第25話 日入りと動揺
太陽が傾き始め、廊下にはオレンジ色の光が差し込んできていた。野球部専用と化した第二グラウンドの濃緑色のフェンスが窓越しから遠目に見え、その境目を、今は黄金色に光る木々が覆っていた。
金属音が1つ盛大に鳴り、これはよく球が飛んだだろうと瑠依は外へと目をやった。
遠山が廊下に出てからしばらく、「雑談でもしましょう」と言った彼は一言も発さず、ただ横目で外の様子を眺めては、ちらりとこちらに目をやってにこりと笑うくらいだった。
瑠依はそれなら何故いるのだろうと、警戒心を持って彼がそこに居るのを見ていたが、遠山は素知らぬように、にこりにこりと笑顔を向け続けるだけだった。
そして、しばらくしてその沈黙を破るように、一人の生徒が自分たちの目の前で足を止めた。
「あ……」
その声に瑠依が目をやると、その生徒は、帰り際に話しかけてきた内藤だった。
瑠依と遠山が向き合っている姿にびくりと肩を震わせて、目を丸くしている姿に、無理もないと、瑠依は他人事のように考えた。
生徒と教師が廊下を挟んで相対しているのだ。しかも無言で。自分でもこの構図は謎なのに、通りかかっただけの何も知らない彼女にとってはもっと謎だろう。
挙動不審になりながら、ちらちらとこちらの様子をうかがっているさまに、瑠依は彼女が声もかけずに通り過ぎるかと思ったが、
「……瑞谷くんの用事って、遠山先生とのことだったんですか」
と話しかけられた。
その声はひどく小さく震えていて、瑠依はふと同情に駆られた。勇気がないのに、自分に対しては勇気を出そうと話しかけてきたのだ。しかも、この時は友人も連れず一人で。このときばかりは無下にはできないという思いが胸を占めた。そして、その姿に微かに楓の姿を重ねていた。
「そう。内藤さんは、今から帰り?」
瑠依が話しかけると、内藤はぱぁっと花が咲き乱れたような喜びあふれる表情をした。その瞳は爛々と輝いており、誰が見ても瑠依に思いを抱いていると分かる表情だった。
「はいっ……これから帰るところです」
驚きもあるのだろうか、瑠依の言葉を繰り返して、内藤はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。喜びを内に秘める様に。
「気をつけて帰ってね」
「はいっ。そうします。瑞谷くんも気をつけて!」
内藤は瑠依の優しげな言葉に唇を震わせて、いつもより張りのある声で返答した。そして、遠山に向けて「失礼します」と言い、足音小刻みにその場を去っていった。動作がいかにも、良いところ出のお嬢様のようで。育ちの良さが見て取れた。
「浮気はいけないですよ」
「そんなんじゃないし、浮気にもならない」
揶揄うように瑠依に向かって言葉を投げかけてきた遠山に、瑠依は首を振って答えた。
「でも、彼女はあなたに好意を持っているでしょう」
「そうみたいだけど、俺にはどうでもいい」
つい吐き捨てるような口調になってしまったと思ったが、相手が遠山ならば気にすることもないかと思った。
しかし、瑠依が遠山を見やると、彼は、今まで見せたことのないような悲しそうな、そして寂しそうな顔をしていた。それはまるで、母親に置いて行かれた子供のような表情ともいうべきか。
「やはり血は繋がるものですね」
「何て言った?」
野球部が放った勢いの良い金属音に、その時の遠山の声はかき消された。
そして、その寂しげな表情もつかの間の出来事で、遠山はまた食えない笑みを浮かべる大人に戻った。
「いえ。なんでも。君には、ああいう好意を寄せてくる人が多いのでしょう?その誰かと付き合おうと考えたりはしないんですか。君も年頃の男の子でしょう」
今学期来たばかりの教師が、なぜそこまで知っているのだろうと訝しむと、遠山はそれを察したのか、
「職員室にいるとね、いろんな子の話が聞けるんですよ」
大人とは心底嫌なものだと思った。
そして、昨日からこういった話題を振られてばかりだ、と瑠依はげんなりした。自分の今の思いが複雑であるだけに、こういった系統の話には乗りたくなかった。
「俺の勝手だろ。口を挟まれる云われはない」
「そうですけど。でも、君がそうやって意固地になっている分、困っている子もいるのでは?」
遠山の言葉に、瑠依ははっと彼を見た。その目はこちらを射すくめているようで、撫でているようで。見透かされているようなそんな居心地の悪さがあった。
しかし、彼の言葉が指した困っている子、とは。
「楓のことを言ってるのか」
「どうとるのかは君次第ですから。君がそう思うのならそうなんでしょうね」
瑠依が訝しんで尋ねると、遠山は窓の手すりを両手でつかんでうーん、と伸びをしながら言った。
真面目に話す気があるのか、それともこれは遠山の言うような雑談なのか測りかねる。しかし自分にとっては避けられない議題であることは事実だった。
「なんで彼女が困るんだと思いますか?」
いきなり核心をつく言葉を投げかけられ、瑠依は一瞬たじろんだ。
楓が困るわけ。
自分が振った相手が、楓に群がって嫉妬するわけ。
何度も考えてきたはずだった。楓が女子生徒の言葉に傷ついて帰ってくるたび、考えなければならないと、何か手を打たなければならないと思ってきた。
だから告白される相手には、一切気を持たせないようにしようと努めた。最初のころは「ありがとう」や「ごめん」と、相手の気持ちに失礼のないようにやんわりと断ってきた。しかし、それが最終的に楓を脅かす感情になるなら、最初からぶった切ってやろうと思った。どんなに自分のことを思ってくれる好意だったとしても、ありがとうも言わない。「付き合えない」と一蹴するだけ。
しかし、そう態度を変えても、楓に対する嫉妬の波は変わらないどころか強くなっていった。
自分たちが傍にいる限り、避けられないことなのかもしれないとも思った。しかし、嫉妬の波から逃れるために、楓を一人にすることはできない。それに、今更お互いから離れることはできないほど、楓の存在はもはや当たり前になっている。
だからこそ、今まで、未だに解決できずにいたのだ。
しかし、もしかしたら解決の糸口が見つかるかもしれないと、この時瑠依は思った。
たとえ、助言をもらうのが遠山という信用ならない存在からであったとしても、ないよりはましだった。
「分からない。あんたは、何かわかるのか」
瑠依が存外素直に尋ねると、遠山は意外そうに笑った。今まで突っかかってきた相手が、素直になる様がおかしかったのか。その姿に、瑠依は悔しさを覚えたが。
そして、遠山は顎に手をやって考えるふうにした。「そうですね……」と言い呼んでから、
「藤森さんが傷つきやすいということもあるでしょうが、」
と一言いい、瑠依はその続きを、遠山の顔を注視しながら待った。再び、カキーンという金属音が響いてきた。
「君がはっきりしないから、なんじゃないですか」
その言葉には悪意も、相手を傷つけようとたくらむ様も取れなかった。相変わらず何を考えているか分からない瞳のままの遠山が発したものだった。
だからこそ、その言葉は、瑠依の中心をえぐるような感覚をもたらした。
俺が、はっきりしないから。
それは、今までの自分の態度に向けたものか。
それとも、今の自分の気持ちに向けたものか。
どちらにせよ、不意を突かれたことは間違いがなく、その言葉は瑠依の奥深くに刺さった。
そして、追い打ちをかけるがごとく、遠山はふと瑠依を見ながら、どこか違う場所を見ているかのような瞳をして、
「逃げるのも、うやむやにするのも、個人の心の自由ですから、僕自身にはどうすることもできませんが。」
純白の衣服がオレンジ色に染め上がる。太陽の傾きが強くなり、その光は闇もほのかに含まれていた。薄暗さが遠山の姿をうっすらと覆い隠す。
「彼女を傷つけたくないと思うのなら、立ち向かってみてはどうでしょう」
瑠依の心は、この時確かに大きく揺さぶられた。
「楓、着替えましたか?」
「え、あ、ちょっと待ってください!」
カーテン越しに奏の声がして、楓は慌てて拭いた素肌の上にセーラー服を羽織り、ボタンを止めていく。
着替え終えて、ホッとし、
「着替えました」
そう、カーテンの向こう側に声をかけると、奏がシャーと勢い良くカーテンを開け、姿を表した。その面には、天真爛漫な笑顔があった。
「私達、先生にまでお世話になっちゃいましたね」
「そうですね」
「楓は温かいもの、飲みたくないですか?」
急にそう尋ねられて、え、と問い直したときにはもう、奏は保健室に常備してあるポットの方へ向かって歩き出していた。
そして、その隣にあるお茶のパックを取り出し、二人分のコップを戸棚から出し始めた。
「え、先生にいったほうが……」
「大丈夫です。使っていいですよ、って言われましたから」
そう言いながら、奏は艶のある黒髪を揺らしながら用意をしていく。ガチャガチャと陶器のぶつかり合う音が響いた。
「楓はレモンティーがいいですか?えっと……ダージリンもありますけど」
「じゃ、じゃあ、ダージリンがいいです」
そう答えると、奏は了解しました!と言って作業を進めていき、ものの数秒して、2つのマグカップを持ってきて楓に片方を手渡した。
「冷えちゃいましたからね。温かいものを飲んで温まりましょう」
その朗らかな笑顔に、楓の心は落ち着いて、自然と頷いていた。ダージリンの落ち着いた匂いが鼻孔をくすぐる。奏は楓が使っていたベッドに腰を下ろし、ズズッと飲み始めた。ベッドのスプリングがぎしっと鳴る。
「楓はダージリンティーが飲めるんですね。かっこいいです。私はダージリンティー、挑戦したんですけど味が苦くて飲めませんでした」
「兄が良くコーヒーとか入れてくれていたので。苦いのは結構大丈夫なんです」
悔しそうに言う奏に、微笑みを返しながら、楓は思い出していた。秋陽が勉強の合間に自分のコーヒーを入れる際に、楓のぶんも入れてくれて、一緒に飲んだこと。あの瞬間はほっと一息つける時間だった。
「さっきの人のことですか?」
見当違いのことを言われて、楓ははっと現実世界に引き戻された。慌てて否定する。
「えっと、瑠依は血が繋がってるわけではなくて。彼がそういう関係だよって言ってくれただけなんです」
「え、それは結婚を約束しているんですか!?」
急に身を乗り出して奏が黒髪を揺らしながら楓に詰め寄った。マグカップに入っていたレモンティーが揺れて零れそうになった。甘酸っぱい香りが漂ってくる。そんなこともお構いなしに、急に突拍子もないことを言う奏に、楓は目を丸くした。
「えっ……、いや、そういうことではなくて……」
「違うんですか?血が繋がってなくて家族ってことは、そういうことじゃないんですか?」
「えっと……そんな単純なことじゃなくて……」
そう言いながら、奏の驚きっぷりに、自分たちの関係は普通ではないのだろうか、と楓は一瞬思案した。
「なんというか、ずっと一緒にいて、家族みたいに接してくれる存在なんです。結婚とか、そういうのは関係なくて」
自分で言いながら、楓は自分の胸が一つ跳ねるのを感じた。
一方で、奏はおお、と納得したように頷いた。
「なるほど、そういうことですか。そういう人だったら私にもいます」
肯定してくれて、理解してくれたようだと楓がほっと胸をなでおろすと、
「そういう人って、本当に大切ですよね」
奏がふとしみじみと呟いた。その言葉、その関係の一つ一つを大切にしたい、という意志が感じられるような言い方で。
楓の中にも、じわりと感慨深いものが広がった。
そうだ。私とって、瑠依は大切なんだ。
「そうですね」
しばらく二人で感情に浸るようにして、沈黙が降りた。マグカップから立ち上る二つの湯気が静かにゆらゆらと揺れていた。
「また、一緒にお水、上げてくれませんか」
奏がそう尋ねてきて、その楽しげな雰囲気と、期待するように爛々と輝いた綺麗な榛色の瞳に、楓は自分でもそうしたいと思いながら、頷いた。
「私で良ければ、喜んで」
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