第20話 視線と恐怖

 『おとうさん、あのね、』



 よれた灰色のTシャツを着たおとうさんが、椅子に座って煙草を吹かし、何処かを眺めている。


 そんなおとうさんに、わたしは近寄って行って、絵本の表紙を見せる。


 おとうさんはわたしの言葉に、ゆらっと首を動かしてこっちを向いた。


 わたしはおとうさんが自分を見てくれたことが嬉しかった。


 でも、その目はなんかこわい。


 おとうさんは笑わない。わたしやお兄ちゃんやお母さんの前で、笑顔を浮かべたことはほとんどない。



 何か悲しいことがあるのかな。嫌なことがあるのかな。


 それは、自分が悪い子だからかな。


 おとうさんを困らせているのは、わたしなのかな。



 おとうさんはよくわたしをたたく。ベランダに出されて鍵を掛けられたり、テレビを見ていたら蹴飛ばされて違うチャンネルに変えられたり。


 でも、それはわたしが何か悪いことをしているからそうするんだ。


 わたしがいい子になったら、おとうさんはきっとほめてくれる。きっと頭を撫でてくれる。


 めったに笑わない顔で、よくやったな、って言ってくれるかもしれない。


 きっと、今日こそ、おとうさんは笑顔になってくれる。ほめてくれる。



 だから、頑張ったんだよ。わたしね。




『わたしね、このえほん、よめるようになったんだよ。ひらがなもね、もうすぐぜんぶよめるようになるの』



 シンデレラの絵本。みすぼらしかった女の子が、一日でおひめさまになるの。


 すてきなお話だよね。わたしもなれるかなぁ、おひめさま。



 おとうさんはどう思う?



「かえで!!」



 おかあさんの声がした。その切羽詰まったような声に、どうしたの、と振り返ろうとした途端、何度も感じたことのある痛みが、頬に走った。


 それはとても、びりびりとした感じで。


 痛くて、痛くて。


 胸の真ん中から何か大きなものが迫ってくる。



 わたしは泣いていた。


 いつの間にか、目から水が流れてきていた。



 おとうさん、どうして?


 また、わたし悪いことしたの?




 今度はちゃんとするから。




 お願いです。


 少しでもいいの。何でもいいの。




 わたしに向かって、笑ってほしいよ。




***



 楓にとって、女子の刺すような視線は恐怖の対象だった。それは殺意にも似たようなもので、向けられるたび胸の奥にぶすりと刃物を突き付けられたような痛みが走る。


 言葉はさらに鋭利な刃物で。何度聞いても耳を塞ぎたくなるし、やめてと哀願したくなる。


 人の視線や言葉は、いつ恐ろしいものに変わるか分からない。昨日まで何も言っていなかった人が急に、自分のことで何かを囁き、遠巻きに自分を見るようになる。


 高校に入ってからそういったことが頻繁に行われるようになった。中学でもなかったわけではないけれど、高校はその比ではない。




 でもそれが、意味のない言葉や視線だとは思わない。言われる私にも、何か原因があるから、人はそう言うしかないんだ。




 楓は、誰かを責めることよりも、自分を責めることのほうが当たり前だった。


 それは、昔から染みついた癖なのか。心の傷がそうさせるのか。




 楓自身にも分からなかった。



 そしてまた、男子の得体の知れないような空気感も恐ろしかった。今まで話したことのある男性は、秋陽や瑠依といった幼い頃から知った仲の人。そして、昔のこと、一年ほどしか共にいることができなかった父、だけ。


 今まで、同年代の知らない人と話すということ自体ほとんどなかったことなのだ。唯一の例外が瑠依で。話そうとしない自分には、何かよっぽどのことがない限り話しかけてくる人もいない。特に男性とは接点もない。


 ただただ楓にとって、男性とは未知な存在で、どう接するが適切なのか、どういった距離感がふさわしいのか、などは専門外だった。




 だから今、目の前で展開される現状にどう対応していいのかも、全く分からない。



 楓に話しかけてきた男子生徒は、椅子を反対向きにして、背もたれに肘を置いてこちらを見つめていた。運動部なのだろうか、長く筋肉の引き締まった、それでも筋肉質と呼ぶには足りない脚を二本のパイプの脇から出し、おおっぴらに広げている。


 短く切りそろえられた前髪と、無駄な髪はバッサリと切りました、といったようなスポーツ刈りの頭。その髪の色は鮮やかなほどの茶髪で。秋陽の焦げたような天然の髪とは違う、明らかに人工的に染めたと分かるような髪色だった。


 楓を見る目は、まるで子リスのようにくりくりとしていて。男性の瞳を表すには似つかわしくない、つぶらな、という形容詞が似合うような眼だった。そしてひょうきんなユーモアのある顔立ちともとれるし、余計な肉のそげた整った顔立ちともとれる表情だった。



「なんで自分が呼ばれたのかな、って顔してるね」




 その茶髪スポーツ刈り少年は、無邪気に楓を見つめながら、彼女の心境を言い当てた。楓は内心で狼狽えた。そして、その言葉に対してどう答えたらよいのかも全く分からなかった。


 微動だにせぬまま固まっている楓に、教室の真ん中まで行っていた美園が異変を察知する。



「ちょっと安藤! 楓に何やってんのよ!」



 キレのある声を響かせながら安藤と呼んだ茶髪スポーツ刈り少年の机に寄っていき、美園は楓の二の腕を掴んで安藤から引き離した。


 楓は美園が来てくれたことにほっとした。自分の経験値では、この状況を乗り切れる気がしなかったから。男子と二人で話すことすら難易度の高いことなのに、相手が一癖も二癖もあるような少年では、もう歯がたたない。



「何って、別に挨拶してるだけだけど。ね、藤森さん」



 安藤に話を振られ、楓はぎこちなく頷いて見せた。まあ、確かに、そうですけど……。


 ……どうして知りもしない自分に話しかけたのだろう。そもそもどうして自分の名前を知っているのだろう。


 その意図はまだ分からないままで。


 そんな二人の様子を見もしないまま、美園は安藤に食って掛かった。



「あんたね。純粋な楓に近づかないでくれる?」



「美園にそんなこと言われても、ハイ分かりましたって言う義理ないんだけど」



 彼はけらけらと笑って見せるが、美園と安藤の間には明らかに剣呑な雰囲気が漂っていた。間に挟まれた楓は、今はただひっそりと息を潜めることしかできない。



「あんたに言いたいことがあったのよ。昨日もあんたが部活サボったって男バの部長が嘆いてたんだけど。あんたさ、真剣に部活する気あんの?」



「有るか無いかって言ったら無いよ。だって別に自分がいてもいなくてもどっちでもいいっぽいし。それなら俺の好きなようにさせてもらおうかな、と思って」



「そんな態度ならさっさと部活止めろ」



 どんと安藤の後ろにある木の机に手をついて、美園は至近距離で安藤を睨み付けた。美人で怒気のある顔というのは、人並みの顔よりも迫力が人一倍増すのだと楓は思った。しかし、安藤は気にも留めず、その威圧を流した。



「こわいこわい。その点、藤森さんはいいよね。おしとやかで静かだし、女子って感じで」



 再度振られた会話に、楓はもう考えることすらも放棄し、ただ首を傾げた。


 自分が今褒められていて、しかも好意を仄めかすような言葉を投げかけられているとも気づかずに。


 ただ頭が痛かった。


 そして、いつの間にか男女の罵り合いに教室中の注目が浴びせられていることも、楓の心にぴしりと罅を入れた。その中に、楓が恐れる刺すような視線が混じっていることも。



 ……ほんとに、どうしよう。



 身体のこわばりが極限まで来ている。その時、何故か不意に瑠依の顔が頭に浮かんだ。



「まじでやめてくれる? あんたを紹介することだけは絶対しないから」



 美園はもう一度、机に置いていた手をバンっとたたきつけた後、楓を引っ張って安藤から離れる。



「美園に紹介されなくても勝手に仲良くなるから大丈夫だよ」



「絶対近づけさせない」



 呑気に楓へと手をひらひら振る安藤の言葉に、美園は楓を自分の前へと移動させ、安藤の目に触れないように隠してから吐き捨てた。




 このときはただ、楓の中では不思議な少年がいて、美園と彼の喧嘩に巻き込まれた、程度にしか認識していなかった。それよりも、何故か心の片隅に離れることのない瑠依の存在が、気がかりだった。


 しかし、これが自分の心を揺らがせる事の発端であったことに、楓は気づくはずもなかった。



 ただ、美園だけが、



「しくった……」



 と呻き声を漏らしていたのだが。それすらも、楓の気づくところではない。





 ***



 昼休み、楓は担任教師である間宮に呼ばれていた。呼ばれた理由は大体予想がついていた。


 昼ご飯を美園と食べ終えた後、一人職員室へと向かう。


 この校舎の一階部分には庭園があり、よく園芸部が花や草木の手入れをしている。一階の廊下の一部分が外とつながった渡り廊下になっていて、そこから庭園を一望できるようになっていた。


 道すがら、楓はその渡り廊下に出、敷かれた板の上を歩いた。踏みしめるたびガタガタと鳴る。


 そして目の前を、白い蝶が横切った。ひらひらと羽を広げて舞うさまを、楓はつい目で追った。その蝶は花の蜜に呼ばれたのか、紫色の花の上に止まると静かに羽をおろした。


 その付近に園芸部員だろうか、長い黒髪を揺らしながらじょうろで花々に水をやっている少女が一人いて。


 当番なのだろうか、と思いながら、蝶々に水がかかりませんように、と願い、そのまま視線を前に戻して歩を進める。



 これも、園芸部が歌っていたのだろうか。


 去り際にふと聞こえてきた鼻歌が、妙に耳に残った。




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