第42話 児童養護施設と曇天


 パトカーの音。

 その音を聴くと今でも思い出す。鮮明に。俺が親に捨てられた夜のことを。




 

 狭いアパートの隅っこで、薄いブランケット一枚だけを羽織って眠っていた子どもは、母親と男の言い争っている声で目を覚ました。僅かに開いた扉から、灯りと共に声が漏れてきているのだ。

 空はまだ闇色で、雨が降っていた。雨が地面へと静かに消え入るような音が、曇りガラス越しにむなしく響いていた。


 夜中に母親が誰かと言い争うのは日常茶飯事だった。母親が家に連れてくる男は、その子どもから見ても誰も彼もがろくでなしだった。時折、子どもに飴玉をくれる男もいたが、彼の意識はすぐに母親に向いた。そして、彼は一日もたたないうちに母親に暴力をふるい、出ていった。

それでも、母親は変わらない。すぐに別の男を連れてくる。どうして母親がそんな男ばかりを好きになるのか、子どもには分からなかった。

 手榴弾のように鋭く、危うく、いつ爆発してもおかしくない言い争いは、子どもの父親が出て行ってから毎夜続いている。でも、朝になれば沈静化しているのだ。荒れた部屋を片付ける母親の背中は寂しくなるほど細かった。


 今夜も子どもは耳を塞いで、我慢していればいいと思っていた。何か言えば、母親の火の粉が自分に向くことを子どもは知っていたから。

 しかし、この時は違っていた。声にならない金切り声を母親があげ、がつっと鈍い音が響いた。そして、煙草の匂いが濃くなった。母親の匂いだった。

 それは子どもが最後に嗅いだ、母親の匂いだった。


 そしてその後、子どもは訳が分からないままに、勝手に家に侵入してきた大人に連れられていった。自分の知らないうちに手続きがなされ、


 彼———安藤棗は、その日から児童養護施設の子どもになった。



 ***



 どんよりとした雲が空を覆っている。この日の気象情報では、昼から各地で雨が降りだす、と言っていた。


 安藤はごっちゃに駐輪された自転車の中から自分のものを強引に引き出した。雨が降るなら歩きで行こうかと思ったが、この時間帯で歩きは流石に遅刻だ。

 


「今日もちびたちは元気か?」



 後ろから声が掛かった。安藤が振り返ると、そこには箒を持ち、灰色の繋ぎを着た男性が立っていた。齢は50代ほどだろうか。顔の小じわが目立っている。

 児童養護施設といっても、建物は別段他の家と変わらない。クリーム色の壁と、オレンジ色の瓦屋根の板って普通の住宅だ。ただし年季の要りようは他の家とは違っていた。築20年ほどはする建物は、お世辞にも綺麗とは言い難い。その右隣にある駐輪場や車庫も使い古され、錆びが目立っている。敷地だけは広く、だだっぴろい庭は青々とした雑草の生息地となっており、まるで廃屋のような風葬を呈している。


 その男性は、禿げたクリーム色の壁を背景に立っていた。灰色の繋ぎが浮いて見えた。


 安藤は自転車を固定しながら、その男性に苦笑した。



「今朝も圭太にケチャップかけられましたよ。ワイシャツにシミまで作りやがって、あいつ……仕事増やしてすいません、能海さん」


「子どもは元気なのが一番だ。しっかり洗っておく」


 

 安藤が能海と呼んだ男性は、口数少なく答えた。

 彼は、ここの児童養護施設の職員だ。

 家事全般をこなす、いわゆる雑用係。

安藤はここに張り付いているカースト制度をある程度理解していた。預けられている未成年児の中で、自分は一番古巣だ。ここの空気はもう読める。

ここの大人は信用できない。いや、人は信用しない。そう決めた。から。そうやって自分を守ってきた。

 そんな中でも、安藤はこの皺だらけの能海のことは嫌いにはなれなかった。何故かと問われれば答えようがないが、口数の少ないこの男性は、ある日突然現れて、ここに住み込みで働くようになった。何か事情があるのか知れないが、安藤は、既にここの空気になっている彼に対しては、警戒しなくてもいい気がしていた。こうして接していることも苦じゃない。


 だからと言って、自分の殻を剥くつもりもないけれど。


 安藤は変わらない笑顔を能海に向けると、



「じゃあ、能海さん、いってきます。ちびたちお願いしますね」


「はい。いってらっしゃい」



 自転車に跨り、学校へ向けてペダルを漕いだ。




***



 安藤が教室に入ると、もう既に楓が教室の中にいた。

 窓際の一番後ろの席が彼女の席だった。月初めに席替えをして、幸運にも安藤の席と真向かいになった。

 何かと邪魔をしてくる美園はまだ来ていないようで、安藤はここぞとばかりに彼女に話しかける。

 


「おはよう、藤森さん」



 彼女は安藤に気付くと、びくっと明らかに肩を強張らせた。



「お、おはようございます」



 安藤は最近の彼女がよそよそしいことに気付いていた。

 警戒が解かれた、と思う時もない訳ではなかった。むしろ肩の接触を許してくれるほど受け入れてくれた時期もあったのだ。しかもそれはつい最近のことで。

 それなのに、ここ数日の彼女は、知り合ったばかりのころのように自分に対して警戒を見せる。彼女にそうしているつもりがあるのかは分からないが、明らかに挙動不審で、自分との接し方を図りかねているようだった。

 しかし、拒まれはしない。それならば、自分は引かない。たとえ、彼女の性格上拒むことができないだろうと分かっていても。


 安藤は頭の中で冷淡に考えながら、楓のそばにしゃがみ込み、机に手を添えた。



「藤森さんさ、俺のことで誰かになんか言われた?」


「え……」



 彼女は目を見開いて安藤を見た。彼女は嘘が付けない。その動作で何となくわかる。

 やっぱりと思いながら、安藤は心の中で舌を舐める。考えられるとしたら……。



「美園?」



 安藤は答えやすいように軽口で尋ねるが、楓はえっと、あの、と困ったように首を傾げるだけだ。この線はない、か。



「じゃあ、藤森さんの幼なじみ?」



 そう尋ねた瞬間、楓は驚いたように目を丸くした。そして、はっとしたかと思うと俯いてしまった。

 そっちか。

 安藤は自分の思考が冷めていくのを感じながら、楓の顔を覗き込んだ。



「藤森さん、誰に何を言われようとさ、決めるのは自分でいいんだよ」



 自分の人生を決めるのは、じゃない。誰にも、自分の人生は邪魔させない。翻弄させない。

 自分はそうやって生きてきた。そして、それが正しいのだと確信がある。

 だから、他人の思いのまま、行動を強いられるのが一番嫌いだ。


 目の前の少女は、人一倍他人の目を気にしている。そして、自責の念に駆られている。それは、無責任な親が植え付けた枷だ。子どもには子どもの人生があると理解できなかった、無知な親が刻んでいった消えない傷だ。

 彼女は、それらに翻弄されている。自分の人生を生ききれていない。



「藤森さん自身はさ、俺と話したくないの?」



 自分は答えを知っている。同じ境遇を持つ自分と話したくないなんてことがあるはずがない。興味や関心は彼女の胸に渦巻いている。

 には止めようがないほどに。



「……話したくないわけじゃないです」



 楓は困ったようにスカートを握りしめた。その横顔は、窓から移る曇天のように暗かった。

 彼女は、ちびたちのようだ、と安藤は思った。

親を信じている。いつか大好きな親が自分を迎えに来ると信じている。そして、それは昔の自分の姿でもある。

 自分が悪かった。どうして止めなかった。大好きな母なのに。俺が悪い奴だから、母は迎えに来ない。ならば、いい子でいよう。いい子になろう。

 そう考えることが、どれだけ自分を苦しめていたのか。その呪縛から解き放たれた自分ならわかる。あんな親のために苦しむ必要なんてなかったのだ。

 自分は自分だ。自分の思うように生きて何が悪い? そこに親の意志は必要ない。存在も。自分を捨てたやつの影さえも、不必要だ。

 

 しかし、彼女は今でもその呪縛から逃れられない。あの日、児童養護施設で出会ってから、彼女は一歩も前に進めていないのだ。


 でも……と呟く彼女に安藤は優しく問いかける。



「嫌じゃないならさ、また話そ? 俺は、藤森さんと話したい」



 そう言われて、彼女がむげに断れないだろうということも知っている。

 怖いのだ。人に嫌われるのが。否定されるのが。

 一番信頼していた親に捨てられたのだから。

 また、捨てられたらどうしよう。この人は、自分を受け入れてくれるだろうか。そうやって誰かから拒まれるのを極度に恐れている。

 過去の自分もそうだったから。

 


 案の定、彼女はこくりと頷いた。その表情は固かったが、拒絶の色はなかった。

 よし、と安藤が立ち上がった瞬間、



「あ。安藤君は、瑠依を知っているんですか?」


 

 そう問いかけられた。

 安藤は表情を変えず、にやりと笑った。



「知ってるよ。彼、有名だもんね。女子に人気だし」



 わざとそう言ってやると、楓はぐさりとナイフを突き立てられたように傷ついたような顔をした。

 茶毛のおさげが危なげに揺れる。

 ゆがめられた端正な顔立ちに、安藤は苛立ちを覚えた。今すぐにでもその鼻先に噛みついてやりたくなる。

 そんな顔をするのは、俺の言葉だから? それとも、彼の話題だから?

 

 誰かに執着して期待するのはやめていた。のらりくらりとその場をやり過ごしていれば、時間は経つ。

 それが一番楽だ。

 期待すればするほど、裏切られたときの傷は深くなる。

 だから、何事にも無関心を決め込んでいたはずだった。


 でも、彼女は違う。見過ごせない。

「期待」しているのか。それとも別の感情なのか。

 

 でも、から、自分は心のどこかを彼女に支配されているのかもしれない。

 儚く、弱弱しく、昔の自分に似た彼女に。


 だから、彼女を手放せない。



「ちょっと安藤! また楓にちょっかい出して! やめろって何度言ったら分かんのよ!」


 

 うるさい奴が来た、と安藤は美園がくりだしたアッパーカットをひらりとかわし、「おはよう」とにこやかに言う。

 攻撃をかわされた美園は苛立ちを隠すことなく、安藤へと再び殴りかかった。

 

 血気盛んな女は嫌いだ。自分の親のようだ。


 ここは一旦退散しようと、安藤は自分の席に足早に戻った。

 美園が仁王立ちして楓を遮っている姿を横目で見ながら、安藤は机に突っ伏して寝た。



 頭の中で、のことを思い出しながら。

 

 


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