第6話 憤りとレモンティー

 瑠依は、目の前にいる白衣の男性をこれでもかと睨み付けた。掴んだ手首に力を籠める。筋の太い、男の手だ。



「こいつに何やってるんですか」



 自分でも抑えきれないほどに煮えたぎった腹の底から、低い声が出た。ぎり、と思わず歯ぎしりをする。怒りで頭の血管がどうにかなりそうだった。

 

 

 楓が保健室に運ばれた、と聞いて湧き上がってきた焦りや戸惑いを押し殺しながら、たどり着いた部屋。


 瑠依がカーテンを開けて最初に目にしたのは、楓の顔だった。

 それは、あの日楓が見せた、何かを切望し、それでも耐え忍んでいる表情と同じだった。

 何かを望んでいる、叫びたいのに叫べない、そんな苦しみの相貌。

 

 そして、楓の隣に立っている白衣の男。

 瑠依は『出ろ』と言ったあのどす黒い声を思い出した。

 彼女の父親のように、また楓を傷つけるのか。


 

 気づけば、瑠依は楓の頭に手をのせている男の腕を掴んで振り払っていた。

 こみあげてくる激情をぶつけることは留めた。しかし、瑠依の中には確かに納まりのつかない激しい思いが蠢いている。

 

 そんな中、目の前にいる男は瑠依を一瞥した後、柔和な目じりを下げて困ったように溜息をついた。



「突然だね。もしかして、僕が藤森さんに手を掛けようとしていた、なんて思ってる?それなら誤解だよ。初日で首にはなりたくないしね」



 覇気のない穏やかな声で諭されて、瑠依は一瞬拍子抜けした。彼は、瑠依の粗暴な行動に全く動じていないようだった。

 そして彼は、強く力を込めている瑠依の手に、拘束されていないほうの手を添え、とんとんと軽く叩いた。まるであやすような、それでいて叱っているような不思議な力加減だった。



「落ち着いてください。君がそうしていることで、藤森さんは困っている」



 そう言われて、瑠依が後ろ手に庇っている楓を振り返ると、楓はもうあの表情をしてはいなかった。そこにあるのは、瑠依を心配そうに見つめる瞳と、そこに映る自分の荒れた姿。



「瑠依」



 楓が一言、どうしてよいか分からないといったように声を掛けた。シーツをきつく握りしめていた手を瑠依のほうへ伸ばし、ワイシャツ越しの彼の背中をそっとさする。


 その感覚に、瑠依は自分の激情が溶けていくのを感じ、遠山先生の手首を離した。

 遠山先生はほっと息を吐くと、手首を何度かさすってから、「男子高校生の力は強いなー」と呑気にコメントした。



「……大丈夫なのか」



 まだ疑念を拭えない瑠依が楓に尋ねると、楓はこくりと頷いで、微笑を浮かべた。



「なんか、頭撫でてもらった」



「……は?」



 また瑠依の声に剣呑な色が宿る。



「はははは」



 そんな瑠依の反応に、遠山先生は声を立てて笑い、瑠依に向けて言った。



「君はもう少し心に余裕を持ったほうがいい。瑞谷瑠依くん」



 瑠依は急に自分の名前を呼んだ目の前の男を訝しんだ。それに、その大人目線の言葉に腹が立った。どうもこの男は信用ならない。



「なんで、俺の名前……」



「僕はここの担当教諭ですから。全校生徒の名簿を持っているし」



 やんわりと告げた後、遠山先生は鼻から僅かにずり落ちていた黒縁眼鏡を押し上げ、



「それに、瑞谷家とはちょっとした因縁があるんですよ、僕」



 と意味ありげに微笑んだ。そして、純白の白衣の襟を正しながら、レンズから覗くいたずらっ子のような眼で瑠依を眺めた。

 瑠依は顔にしわを寄せ、急に訳の分からないことを言い出した教師を睨み付けた。



「因縁って、」



「そろそろ帰りましょう。保護者も来てくれたことだし、藤森さん、瑞谷君と一緒に病院に行けますか?」



 瑠依の言葉を遮って、遠山先生は楓のもとへ近寄り、ベッドから降りるように促した。



 しかし、『病院』の一言に楓の体は固くなった。

 

 そうだ、これから私は……。

 自分が向きあわなければならない現実に引き戻される。背筋に得体の知れない何かが張り付いているような感覚が襲ってきた。



「あの、私は大丈夫で……」



「一度ちゃんとした医療機関に見てもらったほうがいい。大きな病気ではないと思いますが、ここでは薬は出せないので」



 有無を言わせないような遠山先生の言葉に、楓は再び戸惑った。


 向き合わなければならないものが増えた。

 自分の罪と、まだ隠されている本当の自分。

 その分、身体が重くなるような、背負わされるような圧迫感がした。



「楓」



 瑠依が楓を呼んだ。楓ははっとして彼を見る。その表情には「無理しなくていい」という気遣いが見て取れた。



 そうだ。瑠依も一緒にいる。ついていてくれる。

 そう思うと、微かに胸の重荷がすっと軽くなったような感じがした。まだ抱えているものは大きいけれど、足を前に出せるくらいの余裕はできた。




「分かりました。行きます」




 その時、ちょうど正午を告げるチャイムが鳴った。






 二人が学生鞄を抱え、保健室を出ていってから少し時間がたった頃。

遠山先生は一人、デスクに肘を置きながら、表紙に『藤森楓』と書かれた分厚い記録書を眺めていた。開けっ放しにしていた窓から、湿度の残る春風が吹いてきて桃色のカーテンを揺らし、記録書の端をパタパタと揺らしていく。ふわりと運ばれてきた桜の花びらが二枚、記録書の上に落ちる。遠山先生はその花びらを一つつまみ、ふっと息を吹いて窓枠のほうへ飛ばした。

始業式もホームルームも終わり、残っている生徒はほとんどいないのだろう。さーっとグラウンドを撫でる風の音と、記録書のページをめくる音だけがする。



「僕は間違ってはいないでしょうか、紫さん」



 遠山先生は楓の学生写真を見つめながら、ポツリと呟いた。その声が、余計に静寂の色を濃くしていく。




 すると、どこからともなくパタパタと廊下を走る音がしてきた。それは段々保健室のほうへと近づいてくる。

 そして、その音が一層大きくなった時、ガラガラッとドアが開けられ、



「先生! 遅くなりました!」



 保健室内に軽く、やわらかな声が響いた。静寂に色どりを与えるような鮮やかな声だった。


 遠山先生が椅子を回して振り返ると、セーラー服を身に纏った少女がこちらへ歩み寄ってきていた。

 笑みを浮かべている少女の瞳はヘーゼルナッツを思わせる綺麗な榛色で。明らかに日本人ではないと分かる容貌だ。顔立ちは人形のように整っていて、艶のある腰まで伸びた黒髪がその美しさを更に引き立てている。しかし、どこか幼さの残る不思議な雰囲気を醸し出す少女だった。


 遠山先生はその少女ににこりと笑いかけた。



「大丈夫だよ。転入の手続きが長引いたの?」



「そうなんです! まだ日本語の感覚が戻らなくて、先生が訊いてくることに上手く答えられませんでした!」



 目をぎゅーとつぶる少女は、すらりと長く健康そうな腕をぶんぶんと振り回して、悔しさを露わにした。

 遠山先生は彼女の無邪気な行動に微笑ましさを感じながら、椅子から立ち上がり、備え付けの電気ポットの傍へ行った。その隣に置いてあるマグカップを掲げてポットのボタンを押し、水を灌ぐ。


 今日は、暖かいから冷たい飲み物のほうがいいかな、と思いながら。


 そしてレモンティーのパックを入れたカップを、まだうんうん言って悔しがっている少女に差し出す。彼女は素直に「ありがとうございます」と言って笑顔になった。頬がふわっと動いた笑顔は、赤ん坊のような癒しの雰囲気があった。



「お疲れ様。そういえば、歌。聞こえてきたよ」



 レモンティーのパックとダージリンのパックを選別しながら伝えると、少女は黒髪を翻しながら一気に頬を真っ赤に染めた。



「え! 聞こえていたのですか!? 誰もいない屋上で歌っていたので、大丈夫だと思っていたんですけど……」



 恥ずかしがる彼女に、遠山先生はダージリンティーを飲みながら付け加えた。



「彼女も聞いていたよ」



 意味深な言葉に首をかしげ、榛色の瞳を丸くする少女に、遠山先生はくすりと笑って言った。




「藤森楓さん」




 少女は満面の笑みを浮かべた。



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