第26話 コーヒーと唇


 アフリカのとある場所で。




 私は所属しているNGO団体から、その地域の調査員として派遣され、現地で行われているボランティア活動に参加しながら、現地の調査を行っていた。




 


 そして、その日は、突然何の前触れもなくやってきた。




 




 路地を歩いていると、日本よりも日差しの強い太陽が、肌に痛みを感じるほどじりじりと照り付けてくる。




 この地域は湿度が高く、どこへ行っても人の汗の臭いがむわっと空気中に漂っている。




 衛生状態は決して良いとは言えず、公衆トイレの設置の案が却下されるほどだった。


 路地の隅の排水溝には黄色く変色した泥水がたまっていて、その上に木屑や、得体の知れない黒々とした塊が点々と沈み込んでいる。何かが腐ったような臭いが、汗の臭いと共に立ち籠めてきて、私は思わず顔を顰めた。この地域に滞在して一週間は経つが、未だにこの匂いにはなれない。無臭を美とする日本の空気が懐かしかった。思わずもよおしそうになる、そんな臭いが。人の生と死が入り交じったような、そんな臭いが。この地域の空気なのだ。




 そして、蝿はえがあちらこちらで群をなしては飛び交っている。


 私は色鮮やかなミサンガを巻いた腕で、飛んできた蝿を振り払った。ミサンガは、日に焼け、骨が浮き出るほど痩せこけた腕を、よれてぼろぼろになった服から晒していた押し売りの少年から買ったものだった。受け取った彼の掌は、垢と泥だらけだった。この街は、そういった子供たちでいっぱいだ。家族を養うために学校にも通えず、稼ぎに出る少年少女で溢れている。




 私は、そういった子どもたちをターゲットにして支援を行おうとしている団体と連携し、調査を進めているのだ。




 しかし、実際に現実を目の当たりにして、どこから手を付けてよいのか分からないのが困った。


 それだけ、この地域は貧困に喘いでいる。一日一日を生きていくので精一杯な人たちで溢れている。餓死した死体が転がって、腐敗した姿も見た。最初に屍を見てから、二、三日は食事が喉を通らなかった。


 日本とは全く違う光景が、ここでは日常なのだ。


 分かっていたはずなのに、いざ実感すると想像の遥か上を行っていた。自分の甘さを思い知らされる。めったに自身を卑下しない自分でも、今まで私は何をやってきたのだろう、という自己嫌悪に駆られる。




 既に固まった泥がべっとりと付いたナイキの運動靴で、砂地を踏みしめる。風が吹いて、ほこりが入り交じったような粘ついた砂が空中を舞った。酷くむせながら、私は人通りの少ない路地に入っていたことに気付いた。




 『ミズタニ、ここは昼も危険です。人がいない場所に決して行かないでください』と、ここに滞在して長い仲間が注意していたことを思い出す。




 その忠告通りに、人通りの多いところに戻ろうと踵を返したその時、






 それは突然に起こった。








 ***








「藤森、お前の家族って人が来てるぞ」






 大学院二回生の林が研究室に入って来るや否や、フラスコの中を覗いていた秋陽にそう声を掛けた。






「……家族ですか?」






 秋陽は実験用ゴーグルを額へと上げ、林に目を向けた。


 彼はこの研究室で秋陽の先輩にあたる。研究室のメンバーは髪を短く切るか纏めることが原則で、彼は後者だった。長く伸びてパサついた髪を後ろで結んでいて、毛先がぴょんと跳ねている。秋陽の彼の第一印象は「チャラい」だったが、実は彼が研究においてメンバーの要かなめ的存在である、と知ったのは研究が本格的に始まってからだった。




 そんな彼がそう声を掛けてきて、秋陽は思案した。




 楓だろうか、という思いが一瞬頭をよぎるが、彼女がここまで来たことはない、とその考えを否定する。それに、この時間帯だと彼女は授業中のはずだ。


 それでも、何かあったのだろうか、と頭の中で不安がよぎった。




 林はそんなことも知らず、秋陽の返しにああ、と頷きながら、






「お前にあんな美人なお姉さんいたのな。良かったら紹介してくんない?」






 と、妙に軽い口調で告げてきた。




 秋陽はその言葉に思わず、はい?と聞き返してしまった。














「よ。来ちゃった」






 研究室を出てすぐ側にある休憩所に赴くと、出迎えたのは観葉植物と自動販売機、そしてそれらを背景にして晴れ晴れとした表情を浮かべながら快活に手を挙げてきた紫だった。


 秋陽は、彼女の姿を見て頭を押さえたくなった。しかしそれを堪えながら、案内のために付いてきてもらった林に向き直って淡々と告げる。






「先輩。彼女は家族ではありません。関係者立ち入り禁止区域を平気でうろつく人なので、これからは見かけても案内して頂かなくて大丈夫です。お手数おかけしました」






「え、いいのか?家族じゃないのかよ」






 秋陽の言葉に、意外そうに唇を尖らせながら尋ね返してくる林に、






「ただの知り合いです」






 と念押しすると、






「つれないわね。色々ある仲じゃない」






 紫が余計な一言を放った。絶対揶揄っている。






「紛らわしい言い方をしないでくれ」






 本格的に頭が痛くなってきた秋陽は、紫に苦渋の思いで言った。




 そして、え、え、え、と束ねた黒髪を揺らしながら自分と紫を忙しなく見比べている、自分の先輩に訂正を加える。






「彼女の言葉はすべて狂言と受け取ってもらって構いませんから。先輩、ありがとうございました。すぐ戻りますので」






 そう言って彼の背中を押し、研究室への強制送還を試みる。それでも先輩はこの場所に留まりたいようで。






「本当にそういう仲じゃないの?じゃあ俺に紹介してもらっても……」






「先輩、戻ってください」






 ニヤニヤしながら遠巻きに眺める紫と、引き下がらない先輩に挟まれた秋陽は、ため息をつきたくなるのをギリギリで堪えていた。






 やっとのことで林を研究室へと送還したころには、時計が十分ほど進んでいた。






「仲いいのね」






 林が姿を消すと、紫はしれっと言い放ち、薄緑の長椅子にどかっと腰を下ろした。




 秋陽は深いため息を吐いた。ため息が長い!というお叱りを紫から受けながら、自販機へと足を向ける。






「こんなところまで来て、何がしたいんだ」






 背中を向けながら自販機のボタンを操作し、口調には刺々しさを隠さない秋陽に、紫は頬杖をついて彼の背中を見やった。






「昨日から思ってたけど、なんで不機嫌?もしかして昨日追及したこと気にしてんの?」






 秋陽の背筋を空気がざわりと撫でる。いきなり核心を突くような質問に、秋陽は自分が紫に背を向けていることを幸いに思った。




 『あんたが一番恐れているのは、なに?』




 紫の言葉と共に、昨日の感覚が戻ってくる。自分が恐れているものを掘り起こされていくような感覚が。


 背筋に汗が一つ降りた。






「また追及するのか」






 声が震えそうになるのを抑えながら、動揺を悟られないように後ろの紫にそう尋ねる。人の目がある大学で、あの感覚を思い起こしたら。無意識に秋陽の肩が震えた。




 しかし、紫はそんな秋陽から目を離し、うーんと両手を上に高々と突き上げて伸びをしながら言った。






「今日は違う。ただ、本当に忙しいんだなって様子見に来ただけ」






 その言葉に、秋陽は全身に違和感を覚え、驚いて紫を見やった。


 彼女がそんな殊勝なことをするなんて、と意外だったのだ。




 紫は何か言いたげな秋陽の顔を見て、苦笑した。






「何だその顔は。私が純粋に心配するのがそんなにおかしいの」






「いや……」






 秋陽は「慣れない」と言いかけた台詞を飲み込んだ。




 違う。紫はこういう性格だった。破天荒で無茶苦茶でも、人の心配はするし、面倒実が良いところもあった。それは、自分に対しても。


 ただ、離れていてその感覚を忘れていただけで。


 「慣れない」のは、こうして気にかけてくれる紫がいること。




 その発見に、秋陽はむず痒さといたたまれなさを感じ、それを誤魔化すように自動販売機で購入したばかりの缶コーヒーを二本掴み、紫に歩み寄って差し出した。両方ともブラック。






「飲んだら帰るんだぞ」






 紫はわかった、と珍しく素直に言って自分に近いほうの缶を受け取った。秋陽の手からひんやりとした缶が離れていき、じんじんとした感覚だけが左の掌に残った。


 紫は一気にプルタブを開けると、ぐいっと喉を逸らしながら豪快に缶を傾けた。


 秋陽は一人分の隙間を作り、紫の隣に腰を下ろす。


 その姿を眺めながら、紫が口を開く。






「白衣、似合ってるじゃん。もうちょっとちんちくりんな格好を想像してたんだけど」






「期待に沿えなくて悪かったな」






「これはこれでいいんじゃない。大人って感じでさ」






 紫は缶の縁に唇をつけながら呟いた。




 大人、と秋陽は心の中で反芻する。


 自分は、大人、なんだろうか。そうなれているんだろうか。成長しているんだろうか。




 そう自分に問いかけて、否定する。




 自分は、大人になれてなんかいない。自分の家族を守れるほどの力もない。それで大人なんて。






「形だけだ」






 秋陽が投げやりにそう言うと、紫は横目でしばらく彼を見ていた。しかし、さっと腕を動かすと、






「もーらいっ」






 秋陽の右手にある缶を横取りした。






「おい!」






 秋陽が止める間もなく、二つの缶コーヒーの中身は全て紫の胃の中に流し込まれた。






「ぷはー。やっぱり日本のコーヒーは旨いわ」






 ぐいと無造作に口元を拭いながらしみじみと呟く紫に、秋陽は諦めたように空になった缶を紫の手から回収し、リサイクルボックスの穴に入れた。




 そして、紫の元へ戻った秋陽は、紫のじっと見つめる視線に嫌な予感を感じた。






「焦ってんの?」






 紫はそう唐突に尋ねた。今までの雰囲気の流れをぶった切るような一言だった。




 秋陽は不意を突かれて息を飲み込んだ。


 そんな彼に、紫は真っ直ぐ目を合わせてきた。


 その漆黒の瞳は、昨日自分を射抜いた強い眼差しを宿したそれで。秋陽は魅入られるとともに、目を合わせていられないような恐れを感じた。






「あんたはいつも焦ってる」






 発せられた言葉も真っ直ぐ秋陽を貫いて、秋陽は立ったまま動けなくなった。足の感覚があるはずなのに、動かない。まるで釘に打ち止められているように。 




 存在感と言葉が秋陽を委縮させた。そうさせるだけの意味とオーラが紫にはあった。






「ちっちゃいときも、小学校も、中学校も、高校も、今も」






 期間ごとに間をおいて、まるで噛みしめる様に喋りながら、紫は秋陽を見上げた。漆黒の瞳に白い光の線が走る。栗色の髪が揺れ、その鮮やかな色が光の反射で白く光った。






「あんたは、いつ休めるの」






 秋陽は紫が自分を心配してくれているのだと、頭では分かっていた。


 それでも、秋陽はその言葉を振り払うように目を瞑った。


 喉が渇いていた。それは、何も飲んでいないから、だけではなかった。




 これ以上聴けない。これ以上聴いたら、自分の何かが壊れる。


 紫にまた、自分の凶暴な部分をさらすことになったら。






「もうやめてくれ」






 秋陽は絞り出すように声を出した。言って、秋陽は自分の片掌で額を覆った。






「頼むから、これ以上介入しないでくれ」






 心からの懇願だった。恐ろしかった。この空間も。何もかも。そして、それを恐れている自分が一番怖かった。得体が知れなかった。自分だけ、異質な空間に居るような気分だった。




 疎外感、孤独感。




 何かが這うように体を蝕んでいく。地に足がついていないような感覚が襲う。


 体が破れて何かが飛び出してくる。




 俺は……。


 俺の家族は、本当は……。






「そんな顔をさせたいわけじゃなかった」






 紫の呟きが耳に入り、秋陽の意識は辛うじて引き戻された。彼女が立ち上がる気配を感じて。




 俯いて掌に覆われた視界の隙間から、細い指がうつった。そして、秋陽は頬に触れる柔い存在を感じた。紫の指先だと分かったのは、秋陽の輪郭がその指にすっと撫でられてからだった。それは、そのまま秋陽の頬を包み込んだ。


 その肌の感触に、生々しさに、秋陽が目を見開いて顔の覆いを解くと、目の前には、紫の優しさに揺れた深い瞳があった。


 それは、今まで、秋陽が一度も見たことのない、今までのはちゃめちゃな紫からは想像もできないような、優しさと柔らかさに満ちた表情だった。疎外感や孤独感が溶けていって、地に足がつく。そしてその紫の表情に、秋陽は酷く惹かれた。






「紫、女になったな」






 思わず秋陽がそう呟くと、






「そう思うか」






 紫はゆっくりと微笑んで、艶やかな睫毛まつげを伏せると、秋陽の唇に自分の唇を寄せた。


 コーヒーの苦みがじんわりと伝わってきた。




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