第4話 歌と保健室

 

 やさしさを 押し流す 


 愛 それは川




 魂を 切り裂く 


 愛 それはナイフ




 とめどない 渇きが 


 愛だと いうけれど




 愛は花 生命の花 


 きみは その種子




  『愛は花、君はその種子』より




 ***




 どこからか、澄んだ歌声が聞こえてくる。葉と葉が擦れてさらさらと音を立てるような、飾らず、それでいて美しく、耳に心地よいしらべだった。楓はぼうっとした意識のまま、その音色に耳をそばたてる。歌詞は英語なのか、日本語にはない流暢さと発音で、どこかで聴いたことのあるようなメロディーだった。



 どこでだろう、確かテレビで聴いたような、と記憶を探っていくうちに意識がはっきりしてきて、楓はゆっくりと目を開いた。


 焦点の定まらないぼんやりとした視界でも分かるほど、真っ白い色だけが映し出される。手を伸ばしてその白に触れると、指がさらりとした布を感じ取った。同時に、耳裏当たりの髪の房がすっと擦れる感触がした。



 私の体はすっぽりとシーツに覆われているらしい、と楓は気が付いた。背中には少し硬い布地の感触がするし、頭にも柔らかな弾力を感じる。



私は今まで眠っていたのか……。



 全身の倦怠感に、肩に力を込めて腕を動かすと、視界を埋め尽くしていた白がわずかに分かれ、その隙間から光が差し込んできた。その間に指を差し入れ、そっとシーツを剥いで顔を出すと、息苦しさから解放される。酸素が足りていなかったらしい。


 シーツをはらうと、今度は薄桃色のカーテンが目に飛び込んできた。折り目のついたカーテンはきっちり閉まっていて、隙間はない。完全に密閉状態だった。


頭が重いと感じながら上半身を起こすと、微かに消毒液の匂いが鼻につんときた。ん、と喉が詰まって、こほこほと軽くむせる。



「起きたかな」



 カーテンの向こうから男性の声がした。聞いたことのない声。がたんと椅子から立ち上がる音。ぱたぱたというスリッパの音。



「開けるよ」



 確認の言葉の後、さーとカーテンのレールが動いて、カーテンの向こうから白衣を着た男性が姿を現した。


 黒縁眼鏡の奥の切れ長の瞳、でもどこか優しさを感じさせるまなざしと目が合って、楓は思わず体の緊張を解いた。急に知らない男性が現れた割に、楓が冷静でいられたのは、その穏やかな雰囲気のせいだろうか。それとも、ただ単に寝起きで頭が回っていないからだろうか。



「体調はどうかな」



 彼は楓に近寄って行って、ベッドの縁に置いてあった丸椅子に腰かけ、片手に持っていた体温計を楓に渡した。



「運ばれてきたときは熱があったから、一応ね」



 楓は素直にそれを受け取り、シーツの中で制服をまさぐって脇に挟んだ。視線は白衣の男性に向けたまま。


 初めてみる人だ。見たところ20代後半くらいだろうか、と楓は推測してみる。こんなに若い先生、この学校にいただろうか。


 しげしげと眺めながら何も聞けずにいると、楓の考えていることを察したのか、白衣の人はふっと口角を上げた。



「僕は今年からこの学校の養護教諭になりました。遠山静です。よろしく。この白衣はね、友人がお祝いでくれたんだ」



 似合ってるかなあ、とえくぼの印象的な微笑を浮かべる彼に、楓は何と返したらいいか分からず、取り敢えず「はい」と短く答えた。


 でも、似合っているのは本当だ、と彼を眺めながら楓はぼうっと思った。利発そうな姿見に、清潔さのある白衣は、何故か病院ではなく保健室という言葉が似合うような感じがした。どう違うのか説明はできないけれど、そのほうがいい、と。病院の空気よりは、断然良い。



 ん、と目を閉じて、穏やかな空気と、窓から差し込んでくる日の暖かさを体に取り込む。



 そこで楓はどこか物足りなさを感じていた。



 …………………歌。



 さっきまで聞こえていたメロディー。



 思わず耳を傍たて、音を拾おうと身を乗り出す。不思議だが、あの歌はまだ聴いていたい、と素直に思っていた。



「どうしたの?」



 遠山先生が急にそわそわとし始めた楓に声を掛ける。



「あの、さっきまで歌が聞こえてた気がするんですけど……」



 楓は意識を外の風に向けたまま呟いた。どんなに耳をそばたてても、もうそれらしい調べは耳に入ってこない。



「ああ、あの歌か」



 代わりに遠山先生の声が隣で呟かれた。ふんわりとした、それでいて何処か弾んだ口調だった。そして、ぴぴぴぴ、と体温計の鳴る音がして。


 楓は音に意識を向けるのを諦め、体温計を取り出して遠山先生に渡した。



「37.2℃。少し下がったね」



 そう言って、遠山先生はバインダーに挟んである紙切れにボールペンを走らせた。紙の端に自分の名前が記入してある。それを盗み見た楓は、そこに一体何が書いてあるのかと、少し怖くなった。彼は新任の先生だが、前任の中島先生から何か聞いているのだろうか。どこまで私のことを知っているのだろう。


 私が保健室を訪れたのはこれが初めてではない。去年も、何度もこの教室に足を運んだ。そして、このベッドに横になった。決して良い記憶ではない。



「……私は要注意人物ですか」



 思わず口にした言葉に、楓はしまった、と思った。何を聞いているのだろう。一気に血の気が引いた。




 穏やかな雰囲気のせいだろうか。だから口が軽くなったのだろうか。だとしても、これは完全な失態だ。


 恐れがお腹の下からせり上がってくるような感覚がした。同時に、収まっていたはずのキリキリとしたお腹の痛みも発生してくる。




 遠山先生の反応が怖くて。目を逸らしたい。耳をふさぎたい。無かったことにしてしまいたい。今すぐベッドから飛び出して、この場から立ち去りたい。


 それでも、動いてはいけないような気がして、ただただバインダーをのぞき込んでいる遠山先生を見つめることしかできなかった。




 遠山先生の唇が動く。楓の額に汗が伝う。



「あの歌はね、」



 遠山先生は顔を紙に向けたまま言った。


 その言葉は、楓が質問した答えではなかった。




 楓は、歌、と張りつめた意識のまま反芻した。あの歌。




「君のために歌ってたんだよ。藤森楓さん」



 遠山先生は顔を上げ、最初に見せた人懐っこい笑顔を向けて、楓の名前を呼んだ。


 柔らかなその表情に、楓は拍子抜けして思わずはっと息を漏らした。



「……私のため?」



 聞き返すと、遠山先生は「そう」と言って、かたりと腰を上げた。




 そして、楓の頭に手を置いた。


 軽く頭を撫でる掌の動作に、楓はぽかんとして遠山先生の顔を見上げた。


 白衣の下にある抹茶色のセーターの網目が見える。柔軟剤だろうか、微かにすうっとした匂いがする。


 遠山先生は楓の瞳を見つめながら、あやすように、ぽん、ぽん、と楓の頭に手をのせる。



「目を閉じてごらん」



 そう促されて、楓は素直に目を閉じた。


 今日初めてあったばかりの人に頭を撫でられることに違和感はあった。傍から見れば、何を急に、と異質に思うような行動をされている。


 しかし、楓はふうっと、その手の暖かさに身を委ねていた。




 私の頭を撫でてくれる人は、今では秋陽兄と瑠依くらいだろうか……。あとは、もう大分昔のこと、角ばった豆だらけの、煙草の匂いのする大きな手が頭を撫でてくれたことがあった……。




 この人の手はその手とは全然違うけれど、どこか懐かしい感じがする。


 楓は規則的に置かれる掌に、されるがままに撫でられていた。

 

 いつの間にか、肩に入っていた力は抜けていて。お腹も何故かもう痛くない。



 そう、優しい手だった。初めて私の頭を撫でてくれたのは。大きな手。私の頭全部を包み込んでくれた手。「そうか、俺の娘か」と言って、私の髪をくしゃくしゃにして。重かったけど、乱暴だったけど。


 無精ひげを生やしたてかてかの顎は、触ったらどんな感じがするんだろう、ちくちくするのかな、と思っていた。でも、その顎に触れることは二度となかった。そして、その手が私の頭を優しく包み込んでくれたのも、その一度だけだった。




 楓は目頭が熱くなっていくのを感じた。喉元がきゅうと締め付けられるような感覚がして、胸の奥にある何かがぎゅうぎゅうと押し出されるような圧迫感がして。



 なんで……………。



 その時、ガラッとドアの開く音がした。勢いのある開け方だった。



「藤森いますか」



 その声に楓がはっと反応する。すぐに瑠依だとわかった。そう気づくと、喉の締め付けが引っ込んだ。



 つかつかとこちらに歩み寄ってくる音がし、「失礼します」の一言で、遠山先生が現れたのとは反対側のカーテンが開く。


 乱雑に開かれたカーテンから瑠依は現れた。心なしか頬が赤く、息も少し荒い。肩には二人分の学生鞄を引っさげていて。急いできたのだと分かるその姿に、楓は思わず「瑠依」と彼の名前を口にした。


 瑠依は、息を切らしながら黒い瞳を見開いていた。汗が額からこぼれ落ちて首筋を伝っていく。楓はその雫がワイシャツの奥へと流れるのを目で追いかけた。すると、いつの間にかそのワイシャツの襟が近づいてきていて。気づけば、瑠依がぐいっと遠山先生の手首を掴み、楓の頭から掌を引っぺがしていた。


 その強引さに楓は目を見張った。その一連の行動は瑠依らしくない、荒々しいものだった。





「こいつに何やってるんですか」



 嫌悪感を隠さない言葉に、楓はただ、自分と遠山先生との間に挟まれた瑠依の背中を見つめるしかなかった。


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