第34話 誓いと敵意
学校から呼び出しがあった。
自分の息子がクラスメイトと喧嘩になったと、預けている小学校の先生から電話があったのだ。電話で伝えられた内容によると、喧嘩の原因となったのは相手側の男の子のようだが、瑠依も手を出し、そのまま乱闘になったとのことだった。
私は急いで白い看護服から私服に着替え、はやる気持ちで清潔で無機質な病院の廊下を歩いた。自分の足音がいつもより大きく聞こえてくる。
帰り際、白いブラインドから覗くICUの文字が目に飛び込んできた、いや、もう体に染みついている動作なのかもしれない。その中を伺うことはもう今日だけでも10回を超えていた。そして、そのたびに身体がズシリと重くなるのだ。
そこでは今、親友が眠っている。管を何重にも巻かれ、呼吸すらもままらない身体は酸素を投与することで生きながらえている。その姿はあまりにも痛々しくて。
後悔しても仕方がないのは分かっている。それでも、たった数日前に起こった出来事が自分の身も心も蝕んでしまう。「死」という言葉が頭をよぎり、目の前が真っ白になりそうになる。
しかし自分は二児の母親なのだ。その思いが、迫りくる寂寥と不安を押しとどめた。
学校について校長室の扉を開けると、自分の息子・瑠依が、担任の先生に付き添われて小豆色のソファに座っていた。
その頬にはシップが、額には絆創膏が貼られていて。
『瑠依』
私は思わず声をあげてしまった。
傷ついている。
それだけで胸が塞がれる思いがした。病院で怪我を負った患者さんなんて、いくらでも診ているのに。絆創膏に滲む血の色が、病院に運ばれてきた遥の、断裂して出血したぐちゃぐちゃの器官を思い起こさせてきて。
遥どころか、瑠依まで失ったら、私は。
いつのまにか、私は瑠依の頭を抱き、胸に閉じ込めていた。
『母さん』
瑠依のくぐもった声が胸元で聞こえる。体温がある。この子は、生きている。
自分の鋭敏になった感覚が、その温もりを感じ取った。
『どうして喧嘩なんかしたの。どうして傷つくようなことするの?』
責める気持ちは微塵もないのに、口調が強くなってしまう。いなくならないでという気持ちのほうが先行して、歯止めがきかなかった。
もう、誰も失いたくないのに。
『お母さん、あのですね……』
『あいつが楓を傷つけたんだ』
瑠依が担任の先生の言葉を遮り、強く言い放った。
その強さと、放たれた言葉の意味に、私の身体が震えた。
瑠依の肩を掴み、我が子の顔を覗き込むと、その瞳は強く私を捉えた。
しかし、この子は私ではなく、別の何かを見ていた。
『俺は楓を守りたかったんだ。楓が傷つくくらいなら、俺が傷ついたほうがましだった』
その言葉と瞳に、自分の子どもは、親友が残した子どもを見ているのだと分かった。
遥が残した子を、この子は守ろうとしたのだ。
この子は、抗おうとしている。残酷な現実から。ままならない現状から。
大切な人を、守りたいと叫んでいる。
『母さん、俺、強くなりたい。どんなものからも楓を守れるくらい強く』
私は瑠依を描き抱いた。
強く抱きしめた。
この勇ましく、戦おうとする我が子を。
そうしたかった自分を。
私も、遥を守りたかった。助けたかった。飛び降りる前に、話を聞いてあげられたらよかった。手を差し伸べてあげればよかった。
後悔はとめどなく溢れてくるが、今はそれだけでは駄目なのだと、強く雄々しい息子の存在を感じて思う。
私の胸の中にいるまだ小さな我が子は、自分がなりたかった姿そのものだ。
『強くなろう。お母さんも一緒に強くなるから』
その言葉を吐いたのち、私は脇目も降らずに号泣した。
この数日たまっていた感情が一気に噴き出したようだった。
後悔していた。
恐れていた。
何もできない自分が不甲斐なかった。
それでも。
私は、大切な人を、守らなければならない。それは、これからもできる。まだ、遅くはない。
私には、まだ瑠依も、紫も、お父さんもいる。
そして、楓ちゃん、秋陽君も。
今は意識がなくても、遥は必ず命を吹き返す。
彼女が帰ってきたとき、笑顔で迎えられるようにするんだ。
それだけ、強くなるんだ。
この子たちと共に。
私が泣いている間、瑠依は私の腕の中で涙を堪えるように、ずっと下唇を噛みしめていた。
***
随分昔の夢を見ていた気がする。
教室に差し込む日の光の暖かさの中で、まどろみから覚めた瑠依は、頬杖をついていた掌から顎を浮かせた。
外を眺めると、学校のグラウンドを取り囲む桜の木が見える。もう桜を思わせる桃色はほとんど消え、新緑に染まっていくさまが何とも言えない哀愁を漂わせている。
もう、桜は散るのか。
でも、桜が散っても、楓の心が癒されるわけではない。
瑠依は楓の泣き叫ぶ姿を思い出しながら、ままならない現実にぎゅっと拳を握りしめた。
「おーい、瑞谷聞いてるか?」
急に名前を呼ばれ、考え事を手放し前へと視線をやると、瑠依の担任教師である渡部が皺のある頬を緩ませて苦笑いをしていた。
「お前は良いのか?」
その問いかけに、何がですかと、言おうとして瑠依は黒板を見た。
するとそこには、大きく『瑞谷瑠依』という文字が書かれていた。
何が起きているのか分からなくて、思わず唖然として口を開けると、渡部は追い打ちをかけるように瑠依に言った。
「修学旅行の実行委員、推薦で瑞谷に決まりそうだが、お前はそれでいいのか?」
今の時間はロングホームルーム。そして、その時間は『修学旅行の実行委員』を決めるために使われていた。それは覚えている。
しかし、俺が意識を飛ばしている間に何があったのか。
訳が分からなくて何も言えずにいると、渡部はそんな瑠依の心を知ってか知らずか、
「瑞谷か。まあ、成績も申し分ないし、しっかりしているし、まとめ役には適任だな。しかし、また『瑞谷』とは……」
と顎に手を当てながら感慨深そうにつぶやいた。
「先生、もう一人の実行委員は内藤さんが良いと思いまーす」
「え、真矢ちゃん!?」
突然、女子生徒の一人が高々と手をあげて発言し、彼女の目の前にいた女子生徒が慌てて振り向く。
昨日の放課後、廊下で会った女子生徒だった。
瑠依が彼女を見ていると、彼女も瑠依のほうを見やった。目が合った瞬間彼女はさっと目を伏せて、前へと向き直ってしまった。
「確かに内藤も申し分ないな。容量もいいし。みんなもそれでいいか」
渡部は長年この学校に勤めている熟練教師だったが、そのせいもあって決め事などは適当に終わらせる節があった。
その流れに乗っ取ってか、クラスの間にも何でもいいという空気が流れていたのだろう。
もう一人の実行委員はあっという間に彼女に決まった。
瑠依は目まぐるしく進んでいく事態についていけなかった。
そして、抵抗する間もなく『修学旅行の実行委員』の一人になってしまったのだった。
「それ、クラスの男子にやっかまれてなんじゃないの?」
楓のクラスに行き、事情を説明すると、美園が遠慮なく言い放った。
「女子にモテまくって調子に乗ってる男子にお灸を、なんて珍しい話じゃないでしょ」
腕を組みながら他人事のようにニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる美園を横目で見、瑠依はその隣にいる楓に声を掛けた。
「俺は委員会で遅くなるから、楓は先に帰れるか」
楓は瑠依を見ていた。しかし、その瑠依の言葉に反応しない。
瑠依を見ながら物思いにふけっているように。
その様子をおかしいと感じて、
「楓?」
と呼びかけると、楓ははっとしたように目を見開き、あわててうんと頷いた。
「わ、分かった」
そう言った楓の様子は、どこかおかしくて。
何か言いたいことがあるけれど、言えないでいるような、そんな雰囲気を感じ取り、
「なんかあったのか」
瑠依が楓を見つめ促すと、楓はきゅうと縮こまるように両手を胸の前で抱いた。
そのまま瑠依が黙って見つめていると、楓は意を決したように口を開く。
「あの、瑠依は、」
「藤森」
その時、楓の苗字が呼ばれた。廊下にいた三人を見つける形で、楓の担任の間宮が教室の中からひょっこりと顔を出していた。
間宮は楓と目を合わせると、
「ちょっとおいで」
その言葉に、楓は従うように教室の中へ入っていく。
瑠依が教室の窓口からその背中を目で追うと、楓は教卓の前で間宮と何やら話し込んでいるようだった。
そして、その隣には茶髪の男子生徒がいた。
「楓、何かあったのか」
廊下に残って一緒に窓口から覗き込んでいた美園に問いかけると、美園は眉間にしわを寄せた。何か良くないことでもあったかのようだった。そして、その予感は当たった。
「お昼休みの後、楓授業遅刻してきたのよ」
瑠依は驚いた。真面目を絵にかいたような楓が授業を遅刻するなんて考えられないことだったから。
そして驚きを加算するように美園は言い放つ。
「しかも安藤も遅刻してきた」
安藤。
何故か楓に目をつけている男子生徒。
一瞬思考が追い付かなかった。
楓が他の男と。
思考をおいて、思わしくない感情が湧き出てくる。
今まで楓が自分以外の男性と親密になるなんてことはなかった。
ましてや一緒に遅刻してくるほどの男性なんて。
これは、自惚れでも何でもなくて。
楓にとって男性は得体の知れない存在だった。決して自分からは近づくことはなく、遠ざけ極力関わろうとしない。
だからこそ、胸がざわついた。
何かが変わっていく。
置いていかれる。
焦りを含んだ良くない感情が自分の思考を飲み込むほどに湧き上がってきて。
「なんで……」
「それが私にも分かんなくて。楓に聞いても濁されるだけで、教えてくれなかった」
瑠依が思わず口にした呟きを、美園は問いかけと受け取ったのか、そう返した。
美園に秘密にするだけの何かが安藤との間にあるのか。
焦りは更に加速されて。
自分は楓と『家族』でいると誓った。それは楓を傷つけないためだった。
これからも、楓と自分は『家族』、それは変わらないはずなのに。
自分が楓を守ることは、変わらないはずなのに。
分からない。分からないけれど、無性に焦る。
何かが変わっていってしまう気がして。
「ちょっと、瑠依。大丈夫?」
美園の声に、感情の波から引き戻される。それでも、もやもやとした感覚は拭えない。
そのもやを振り払うように瑠依は言葉を発した。
「ああ、あの隣にいるのが安藤か?」
「そう、あのチャラい茶髪」
美園が言う通り、彼の頭は鮮やかなほどの茶色だった。その明るさは目に焼き付くほどで。
背はすらりと高く、美園に聞いていたように運動部を思わせるような体のラインがワイシャツ越しで分かった。顔は前を向いていて見えないが、間宮が話しているのを机に寄り掛かって聞いているあたり、真面目に聞いてはいないのだろう。
日に焼けた楓の茶色の髪。
鮮やかに染められた安藤の茶色の髪。
その二つの頭が並ぶさまは、瑠依の心をかき乱した。
良くない感情だと、楓を傷つけてしまいそうな危うい感情だとは分かっていても、湧いてきて止められない。
もやのようなものが、心臓を握りつぶすように、体の中を這いまわって。
今すぐ、間に割って入って楓をあの場所から連れ出したい。
身体が今にもそう実行しようと動いてしまいそうで。
その行動を押しとどめたのは些細な状況の変化だった。
茶髪の頭が動いたのだ。
明るい髪のほうが。
彼は首を動かして横を向き、
横目で瑠依のほうを見た。
彼は瑠依と目が合うと、にやりと笑った。
それは好意的な笑みではなく、挑発的ともとれるような不敵な笑みだった。
その笑顔を向けられた瞬間、一気に瑠依の頭は冷えた。
こいつは自分の存在を知っている。
そして、自分の感情も。
「何、あいつ、もしかして今私たちにガン飛ばした?」
美園が苛立ちを露わにして窓口から身を乗り出すのを腕で止めると、瑠依は踵を返して窓口から離れた。
「ちょっと、瑠依、ほっといていいの?」
美園の、非難のような声が背中にかかるが、
「いい。敵はよくわかった」
瑠依は美園を振り返らず、淡々と教室を離れた。
これ以上この場所に居たら、俺はあいつを殴ってしまうかもしれない。
それは、自分の感情を制御できているとは言わない。
ましてや、楓と『家族』だからと言い逃れできる行為ではない。
自分の楓に対する欲望や執着がそうさせるのならば。
この衝動は抑えなければならない。
どうか、楓と『家族』でいさせてくれと、誰に対しての願いなのか分からない中、瑠依はそう祈るしかなかった。
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