第17話 関係と共鳴

 春先のまだ肌寒い空気と、垣間見てしまった秋陽の異様な気に後を引かれながら、瑠依は玄関のドアノブを握った。無機物の感覚が、自棄に掌に冷たく感じた。

 中に入ると、今朝と変わらず散乱した靴の山にたたらを踏む。そして、その持ち主が誰かと会話している声が部屋の奥から聞こえてきた。

 この荒れた状態をどうにかする気は全くないらしい、と半ば諦めの境地に至りつつ、辛うじて空いていたスペースでローファーを脱ぐ。

 よく通る声のするほうへと廊下を歩きながら、居間へと続くガラス張りのドアを開けると、暗闇の中でくっきりと映えた、ベランダのガラス窓に映る紫と目が合った。

 紫は入ってきた瑠依に一瞥を与えると、くるりと向きを変えながら、



「今、瑠依入ってきた」



 と、電話の相手に事実そのままを伝える。六メートルほど離れた瑠依の耳に、相手の話す声が微かに聞こえたが、その声質からして相手は女性だろうと瑠依は察した。そして、自分のお袋だろう、とも。



「だから大丈夫だって。こっちに来ても仕事あるし。危険なこと? 今更そんな理由で帰ってきたりしないから。そんなの日常茶飯事だったし、いちいち気にしてたら今頃ハゲてるわ私」



 軽く笑いを含んだ声で屈託なく言いながら、紫は日に焼けた手を腰にやって、相手の声に耳を傾けた。


 瑠依はその様子を眺めながらドアを閉め、居間の中央を陣取る食卓テーブルの上に学生鞄を置いた。テーブルに手をつくと、ワックス塗りのつるりとした感触と、長年使い続けている証としてざらりとした傷の感触を感じる。この食卓テーブルは家族総出でショッピングモールに行ったとき、母の律子と紫が示し合わせたように「絶対これにする!」と言って憚らず、男勢、つまり父の徹と瑠依が気圧されながら購入した代物だった。穏やかなベージュ色と、木製を思わせる波打つ木目は、確かにこの瑞谷家の食卓を暖かなものにしてくれていただろう。その周りを囲む四つの椅子もテーブルとセットで購入したもので。ここは、何度も家族が座って顔を合わせる場所だった。

 現在は看護師の律子が夜勤で帰りが遅くなることが多く、徹は単身赴任で不在。顔を合わせる機会は減ったが、それでも少なくとも月に一回は家族が揃う場所として健在だ。


 そして最近は、今朝も、楓が座って食事をしていた場所で。

 瑞谷家に彼女がいること自体は、もう何年も前から当たり前のようなものだったが、顔を突き合わせて食事をすることは、ここ最近の出来事でしかない。それなのに。


 瑠依は思わず椅子の縁を撫でた。


 明日の朝、彼女はこの椅子に座らないだろう。兄である秋陽が帰宅したのだから。自分が朝食を用意する必要もない。それはつい一週間前までは普通のことで。


 それなのに。

 それだけで、生活の一部が欠けたような足りなさを感じて。



「行ったよ。病院」



 紫のその言葉に、瑠依は思いの波から引き戻された。

 顔を上げると、紫は瑠依を見ていた。まるで、そこにいろと言わんばかりの目つきだった。そして律子が一言二言何かを発した気配の後、紫はつかつかと瑠依に歩み寄り、瑠依にスマートフォンを差し出した。



「瑠依に代わる」



 有無を言わせないような動作に、瑠依は思わず光る液晶画面に手を伸ばしていた。受け取ってしまった後、訝し気に紫を見ると、顎でスマートフォンを示されるが、無言。

 何かあるのだろうか、と紫の先程の発言に引っ掛かりを覚えながら、スマートフォンを耳にかざす。



「代わった」



『あ、瑠依ー? 元気にしてるー?』



母の間延びした朗らかな第一声に、瑠依は拍子抜けした。強張っていた肩の力が抜ける。



「元気だけど。というか、昨日も電話しただろ」



『なあに? 毎日確認しちゃダメなのー? 出来すぎる息子に親の心配は不要ですかーそうですかー』



 拗ね気味になる雰囲気が伝わってきて、瑠依は思わず目を眉間に手をやった。子どもか。



「そんなことは言ってない。忙しいのに心配してくれてありがとうございます」



「本当に思ってるのかー? 紫といいあんたといい、うちの子は親離れしすぎて寂しいわー。紫は急にこっちに帰ってきた理由も教えてくれないし。もうちょっと親に自分のこと教えてほしいもんだわー。お父さんも、最近返事がそっけない、とか嘆いてたわよ。もうちょっと優しくしてあげて」



 念を押すような調子に、分かった、と半ば折れて返事をする。しかし、瑠依の頭の中では紫の発した『病院』の文字が渦巻いていた。



「姉貴から代わったのは、俺の様子を知るためだけか?」



『またそっけない。あ、もしかして反抗期!? 嘘! ついに来た!? 大丈夫、お母さん受け入れる覚悟はできてる……』



「お袋」



 しびれを切らして、瑠依の声に咎めるような色が乗る。


 すると、先程までのテンションが嘘のように、相手側に急な沈黙が下りた。

 そして、息をつくような様子とともに、しんみりとした硬い声が返ってきた。



『ごめん。ちょっと緊張してて。紫にね、「楓ちゃんどうだった?」って聞いたら、瑠依に代わるって言われて。だから、今日、病院で何かあったんじゃないかって思って……。不謹慎だった』



 その言葉に、瑠依は紫を見やった。本人は既にこちらに注視してもおらず、瑠依の対角線に位置する椅子に座りながら、んーと日に焼けた手足を伸ばしている。


 俺が答えたほうが良いということだろうか、それとも。


 姉の真意を測りかねながら、今日の出来事に思いを巡らす。


 そして、浮かび上がる楓の姿。嫌でも、はっきりと、鮮烈に蘇る光景。


 楓が座り込み泣き叫ぶ姿。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と自分を責めるしかない小さな背中。

 あまりにも痛々しくて、寂しくて、やるせなくて、自分の胸を打つ。ひどく、胸の奥まで突き刺さる。



『瑠依?』



 慮るような声がして、瑠依ははっと意識を電話の向こうへと戻した。



「ごめん」



『大丈夫よ。……それで?』


 そう尋ねる声は心なしか震えていた。


 母律子は、楓の母遥の異変を察知し、精神科に連れて行った張本人だ。そして、「あの日」、つまり11年前の今日、自殺を図った彼女の身体が運ばれた病院で処置を施した看護師の一人でもある。死の迫った患者が運ばれてくることは日常であったはずの律子でも、親友の変わり果てた姿には、気持ちが追い付かなかったのだろう。一時期ノイローゼ気味になるほど気に病み、担当看護師でもないのにICUへと足を運び、毎日のように彼女の容態をチェックしていた。そして、彼女が植物状態のまま病院を移っても、時間を見つけては見舞いに行くほどに、彼女を気にかけている。そして、そう心配する対象はその家族にも。自ら死を選択した彼女が、残した家族。あのときはまだ幼かった身寄りのない二人の身を案じずにはいられなかった。


 

 藤森家と瑞谷家は、他人というには関わりすぎていて。

 その誰もが、「あの日」をそれぞれの形で胸に刻みこみ。心に巣食ったまま、未だに消えない。


 

 瑠依は息を吐いた。思い出すたび、それが本能であるかのように込み上げてくる激情を抑える。

 今、自分では把握しきれないほどの感情や思考が渦巻いていて。その半分も整理しきれていないけれど。今日のことを言葉にするには、時間が必要だろうが。

 それでも、母には伝えなければならないと思うのだ。「あの日」から動けずにいるのは、母も同じなのかもしれない、と。


 それを自覚しながら伝えるのは胸が痛いけれど、それでも伝えることは自分のすべきことだと思った。



「中には入れなかった」



 その一言を発するだけで胸が塞がれる。楓の苦しみは続くのだと、思い知らされる。

 だが、痛みに翻弄されるだけでは、楓を支えることはできない。

 強くあれ、と己を焚きつけ、痛みに呑み込まれぬよう、踏み止まる。



「……そっか」



 暫く間があった後、律子の声がそっと落とされた。噛みしめるように、その言葉だけで、様々な思いを巡らせていることが伝わってきた。

 


「瑠依。楓ちゃんの傍にいてあげてね。……傍にいてあげるだけで、きっと違ったのよ」



 瑠依は、今まで見えなかった母の後悔を垣間見た気がした。親友を救うことができなかった母の吐露に。そして、今も眠り続ける親友を思って。


 母は、肝心なときにそばに居てやれなかったことを悔やんでいるのだろうか。子どもの目では捉えることのできなかった、あの頃の事情を、大人として抱えているのだろうか。

 

 ただ、祈るような、叶わぬ願いを込めるような母の呟きを、自分は受け止めなければならないと、瑠依は思った。


 その言葉に宿る思いが、自らが楓に向ける思いと、どこか似通ったものがあるような気がしたから、だろうか。


 瑠依はその感覚を噛みしめる様に目をつむる。



「必ず」



 自分に言い聞かせ、その言葉を刻み込む。


 律子は、「男の子ね。気迫が違うわ」と僅かに笑いながら、そろそろ仕事に戻らなきゃ、と言って名残惜しそうに電話を切った。切る直前の声が掠れていたように聞こえたことは、胸のうちに留めておこう、と瑠依はひっそりと思った。



 余韻を残したまま、回線の切れたスマートフォンを持ち主に返そうと振り返ると、紫は頬杖を突きながらじっとこちらを凝視していた。

 その真っ直ぐな瞳に、居心地の悪さを感じながら、スマートフォンを返す。紫はスラリとした腕を伸ばしてそれを受け取っても、瑠依を訳ありげな顔で見つめたままだ。



「何」



 思わず声を上げると、紫は表情を変えず、



「正直?」



と意味を成さないような言葉をポツリと落とした。



「……何が言いたいんだよ?」



 瑠依が問い返すと、紫は射るような探るような目で見つめてきた。



「あんたが、今、自分の心に正直なのかなと思って」



 瑠依は一瞬その言葉に躊躇した。正直。



「……なんで今そんなこと聞くんだ」



「秋陽の言ったことを実行しようとすることは、あんたの本心に忠実なの?」



 問を与えるように投げかけられた言葉に、一瞬息を呑んだ。そして、その意味を呑み込むと同時に、瑠依の身体が強張った。


 姉が自分と秋陽の会話を知っていることも驚きだが。

 

 その問いかけ自体に、自分の心が疼いた。そのことにひどく狼狽し、恐れが背筋を走る。


 紫は押し黙る瑠依の心臓を指差し、追い討ちをかけるように問う。



「本当に自分の意志?」



 紫はこういうところがある。率直であるからこそ、その言葉は人の心に直接響く。

 幼き頃はそれが怖かった。何でもずばずば物を言い、相手のことなどお構いなし。

 しかし、今の投げかけは昔のそれとは違うような気がした。ただ知りたいから、自分が言いたいから、という理由だけの言葉ではなく。

 諭すような、それが正しいのかと、相手の気持ちを確かめるような意思があるような。そんな印象を受けた。



 だが、瑠依はその問に、迷いを持ってはいけないと思った。戒めたばかりの自分の心を揺らがせてはいけない。楓を支える、繋ぎ止める、そのために。だだ、その戒めが、瑠依の身を引き締め、強くあれと囁く。



「自分の意志だよ」



 紫を見据えながら言い放つと、紫は暫く瑠依の瞳を見つめ続けた後、



「そう」



 と短く言った。

 納得したのか、それとも、自分の中にその言葉とは異なる隙を見つけたのか。

瑠依は、紫の腑に落ちない返答に心が揺らぎそうになった。しかし、そんな自分の迷いを振り払うように、学生鞄のチャックを開ける。その中から包を取り出す。結局楓が口をつけることのなかった弁当箱だ。


 処分しようと瑠依が動くと、紫も動いた。



「その弁当、私にくれない?」



 と包を指差す。



「もう腐ってる。こんなの食べたら腹壊すぞ」



「大丈夫よ。ネパールの水でも腹下さなくなったのよ? 一日置いた弁当ぐらい、美味しく頂くわよ」



「……自己責任だからな」



 そう言って渋々瑠依が紫の前に包を置くと、紫は子どものように無邪気に笑って包をといた。



「瑠依、箸ー」



 当たり前のように命じる紫に、瑠依は諦めの苦笑を浮かべながら、台所へ向かう。


 

 そして、そう言えば、と瑠依は母との電話の内容の一部を思い出した。



「お袋が、こっちに帰ってきた理由教えてくれない、って嘆いてたけど、」



「んーー、あーまあ、別に人に言うもんじゃないし」



 紫は待ちきれなかったのか、整っただし巻き卵を手で摘んで口に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。



「親にくらいは言えよ。心配するだろ。あっちで何かあったんじゃないかって」



「あんたもお母さんと同じこと言うのねー。外とのことは関係ないのよ」



「じゃあなんで帰ってきたんだ」



 瑠依が箸を持ってきて、紫に手渡しながら尋ねる。


 紫はんーと一瞬考え込むと、魚の切り身に箸を入れ、ほぐした魚の身をかざしながら、ニヤリと笑った。何処か秘めたものを覗かせながらも、清々しい笑みだった。




「人の人生の一部になりに」









 「あの日」の影を色濃く残しながら、4月9日の夜は更けていった。


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