第8話 温もりと独り


 バスの中には、ハンドルを握り窓から入り込む風を浴びる車掌、後部座席に座る楓と瑠依のほかに、乗車している人はいない。


 楓は瞳を閉じ、闇の中で自分の体に意識を集中させた。


 目的地へと近づいていくたびに、はっきりしていく異物感と、心のうちに重くのしかかる何か。


 バスに酔ってしまったのか、お腹の痛みのせいなのか、そもそも体調のせいなのか。原因は分からない。分かるのは、それが私の中にある、ということだけ。



 そのどんよりとした、どうしようもない感覚を持て余しながら、楓は乗車してからずっと首をひねって横を向いていた。前は向かない。向けない。バスが走る道の先、一本道の先にある目的地を直視できるほど、自分の心が追い付いていないのだ。



 楓と瑠依は毎年「この日」、市内から離れ、森の中を突き進むこのバスに乗っている。そのたびに楓は同じ思いを繰り返し感じている。


自分は誰かに裁かれるのではないか、という恐れ。


それでも会いたいという願い。


それらが入り交じり、楓の体から溢れてくる。じわりじわりと、湧いては引き、湧いては引いていく自分の感情。

この子達を、私はどうしてあげたらよいのだろう。


 幾度自問しようとも答えの出ない問いかけは、ぎゅうと握りしめられた右の掌の温もりに溶けていった。そして、その手に意識を向けると、



「大丈夫か」




 と、瑠依が尋ねてきた。楓は隣に座っている彼と目を合わせ、張りつめた頬の筋肉を僅かに緩め、頷いた。瑠依の下がった目尻を見て、持て余した感情が奥に引っ込んでいく。

 

 「大丈夫か」と心配する投げかけは、ここに来るまでにもう何度されたか分からない。保健室を出てから、電車に乗り、バスに乗り継ぐまでに、瑠依はそう言って何度も楓の顔を伺ってくる。

 そして、瑠依はずっと楓の手を握りしめていた。学校を出発してからずっとだ。離す気のなさそうな強固な手に、同じ高校の子がいないだろうかと電車の中ではひやひやしていた楓だったが、一方でひとの温もりに安心してもいた。

 瑠依は気づいているのだ、自分が緊張しているのを。気を抜けば、重圧に押し潰され、自分の感情が暴走してしまう、と危惧していることを。



 瑠依も察している。それだけ、心配させている。それは痛いほど自覚している。始業式に倒れて意識を取り戻した時、真っ先に浮かんだのは瑠依の顔だった。やってしまった、と楓は思ったのだ。



 『この日』だからこそ、周りの人たちは敏感になり、自分の内面を気に掛けてくれる。


 心配は、「意識してくれている」ことの表れだ。それは分かっている。そしてその表れは、自分と誰かの心を繋げてくれる確かなもの。それがないと自分は、自分ではなくなってしまうような気さえする。


 でもその表れが、心にさざ波を立てることがあるのだ。どうしようもなく、自分を否定して、駄目なやつだと罵りたくなるときが。


 一方で、心の中にあるおもりをおたまで掬ってくれるように、心が軽くなることもある。その優しさに縋り付きたくなるときが。


 勝手かもしれない。どう受け取るかは自分次第で。相手にとっては心を込めた配慮でも、自分にとっては自分自身を責める毒になりうるというのは。

できるなら、その全ての気持ちに応えたい。ありがとう、と言いたい。


 それでも、私には、その選択が自由にできない。

 いつからか私は、そのコントロールのしかたを忘れてしまった。それは、泣きたくても泣けなくなってしまった時に、私の手から離れてしまったものの一つかもしれない。




 しかし、何故か、今日の瑠依の「大丈夫か」を何度と聞いても、楓の心にさざ波は立たなかった。


 瑠依は、もう何年も共にこのバスに乗り、自分が向き合わなければならないものとの邂逅に付き合ってくれる。

 多分、今彼は私にとってストッパーなのだと、繋いだ手を意識しながら楓は思う。


 これから自分に何が起ころうとも、何を言われようとも、予期せぬ何かが待ち構えていても。


 瑠依と共に、また家に帰るイメージだけがあれば、現実に戻れる気がする。


 

 楓はふうとため息を吐き、再び青い匂いを吸い込んだ。



 それにしても、保健室で声を荒げた瑠依はすごかったな、と楓は一時間ほど前の出来事を思い出した。それだけの衝撃だったのだ。聡明な彼が、感情を爆発させるなんて。




「……瑠依でも、あんなに怒ることがあるんだ」




瑠依の顔を眺めながら、自分でも無意識にぽいと投げ出した言葉に、瑠依は虚を突かれたように眉をひそめた。




「あんなにって」



「保健室で。先生につかみかかるとは思ってなかった」



 楓が思い出しながら呟くと、瑠依はバツが悪くなったのかふいと目を逸らした。



「お前があんな顔してるから……」



「私? あんな顔?」



 心当たりがなくて首をかしげると、瑠依は楓へと視線を戻し、繋いでいないほうの掌で楓の頭に触れた。

 今日はよく撫でられるな、と思っていると、瑠依の指が、纏めきれずに垂れ下がった左側面の髪をすくように弄び、流れるように頬を数回撫でていく。

 その動作を目で追いながら、楓はその仕草に心が泡立つのを感じた。瑠依に、触られている。

 そう認識すると、心がむず痒くなるような、それでいて、染みわたるような充足感が込み上げてきた。



 

 しかし、



「大丈夫ならいい」




 そう言って離れたその手の感覚と、自分から外れた視線。




 それは唐突だった。


 楓は一気に体中がバラバラになったような、確かな自分がいなくなったような感覚を得たのだ。


 ぽっかりと穴が開いたような、急激な寂しさが襲ってきた。



 離れるのが、怖い。



 私はまた、一人になる……?




 訳がわからない。

 急に来た、底知れぬ虚無感に、楓は体を丸めてうずくまった。



 また、心の深奥へと自分が飲み込まれていく。



 楓は命綱に縋り付くようにぎゅう、と瑠依の手を握りしめた。




「……どうした?」



 その楓の様子に違和感を覚えた瑠依が、彼女の顔を覗き込むと、楓の顔は青ざめ、唇はわなわなと震えていた。



「楓!?」



 突然震えだした楓の様子に瑠依は一瞬狼狽したものの、素早く楓の頬に手をやり、自分の方を向くように促す。



「楓。どこが辛い。何が辛い。」



 一つ一つ尋ねていくが、それでも楓の瞳は何かに怯えたようにただ一点を凝視し、何も移していない。


 わなわなと震えた唇が、




「怖い……」




 と、音を出した。




「瑠依……怖い……」




 そう言って、楓は何かを振り払うように頭をぶんぶんと降って頭を垂れた。



「何が怖いんだ、楓」



 根気強く尋ねてくる瑠依の言葉に反応もできず、楓は目をつぶり、何度も何度も瑠依の手をぎゅうぎゅうと握った。その肉感のある手を。温もりを。繋がりを。手放したら私は、一人になる。そんな訳のわからない恐れが、身体を蝕んでいく。



 そう思っているうちに、瑠依が楓の肩をぐいと掴んで自分の懐へと抱き寄せた。そうして、震える背中、腕をゆっくりと何度もさすられる。



「楓。落ち着け」



 ハァハァという不規則な呼吸、過呼吸に近いかもしれない、息の仕方を忘れたように小刻みに動く喉。

縋り付いた先で、瑠依の匂いを感じた。


ここにいる、ここにいる。


 楓は瑠依の首筋に鼻を近づけ、すり寄るように身体を預けた。握りしめた拳はそのままで、ただ人の熱に縋る。


どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 頭の中が混乱して、でも寂しさだけははっきり体中を支配していて、胸の奥から競り上がってくる恐れ。蝕む、私を。



 どこからか、でも確かに自分の胸の内から聞こえてくる声。



だめだ、だめだ。行っちゃだめ。そこまでいっちゃいけない。


戻れなくなる。だめだよ。


お願い。


助けて。



 自分の心が、悲鳴を上げている。



 喉の渇きがやけにはっきりしている。瑠依の手の感覚も、だんだんと薄れていく。汗ばんだ掌が、瑠依の皮膚の感触を曖昧にしていく。



 飲み込まれる。自分の感情に。得体の知れない、自分自身に。


 

 怖い。

 逃げるな。

 1人になるな。

 お母さん。

 私ではだめだ。

 どうして。

 嫌だ。

 瑠依。

 1人はいやだ。

 おかあさん。

 おとうさん。

 私は、いいこじゃない。

 いなく、ならないで。

 私が、殺した。

 ごめんなさい。


 「楓!」



 瑠依の叫び声が、遠ざかっていく。


 

 ああ、また、一人になってしまう。



 楓は飲み込まれる意識の中、自分自身を手放した。


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