第19話 登校と緊張

 「おはよー」



 誰かが誰かにかけた言葉が、学校の靴置き場で響き渡る。ガタガタとそれぞれが靴を取り出す音や、履き替える音、靴箱の扉を閉める音、様々な音に混じりながら、そういった挨拶も朝を取り巻く音の一つとして埋もれていく。さらに登校してくる生徒たちの雑踏に呑まれ、その存在感はすうっと消えていく。あちらこちらで、似たような挨拶が交わされ、その一つとして消化されていく。



 そんな朝の当たり前の音のように、自分たちのことも気にされませんように、と思いながら、楓は瑠依が下履きを取り出す傍らで待っていた。学生鞄の持ち手をぎゅうと握りしめ、周囲の様子を伺いながら、それでも瑠依の角ばった背中から目を逸らすことはない。


 昨日の反動、なのだろうか。今の楓は、瑠依と離れているのが何故か嫌だとおぼろながら感じていた。それは昨日の登校時に感じていた、「ひとりになりたくない」という感覚と似ていて、でもはっきり違うと言えるものだった。それでも、こういう感覚なのだと断定して言うことのできない、掴みどころのない感覚。


 ただ分かるのは、診察が終わった後、瑠依が抱きしめてくれた温もりが、今も思い出されるということ。あの時、受け止めてくれた瑠依の胸の感覚が、ふとした瞬間に思い起こされ、目頭を熱くするのだ。自分でも分からないくらい、どうしようもないほどに、それが自分の胸の内から湧き出ては、落ち着かず、ふわふわと跳ねている。




 瑠依の白いワイシャツに覆われた背中を眺めながら、楓は自分のなかにある感情を持て余し、下履きの裏を鳴らした。



 瑠依が振り返り、その黒い瞳と目が合う。


 楓の中で、ほっとすると同時に、また一つ跳ねる。


 楓が黙ったままこちらをじっと見つめてくる様を、瑠依は訝し気に思って眉を僅かに上げた。


 朝玄関の前で合流したときから、楓の様子はどこかおかしかった。心ここにあらずと言ったような感じで。でも、ふとした瞬間には戻ってきて、現実の自分を視界に入れてくれる、そんな様子。


 瑠依は、昨日玄関前で別れたときの寂しげな表情を思い出した。ここにいて、と縋るような目を。そんな向けられた瞳を思い出すと、胸の内がざわりと波打つのだが。でも、今の楓は昨夜のようなしっとりとした雰囲気ではなく、落ち着きがないというか、せわしなく黒い眼が行ったり来たりする。怯えた子ウサギのようでもあり、面白いものを手に入れた子供のようでもあり、その様子は捉えどころがなかった。



 別れた後、秋陽と何かあったのだろうか、と思案する。別れ際の秋陽が見せた表情と言い、今朝の楓の様子と言い、気をもむようなことばかりだ。楓を守ると誓ったばかりの身では、尚更気がかりで。


 彼女の動向には、今まで以上に気をやるつもりだ。


 そして、そのたびに思い出される秋陽の言葉。



『それが楓を傷つけるものになるとしたら、お前はそれを抑えられるか』



 釘で打たれたように、その言葉は克明に瑠依の脳裏にある。


 自分が楓を傷つける、もしそんなことがあるとしたら。自分がそうしてしまったとしたら。自分の感情が、楓を傷つけてしまうことになったら。それだけは、何としても阻止しなければならない。そして、それができるのは自分だけだ。


 でも、そう戒めて、自分に言い聞かせるたびに、漠然とした不安が表面に現れてくるのを、瑠依はただひたすらに隠した。見えないように。揺らがないように、何度も、何度も。



「昨日も今日も、一緒に登校して大丈夫だったのか」



 瑠依が、自分を見つめたまま下駄箱の板の上に立ったまま微動だにしない楓にそう声を掛けると、楓はえ、と声を漏らした。


 女子からのやっかみを気にしている節は、楓の様子からして見て取れた。ちらちらと周りの様子を気にしては肩を縮こませる姿を、この登校中に何度か認めたから。



「女子にまた何か言われたら」



 その時は俺を呼べよ、と言おうとして、大丈夫、と楓が呟いた言葉に先を越された。



「それよりも、今は一緒に登校したかったから」



 呼吸をする合間に紡がれた言葉だが、楓はその言葉を言うと同時に瑠依からふいと目を逸らした。


 瑠依はその姿に、また自分の不安があおられるのを感じた。


 その刹那、


 バシッ、という豪快な音と共に、瑠依の背中に衝撃が走った。



「何、朝からこんな人目につくところで見つめあっちゃってんの。せめて人がいないところで勝手によろしくやってくんない?」



 その聞きなれたソプラノ声に、楓は喜びをあらわにして声を漏らした。



「美園、おはよう」


「はよ。もう体調は大丈夫なの?」



 快活に挨拶を返してから、美園は腰に手をあてながら楓に近づいてきた。


 美園の前で倒れて保健室に運ばれてからそのままだったことを楓は思い出した。あの後、色んなことがありすぎて気が回らなかった。急に申し訳なさがこみあげてくる。



「うん。もう大丈夫。心配かけてごめんね」



 そう言う楓の傍ら、瑠依は顔には出さないものの苦い思いを噛み潰した。まだ大丈夫、と言えるような状態ではないだろうに。


 それでも、楓は心配させまいと周りには大丈夫と言うのだ。全然大丈夫じゃない時も、こちらのことを気遣って大丈夫と。大丈夫じゃないのは見て明らかなんだよ、と瑠依は言いたくなったが、美園の手前それはやめた。


 それに、



「ほんとに大丈夫なのか?あんた、今日もまた倒れちゃったりしない?やめてよ。あんたの体は一つだけなんだから、大事にしてよね」



 くっきりとした美しい眉をしかめながら、楓の肩を抱いてぽんぽんと叩いて見せた。


 小学校からの付き合いである美園も、楓の我慢症は熟知している。始業式の後は母を見舞うために病院へ行くことも、この付き合いの間に美園が楓に吐かせたことの一つだ。そういう自分の問題を知っている友人は、楓にとって美園くらいで。楓には数少ない、気の置ける友人が美園なのだ。その位置に、美園は勝手と言っていいほどずかずかと入っていった。しかし、そのはっきりとした性格と、愚直な部分が、楓にはないものを補ってくれていることも確かなのだろう。



「うんありがとう」



 肩に抱かれたまま、楓はくすぐったそうにはにかんだ。



 その微笑みに、瑠依は多少の安堵と同時に物足りなさを感じた。


 そんな瑠依の心境を察したか、美園は艶のかかった肩までもない黒髪を揺らしながら、瑠依にじとーとした諦念の眼差しを向ける。



「何女子にまでジェラシー感じてんのよ。ほんとにあんたたちは、一旦お互いから卒業しなさい」



 そう言い捨てて、美園は楓の肩を抱いたまま階段のほうへ向かう。楓は瑠依のほうをちらりと名残惜しそうに振り返ってから、小さく肩口から手を出してばいばいと手を振った。


 瑠依はまたな、という唇の動きと手を挙げる仕草で応答する。


 嵐が通り過ぎって言ったような疲れが、瑠依の体にどっと押し寄せてきた。






 瑠依のクラスは四組、楓と美園のクラスは一組で、ちょうどそれぞれ校舎の一番端に位置する教室だ。使用する階段が違うから、昨日も今日も瑠依とは靴置き場で別れている。


 楓は未だに新しいクラスの雰囲気には馴染めていない。階段を行き来する生徒の顔ぶれも昨年とは違っていて、その一人一人が自分の隣を通り過ぎるたび、楓は自分の肩が強張っていくのを感じていた。去年は瑠依と同じクラスであったこともあり、知らない人ばかりの環境に飛び込むという経験に、楓は慣れていない。中学の時は小学校から共に上がってきた面々がいたので、何かとクラス替えは乗り切ってきたのだ。しかし、高校に入ってから、極端に知り合いの数が減った。周りの生徒は知らない人だらけ。顔も合わせたこともなく、名前すら知らない人ばかりのいる教室。そんな中で美園が一緒にいるというのは、楓にとってとてつもなく心強いことだった。



「楓、顔強張ってる」



 美園に指摘されて、楓は自分の顔に手をやった。やっぱり、



「……ちょっと怖い」



「まあ、自己紹介の場にも出そびれたしね。大丈夫よ。私の知り合いいるから紹介したげる」



 楓の恐れを察知して、美園はそう言ってくれた。それだけで、少し肩の力が抜ける。



「それに担任は一年の時の間宮センセでしょ?」



「うん。それだけはほんとによかったって思ってる」



「それだけえ?」


 美園がわざとらしく顔を顰めて、私は? というアピールをしてきたので、楓は慌てて修正する。



「美園と一緒になれたのは奇跡だから」



 そう言い加えると、美園はふふんと鼻を鳴らした。



「奇跡なんて言われるのは照れるわ」



 階段を登り終えてすぐのところに一組の教室へと入る扉がある。その扉は開いていて、中の様子が覗けた。初見で見たところ知らない顔ぶればかりだ。


 恐る恐るといったように腰を引く楓に、美園は薄く苦笑し、取って食われるわけじゃないんだから、と言って楓の肩を叩いた。



「じゃあまずは、」



 美園が誰に声をかけようかと品定めしながら教室に入り、楓もその後に続いて教室の中へと足を踏み入れる。緊張のせいか、正座して痺れたときのように足に感覚がない。極度の緊張感の中、喉をゴクリと鳴らした。


 その時、




「おはよう、藤森さん」



 楓の名字が呼ばれ、その方向へと目を向けると、男の子が一人、椅子に座っままこちらを仰ぎ見ていた。



「あ、こっち見た」



 名前も知らない彼は、屈託のない笑顔を向けながら、白い歯をにっと口の端に覗かせた。

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