますね。たまに出てくる、何をやっても上手くやってのけてしまう生徒とは、彼は根本的に違っていた」
皺だらけの唇が言葉を紡ぐ様はゆっくりとしていて。噛みしめる様に。刻み込むように音に変わっていく。
「藤森秋陽は、努力家という表現すら逸脱するほど、自分を酷使して東大に入った、と思っています」
その言葉が、間宮には恐ろしく聞こえた。そして、それが現実なのだと、間宮は頭の隅で冷めた自分の存在を感じていた。
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