第24話 『家族』と『家族』
『お前の髪へんだよなー』
そんな声と共に、わたしの髪は引っ張られていた。グイッと急に引っ張られて、わたしは教室の床に倒れこんだ。
『いたいっ』
『小学生から染めちゃいけないんだって、知らねえの?』
『そうだよ、先生がダメって言ってたぜー』
ガキ大将的存在の彼に付き従った何人かの男子に囲まれ、わたしは逃げ場を失った。
『違う、これは染めてなんかいない……』
『聞こないんだよ、もっとはきはき喋れよ』
ガキ大将の男の子がわたしの髪をもう一度グイッと引っ張った。引きちぎられるかと思うほど痛くて。
何を言われても勝てる気がしなくて、こんなときどうしたらいいのか分からなくて、囲まれていることに恐怖を覚えて、今から何をされるのか分からなくて、
『ちがう、ちがうよ……』
と、小さく否定しながら、身体を震わせることしかできなかった。
『泣いてやんの。女子はすぐ泣くよなー』
『そういえばさ、こいつの母ちゃん授業参観に来てなかったよな』
『お前知らねえの?こいつの母ちゃん、身投げしたって、』
心臓がドキリと跳ねる。痛い。止めて。
『身投げって何だよ』
『自分から死ぬことなんだって、俺の母ちゃんが言ってたぜ』
『俺も聞いたことある。藤森の母ちゃんはとおちゃんがいなくて、子育てに悩んでおかしくなって』
『じゃあ、こいつのせいじゃん』
『まじかよ。こいつのせいかよ』
ちがう。
そう言いたくなって、やめた。
ううん。違わない。違わないんだ。
わたしがお母さんを悩ませて、それでお母さんは。
『おまえ、自分の母ちゃん困らせて自殺させたのな』
『ひっでえ』
違わない。みんなの言ってることは、全然違わない。
わたしが確かにお母さんを殺しかけたの。
笑顔のすてきだったお母さんを。お姫さまみたいに綺麗だったお母さんを。優しくて、あったかくて、だこっしてくれたお母さんを。
わたしが殺したようなものだ。
『何黙ってんだよ。自分の母ちゃんに謝れよ』
ガキ大将の子がわたしの髪をまた強く引っ張り、自分のほうを見上げさせられて、その子がわたしの顔を覗き込む。
『そうだ、あやまれよ』
『あやまれあやまれ』
わたしは恐る恐る、震える唇を動かした。
『何やってんだよ!!!!』
その時、ガキ大将の子の頬が、誰かの拳で殴られ、ガキ大将の男の子はわたしの視界から消えた。
そして現れたのは、瑠依だった。
『何すんだよお前!』
ガキ大将の子が殴られたからか、周りの男たちがざわざわと瑠依の傍に寄ってきて、瑠依を取り囲んだ。
『そっちが楓に何やってんだよ』
『何かっこつけてんだよ』
『あ、お前、もしかして藤森のこと好きなんだろ。結婚したいですとか?』
『まじかよ。好きだからあらわれましたってか?かっこい……』
その子の言葉は途中で途切れた。瑠依がその子を殴ったからだ。
その子は一メートルほどぶっ飛んで、並べてあった机と椅子に投げ出された。
教室にいた女の子の一人がきゃーーと悲鳴を上げた。
その後は、大乱闘だった。ガキ大将組と瑠依一人の。
瑠依は一人で男の子たちをぼこぼこにし、その倍以上にぼこぼこにされながら。
それでも、ずっと言い続けていた。
『お前ら、楓に謝れ!』
『楓が殺したんじゃない!!』
『知りもしないのに、勝手なこと言うな!』
わたしはその姿を見て、わんわんと泣いていた。
瑠依がぼろぼろにされていくのが恐ろしかったのか。
今まで浴びせられていた男の子たちの言葉が今更ながらに怖くなったからか。
そのときはただ、瑠依のうしろ姿を見つめながら、先生が駆けつけてくるまで、ずっと泣き続けていた。
今ならその時の自分の気持ちが分かる。わたしは嬉しかったんだ。
瑠依が言ってくれる言葉一つ一つが嬉しくて。お前のせいじゃないと言ってくれる言葉が嬉しくて。自分の考えを真っ向から否定してくれる瑠依が、頼もしくて、大切で。
乱闘のさなかに言ってくれた言葉すべてが、私の脳裏に焼き付いて未だ離れない。
あのころから、私の中で瑠依はヒーローだった。
今までも、きっとこれからも。
***
楓は保健室のカーテンを閉め、上のセーラー服を脱いで下着だけになった。遠山から借りたタオルで、濡れた二の腕や体をふいていく。
『家族』
その言葉がさっきからずっと頭の中でこだましていた。
瑠依は、自分たちの関係をそう呼んだ。
嬉しかった。
瑠依が自分を『家族』だと言ってくれたことが。
昨日も、紫に身内だと言われたことが、楓の頭の中で思い起こされる。
家族なら、傍にいてもよいのだろうか。私は、瑠依の傍にいてもよいのだろうか。
罪だらけで、自分でもどうしようもないほどに汚れてしまった、行き場のない自分を。責めることしかできない非力で何もできない自分を。
瑠依はそれでも受け入れてくれた。
今までもずっとそばにいてくれていたけれど。それでも、自分が努力しなければ、この関係は切れてしまうものだと思っていた。家が隣だという幸運が招いた、神様からのプレゼント。それがなければ、瑠依はきっと私の隣にはいてくれなかっただろう。
いつか自分は見限られるかもしれない。いつか、呆れられて、瑠依は離れていってしまうのではないか。そんな不安が常にあった。
父が自分から離れたように。甘ったれた自分を、何もうまくやれない自分を見限って、いなくなってしまった父のように、瑠依も、紫さんも皆、いつかはいなくなってしまうのではないかと怖かった。ずっと恐れていた。自分の傍から誰もがいなくなってしまうことを。独りになることを。
でも、そうあってしかるべきなのだと思う自分もいて。母の意識がない状態で、母を自殺にまで追い込んでしまった元凶である自分が、のうのうと生きていることは許されないことだから、いっそ一人になることは、当然の代償であるような気もして。甘えるなと、幸せに身を委ねてはいけないと、自分は不幸であるべきなのだと、そう責め立てる自分もいて。
でもその声が強くなればなるほど、いけないと分かっているのに、こんなにも安寧な時を、自分は過ごしてはいけないと分かっているのに、誰かの温もりを求めてしまうのだ。昨日の瑠依が抱きしめてくれた温もりに甘んじてしまったように。
温もりが嬉しかった。暖かかった。ずっとこうしていたいと思ってしまった。冷たさを埋めてほしい、温めてほしいと、瑠依にすがった。
私は、瑠依にそうしてしまう。瑠依だけはだめだった。その思いを、一人でいなければならないという思いを吹き飛ばされて、私は彼の隣を望んでしまうのだ。
瑠依は『家族』だと言ってくれた。
それならば。
『家族』であるならば、それが許されるだろうか。
私は、瑠依の温もりを、何の気兼ねやしがらみもなく享受してもいいのだろうか。
少なくとも瑠依は、私から離れることはないと、思ってもよいのだろうか。
秋陽のように、兄としてなら。父としてなら。……弟は、違うかな。
でもそう考えて、楓は自分と瑠依の間に『家族』という言葉だけでは収まりのつかない何かがあることを、薄々と感じ取っていた。
『家族』だけでは足りない思いが。
それが何かは分からないまま、ただ瑠依の傍にいてもいいのかという嬉しさと安心感を僅かに見いだせたまま、その思いはうやむやにかき消された。
***
瑠依は保健室を出た廊下の壁に背中を預け、楓を待っていた。
そして、自分の収まりのつかない感情を持て余していた。
俺は、自分たちの感情を『家族』と言った。しかしそれは、本心であって、本心ではない。
自分は楓の家族になってやりたかった。そうすれば、一番近くで見守ってやれるし、その権利と責務は当然のように与えられる。
秋陽がずっと羨ましかった、というのも確かだ。兄のように、楓の傍にずっといられるのならそうしたいと。
幼い頃、アイスキャンディーに見せた笑顔を目にしてから、瑠依はずっとそう思っていた。兄弟であればいい。身内であれば彼女が傷ついていてもそばにいてやれるし、第一傷つくのを阻止できるかもしれない。
今までの自分にそこまでの権利はなかった。あのときは『家族』という壁がそれを許さなかった。ただただ、楓の一番傍にいるのが自分でないことに、そして守ってやれないことに、幼いながら歯がゆさを感じていた。
しかし、今は違う歯がゆさが入り交じっている。
秋陽には、あり得ないと否定した。「楓が好きか」と尋ねられて、「好きだ」と答えた。でもその時点で、自分にとって楓が女性であるかどうかは関係ないと思っていた。「楓は楓」だ。それは自分の中で揺らがない。幼い頃から今までずっとそばで接してきた時間と、存在が、自分にとっての楓だった。
だから、恋愛感情や、男女の仲を匂わせる感情は否定した。あり得ないと、本気で思っていたからだ。
そして、秋陽に「もし楓を女性として意識する時が来ても、お前はそれを抑えられるか」と尋ねられ、戒めを受けても、そうなることは万に一つもないだろうと思っていた。自分たちには、それを超えたいわば『家族』のような絆が備わっていると思っていたから。
でも、今はどうだろう。戒めたはずなのに、言い聞かせれば言い聞かせるだけ、楓に湧き上がってくる衝動は、今までのそれとは違うものだった。まるで、今まで隠れていたものが、戒め直した途端溢れてきたような。
自分が恐ろしいと思った。自分は、楓を傷つけないでいられるだろうか。彼女の父親のように、無責任になるのではなく、楓のことだけを第一に考えて行動できるだろうか。
その自信が、時間がたつにつれて削られていく感覚がして。自分は、もしかしたら。楓の父親のようになってしまうのかもしれない。
嫌だ。それだけは。楓を傷つけることだけはしたくない。
だから、『家族』という言葉に逃げた。そうやって殻をかぶった。もはやそこは逃げ場だった。
『家族』のような存在であり続ければ、自分は楓を傷つけずにいられる。
邪な思いで、楓を八つ裂きにしてしまうような自分と、対面せずにすむような気がする。
もう、この感情が溢れてくるのを抑えられることができないなら、せめて楓の前では『家族』でいようと。
がらりと保健室のドアが開いた。楓かと思ったら、そこにいたのは自分の嫌悪する遠山だった。
「中に入らなくていいのですか」
「俺は必要ありませんから」
「君が覗く心配はしていませんよ」
揶揄うような態度に、瑠依は顔を顰めた。本当にこいつは教師なのだろうか。
「今は一人がいいので」
「反抗期みたいなことを言いますね。あ、反抗期ですか」
昨日の母との会話がよみがえる。そうだ、この男は少し自分の母親と似ているところがある。母に嫌悪感は抱かないけれど、掴みどころのないところと、人を揶揄うような態度はそっくりだ。
自分の考えにげんなりして、瑠依は視線を彼から逸らした。この人の相手をする気には、今はなれない。
その雰囲気を察したのか、遠山は食い下がらずにまた話しかけてきた。
「何かありましたか」
「関係ないでしょう。監督として中に戻ってください」
「いてもすることないですもん」
そう言って、遠山は完全に保健室のドアを閉め、瑠依が背中を預けている壁と反対側の、窓際の手すりに寄り掛かった。
「だから、君とこうして雑談でもしようかと」
「俺は全くする気がありません」
にべもなく言い放つと、遠山はまあまあ、と言って笑いながら、眼鏡の奥の目尻を垂れさせた。
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