第5話 ベランダと氷菓
藤森楓。
彼女を守らなければならない。
そう俺が決めたのは、まだ社会の何たるかも分からない五歳のころだ。
あの日の楓は、灼熱の太陽の下、ベランダのコンクリートに座り込み、細い腕でぎゅうっと膝を抱えこんでいた。
その縮こまった姿が、あまりに儚く、消えてしまいそうだったのを、俺は今でも鮮明に覚えている。
はじめは何でもない、唯のお隣さんという関係だった。楓の母の遥さんと、お袋との間に親交があったため、何度か一緒に近所の公園へ行って遊んでいたらしいが、正直言ってその時の記憶はほとんどない。幼少期のことだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
だから楓のことは、隣の家に住んでいる同い年の女の子、くらいの認識だった。同性で面倒見がよく、姉貴の横暴な弄りや絡みから自分を救ってくれていた彼女の兄の秋陽のほうが、その時の自分にとって印象の強い存在であったように思う。
しかし、その状況が変わったのは、母子家庭だった藤森家に突然、父親という存在が入り込んできてからだった。別段、俺自身はそれらしい人と団地ですれ違うこともなく、関わりを持つこともなかった。
ただお袋が、「健太さんは気の毒だし責められないけど、このままじゃ遥が壊れてしまう」と何度も父に嘆いているのは聞いていた。健太さんというのが、楓の父親の名前であると分かったのは、随分後の話だ。そして、時折聞こえてくる何かが割れるような破壊音と、喚き散らすガラガラと割れた怒鳴り声が、今までと何かが違っているのだと感じさせた。
しかし、子どもが踏み込んではいけない何かであることは、お袋や父の醸し出す雰囲気で何となく悟っていた。
隣の家で一体何が起きているのか、確かなことは何も分からないまま数カ月が経った、ある日のこと。
あの日は一段と暑い日だった。蝉がみーんみ―ん、と羽を震わせながらけたたましく鳴いていて、頭皮が焼けてしまいそうなほど日照りの強い夕暮れ時。
母に洗濯物を取り込んでほしいと言われ、ちょうど遊んでいたブロックの入った玩具のポリバケツを空にして、ベランダに出、それを台代わりにしてよいしょとよじ登ったとき。
ガラガラッという荒々しい音が、スチール製の灰色の仕切りを隔てた向こう側、藤森家のベランダから聞こえてきて、「出ろ」という怒りを顕にした声がしたかと思うと、またガラガラとガラス窓が閉められる音がした。そして、静かになった。
どうしてその時、隣の様子を伺おうとしたのかは、今でも分からない。幼いながら自分なりに藤森家を気にしていたのか。それともただの好奇心だったのか。
それでも、幼い俺は仕切りの縁を掴んで、台の上で背伸びをしながらぐーっと隣のベランダを覗き込んだ。
そしてそこには、コンクリートの壁に背中を預けてうずくまっている楓がいた。何か月か前には真っ黒だった彼女の髪の色は、焦げた茶色に変わっていた。
顔を伏せ、ぎゅうっと自分の腕を抱きしめている楓の袖はくすんでいて。そして、肉付きの悪い脚は裸足だった。とんでもなく暑い日のはずなのに、その晒された足は、酷く寒そうだった。
『なあ』
声を出して楓を呼ぶと、彼女の頭がふらっと揺らぎ、顔がゆっくりとこちらに向けられた。現れた相貌。目の下には、泣いたと分かるほどカサカサになった跡が痛々しく刻まれていて。
何より、こちらを見つめる瞳が何も映していないような、ぽっかりとした虚ろな色をたたえていたことが、俺の心臓に棘が刺さったような痛みを感じさせた。
この子は、消えてしまうかもしれない。
じりじりと身を焦がす熱気が、この子を溶かしてしまうかもしれない。
絵本に出てきた真っ白い幽霊のように。
溶けてドロドロになっていく雪だるまの残骸のように。
奇妙で、透明で、危うくて、さみしくて。
繋ぎ留めなければならない。
『ちょっと待ってて』
俺は、彼女を追い詰めていくような熱気の中に、一風を投じるように叫ぶ。彼女の霞んだ瞳を脳裏に焼き付けながら、急いでポリバケツから飛び降りて部屋の中に戻り、台所の冷蔵庫に直行した。
『瑠依、洗濯物はー?』
母が尋ねる声も無視して、冷凍庫のドアをがばっと開けてその中に腕を突っ込み、昨日の夜食べずに取っておいたソーダ味のアイスキャンディーをわし掴む。そして、すぐさまベランダへと駆け込んだ。
『これやるよ』
仕切りとベランダの手すりの角に体をぎゅうぎゅう押し付けて身を乗り出し、透明の袋の中に入った水色のアイスキャンディーを楓に差し出すと、彼女は俺を見た。不思議そうに首を傾げ、困ったように眉を下げる。
『でも、それ……』
やっと楓が発したのは少し掠れたか細い声で。
でも、俺は声は出るのだと安心した。この子は、抜け殻のような、からっぽな存在ではない。
『まだ家にあるから大丈夫』
本当はその一本だけだったが、そんなことを言えばこの子は受け取らないだろうと思った。
どうしてよいか分からないといったように、俺とアイスを交互に見る楓に、俺は更にぐいと袋を突き出した。
『溶けるから、早く』
そう言うと、楓は手をついてゆらっと立ち上がり、おずおずとこちらへ近寄ってきた。擦り切れた短パンから除く膝小僧が寂しい。
楓は仕切りの傍まで寄ってきて、俺を見つめ、
『……本当にいいの?』
ともう一度確認した。きょろりと不安げに俺を見つめて動いた眼に、俺はこくりと深くうなずく。楓が恐る恐る両手を開き、お椀のように掲げた掌に、俺はその袋をぽとりと落とした。
『……つめたい』
楓は貰った水色の輝きを見つめながら、そう呟いた。宝物を手に入れたような、新たなものを発見したような、驚きと喜びの言葉のように聞こえた。
その声に、俺は心から安堵していた。彼女の瞳に生きた色が宿ったこと。そうやって、喜びを表してくれたこと。
繋ぎ留められた。
この子はまだ、ここにいる。
消えてはいない。
楓はそのアイスキャンデーの袋を開け、棒の部分を引っ張って取り出し、その艶やかな氷の造形を見つめた。ぽろぽろと氷のかけらが地面に落ちて、コンクリートに染みを作った。
『……きれい』
何の変哲もない、どこにでも売っている氷菓子を、楓はそう言ってまじまじと見つめた。彼女がそう言うと、その氷菓は俺たちの間では何か特別なものであるような、そんな感じがしてきた。
俺が彼女のきらきらとした表情を見つめていると、楓はずいっと俺のほうへ、その宝物を差し出してきた。
『一緒に食べよう』
その申し出に、俺は僅かに躊躇ったものの、結局楓の手を掴んで引き寄せ、ガリッとアイスの先端をかみ砕いた。歯がキーンとする。
『おいしい?』
そう小首をかしげながら訊いてくる彼女に、ひんやりとした甘さを口の中で転がしながら、俺はこくりと頷いた。
そして、俺の返事を受け取った楓はその時、
涙の跡の残る瞼を細め、ふうっと笑った。
その微笑みに、俺はぎゅうっと心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
その笑顔の奥にある、得体のしれない、でも決してそのままにしてはいけないような何かを、俺はその時、見出した。
『良かった』
そう言って嬉しそうに、欠けてしまった宝物に口をつける楓の笑顔を、俺は今も忘れらず、それは忘れてはならないものになった。
俺はその時から、彼女を守ろうと決めた。
小さな腕を。ひょろりとした脚を。弱弱しい身体を。
そして、彼女の見せた笑顔を。
今だから分かる。その笑顔は、幼さとは言えない、無邪気さとも違う、心から何かを渇望している、そんな切実さを隠していた。
彼女が求めているのが何だったのか。その時渡したアイスキャンデーか。同じ年の子との触れ合いか。
それとも、誰かの優しさか。
齢五歳の少女にそんな表情をさせるのは、何なのか。誰がそうさせるのか。父親という存在か。それとも別の何かか。
本当のことは、何も分からない。
でも、これだけははっきりと言える。
俺は、そんな楓を一人にはしたくない。
楓が、一人で、殻に閉じこもって、消えてしまいそうなら、俺がその命綱になる。この地に必ず繋ぎとめる。
あの儚い姿に、笑顔に、俺は心を殺された。
幼き頃の決意は、
環境が目まぐるしく変化しても、身体の特徴が変わっても、十二年の時が経っても、
変わってはいない。
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