第3話 始業式と春



「春が訪れてまいりました」


 校長先生の始業式の挨拶は、毎度決まりきった文句の使いまわしだ。年月を経ても、変わらない。



 春。桜。新たな始まり。息吹が芽吹くとき。


 それは生命を連想させるかもしれない。それは華やかさを表すかもしれない。



 頑張りなさい、と背中を押す言葉。精進せよ、前に進めという叱咤激励の言葉。新たな始まりを、新たな気持ちをもって迎えなさい、という人生の先輩の願い。


 それらすべては祝いの気持ちだ。喜ばしいことだ。清々しさをもって迎えるべき瞬間だ。 






 私は何度、春を迎えただろう。


 桜が舞う情景を何度、目に焼き付けただろう。


 私の春も変わらない。どんなに月日が経とうとも、これからも。




 春。


 誰もいない空虚な廊下。「ただいま」に、返される言葉もない部屋。


 桜。


 コンクリートに染み込んだ花びら。力を失った母の手足。頭から流れる梅のように真っ赤な鮮血。


 息吹。


 「ごめんね」とだけ真ん中に寂しく書かれた、一枚のコピー用紙。救急車のサイレンの音。


 誰への「ごめんね」だったのか。お父さん? 秋陽兄? それとも私?


 未だ答えの帰ってこない問いかけと、その時に嗅いだ血の匂いは、私の償うことのできない罪と共に、じわりじわりと私の心身を侵食していく。



 頑張りなさい。


 そう掛けられる言葉は私の背中を押してくれるが、その先は崖だ。少しずつ崖の縁に追いやられて、少しでも足を踏み外せば、真っ逆さまに落ちていく。


 ……私は、いつ落ちればいいのだろう。いっそ落ちてしまえば、楽になるだろうか。決壊すれば、解放されるのだろうか。



 繰り返される春に突き付けられる、自分の犯した罪としがらみは、誰かに許されるときが来るのだろうか。


 か細い母の腕が、私の手を握ってくれるときは来るのだろうか。






***




 楓が保健室に運ばれた。



 瑠依がそのことを知ったのは、ホームルームが終わってからだった。



 担任教師が出席簿をもって教室を出ていってすぐ、瑠依の斜め前の男子生徒が待ってましたとばかりに、カラオケに行こうと言い出し、それに賛同したうちの一人が、「女子も誘わないか」と提案して、男子連中がそわそわし始めたころ、その知らせはやってきた。



「瑠依!」



 良く通る声で瑠依の苗字が呼ばれた。帰り支度をしていた瑠依が声のしたほうへ視線をやると、黒髪ボブの女子生徒が大股でこちらへ近づいてくるところだった。


 彼女は、本名を塩崎美園という。名前負けのしない大和撫子のような美しさで一部の男子生徒を魅了しているが、皮を剥げば、筋金入りのスポーツ少女が姿を現す。小中高とバレーを続けながら根付いた熱血精神のせいか、曲がったことが大嫌いで気も強い。楓と瑠依とは中学のころからの付き合いで、数少ない友人である。



 確か、楓がクラス発表の張り紙を見て、「美園と同じになった」と安堵していたな、と今朝の出来事を想起する。


 その美園のくっきりと整った眉はぐっと吊り上がっていて、つかつかとこちらへ近づいてくる彼女の様子に、ただならぬものを感じた瑠依は「どうした」と問いかけようとした。


 しかしその言葉は、美園によってかき消された。



「あんた、今日楓と一緒に病院行くんでしょ」



 机の縁に手を掛けて、有無を言わせないような迫力で訊いてくる美園に、瑠依は正直に答えた。



「そうだけど」



「楓、今保健室にいるから」



「…………は?」



 一瞬発せられた言葉の意味が咀嚼できない。


 思わず聞き返してしまう。



「……なんで」



 考えられる理由は美園の雰囲気、表情の一つ一つを取っても明らかだった。それでも尋ねずにはいられない。背中に一筋の汗がつーと降りる。自棄に背筋の震える感触だった。



「列離れてたから気づかなかったか。楓、校長の挨拶中におなか抑えて動けなくなったの」



「……」



「それでうちの担任が楓抱えて保健室に連れて行った。今もベッドで休んでるから、一緒に帰るならこれ持って行ってあげて」



 そう言って突き出されたのは楓の学生鞄だった。


 瑠依は差し出された鞄を、感情の伴わない腕で受け取った。持ち手の布地が掌に食い込むが、今確かに感じられるのがその感覚だけだというのが、無性に瑠依を焦らせた。



 『この日』に、楓が倒れた。


 これが何を意味しているのか。


 今までの春は、倒れるなんてことはなかった。あっても、胃が痛くなって食欲がなくなるくらいだったはずだ。


 でもそれが動けなくなるほどで、倒れたということは。



 瑠依の脳裏に嫌な考えがちらつく。


 やっぱり休ませたほうが良かったか。飴玉をもっと渡しておくべきだったか。そもそも、今日病院に行くことを止めておけばよかったか。


 渦巻く後悔は留まるとことを知らず、瑠依は血の気が引いていくのを感じた。




 バチン




 激しい破裂音が教室に響いた。


 そして、瑠依の左頬に激痛が走った。


 美園が瑠依の頬を平手打ちしたのだ。その場にいた生徒全員の視線が美園に集まる。それほど大きな音だった。



「頭冷えた?」



 美園は右手をひらひらと揺らした。



「そんな状態で行っても、楓を追い詰めるだけでしょうが」



 その言葉に、瑠依はひりひりと痛む頬をぐいっとぬぐった。確かに、予期せぬ刺激に頭のスイッチは切り替わった。ふうと息を吐いてから、睨み付けてくる美園を見下げる。



「……悪い。冷えた」



 それだけ言うと、瑠依は自分の鞄も引ったくり、足早に教室を出ていった。




「……何? 修羅場?」



 男子生徒の一人がポツリと呟く。美園はその生徒に向かってけらけらと笑った。



「あいつと修羅場とかありえないから。どっちかというとサンドバック?」



 強烈な一言をかまして、ひらひらと手を振った。



「ごめんねー。お騒がせして。もう大丈夫だから」



 整った顔立ちに乗せられた笑顔に、男子生徒一同の鼻の下はでろんと伸びた。



「そっかー。あ、なあ塩崎さんも一緒にカラオケ行かない?」



「ごめん、今日部活なんだ」



 間髪入れずに断りを入れる美園に、がっかりとした落胆の色を隠さない男子達だったが、向けられる笑顔にあっさりと気を良くした。



 そんな男子生徒たちから視線を外して、美園は瑠依が走り去っていったほうへと意識をやり、誰にも聞きとれないほど微かな声でポツリと呟いた。




「依存しすぎでしょうが」




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