第2話 楓と瑠依



「お前のほうが体調悪いんじゃないのか」



 そう言った瑠依は心なしか怒っていた。学校へ向かう道のど真ん中で。人目もはばからずに。


 犬の散歩をしていた老人と、スーツを着たサラリーマンが訝しげな視線をよこす。

 

 瑠依の言葉に心配の意も含まれていることを悟り、楓はバツが悪くなって俯いた。



「……ただお腹空いてなかっただけだよ」



 夢見が悪かったことは言いたくなかった。言えば更に心配されることは間違いなかったから。


 起きだした瑠依と共にした朝食は、何故かご飯茶碗一杯も喉を通らなかった。それが気持ちのせいなのだろうということは何となく分かっていて。

 

 そっぽを向く楓に、瑠依は諦めたような顔をして溜息をついた。

 

 ごめんね、と楓は心の中で謝る。



「昼は食べられそうなのか」



「それは大丈夫だと思う」



 楓は自分の鞄を振った。ずしりと弁当の重みを感じる。それは、つい先ほど瑠依の家で渡された包みだ。


 楓は今、一人暮らしをしている。一カ月前までは、兄である秋陽あきひと共に住んでいたのだが、この四月に彼が大学院生になり、研究室に泊まり込む回数が増えてから、実質家に帰るのは楓だけになっていた。更に、秋陽が研究で忙しくなることが分かり、一度家族会議が開かれたのだが、



『本当に一人で大丈夫だろうか』



『大丈夫だって』



雄一ゆういちさんのところに行くか。女子高生が一人で、なんて危なすぎる』雄一さんとは、母方の叔父さんのことだ。



『いいよ。迷惑かけたくないし。それに、何かあったら瑠依のとこ行く』



 兄を説得するために咄嗟に出た言葉だったのだが。その時の苦虫を噛み潰したような秋陽の顔を、楓は今でもよく覚えている。

 


 そこで一人暮らしは決定したのだが、心配事が一つ。

 それは炊事。

 独り暮らしの炊事はお金がかかる、という懸念もあるが、それよりも重大なことがあった。

 楓は包丁を握ったことがないということ。

 つまり、料理をしたことがないのだ。


 そこで、その心配を解消してくれたのが瑠依だった。父が単身赴任で、母が看護師、両親が多忙なこともあってか、瑠依は幼少期から自分のことは自分で何とかしていた。料理も自ずと上手くなる。

 そんな彼が、「楓の食事は俺が何とかします」と提案してくれたのだ。「何かあったら」とは言ったが、楓もこれは予想外だった。


 当初、秋陽は渋っていたものの、栄養の足りないコンビニ弁当と、健康に良い瑠依のご飯を天秤にかけ、最終的にはよろしくお願いしますと頭を下げた。

 但し、「二人きりにはなるな」という制約を、秋陽が瑠依に課したことは、楓の知るところではない。


 

 楓は、瑠依が自分を心配してくれることが嬉しかった。瑠依の気遣い屋なところは昔からだ。幼いころからずっと変わらない。物心ついた時から、隣にいる。

 今でも、優しくされるたびにむず痒い感じがするけれど。彼の優しさは、ふっとやってくる寂しさの中に落とされる、灯りのような癒しをくれる。他の人であったなら、迷惑をかけるから、負担をかけたくないから、と遠慮するところなのに、瑠依に対しては「ありがとう」と受け取れてしまう。



 でも、同時に怖いと思う自分もいた。瑠依がではない。自分が怖い。瑠依の、「楓だから」という暗黙の了解のような信頼を無下にする自分がいたら。

 無性な信頼に、自分は値するだろうか。その信頼を裏切ってしまわないだろうか。自分が本当は信用できないものだと、瑠依が判断してしまったら。私は立ち直ることができるだろうか。

 瑠依だけではない。自分に向けられる周りからの信頼や期待が、なぜか棘のように突き刺さってくるように感じることが、楓にはあった。



 父を失望させたように。いい子でいることができなかったように。


 母を苦しめてしまったように。私が母の負担になってしまったように。


 きっと私は恐れている。今朝の夢が、それを表している。見たくない現実に、向き合えと私を強引に引き戻していくのは私自身だ。自分のしたことに責任を持て、と。

 そして今日が、その向き合わなければならない日なのだ。毎年、桜が散るたびに思い出す、決して切り離してはならない自分の罪に。



 急に押し黙って、虚空を見つめている楓に、瑠依は鞄から飴玉を取り出し、これでも舐めとけ、と渡した。「胃が軽くなるやつ」と付け加える。

 包み紙は淡い山吹色。「ありがとう」と、楓はその飴玉を受け取って口に含んだ。乾いた口の中に、とろりとした甘さとほろ苦さを感じた。



 学校に近づくにつれ、二人と同じ制服を着た学生が増えてきた。今歩いている街路樹は、学校へと続く、この付近で一番大きな通りだ。脇道から歩いてきた生徒同士が合流する姿も見え、話し声がちらほら聞こえてくる。


「宿題やった?」


「量多すぎて昨日徹夜したー」


「溜め込むからでしょー」


「休み中どっか行った?」

「彼女と海行ったー」


「このリア充め」


 彼らの浮足立ったような、それでいて気怠さの残る雰囲気が、春の暖かな風に吹かれる。


 瑠依はその喧噪を聞き流しながら、飴玉をコロコロと転がす楓を見やった。その目はきょろきょろと周りを気にしている風で。



「俺が後から行こうか」



 瑠依がそう声をかけると、楓はびくりと肩を震わせた。

 


 高校に進学してから、楓と瑠依をある噂が取り巻くようになった。


 二人が、『付き合っている』という噂だ。


 思春期を迎えた学生が、男女の関係に敏感になるのは当然のことで。誰が好きだ、誰に告白された、という話は日常を埋め尽くすようになる。

 その興味の対象に、瑠依も選ばれるようになった。彼の中学時代にもその傾向はあったが、瑠依の声が低くなってから、女子生徒の注目が一気に高まった。高校一年のときに、人のいない場所に呼び出されて、「好きです」の四文字を伝えられたのは一度や二度ではない。そのたびに、瑠依は変わらず「悪いけど」と断り続けた。


 最初は失恋に泣き、互いに慰めあっていた女子生徒たちだったが、いつの間にか矛先が彼の幼なじみである楓に向かうようになっていた。

「小学校からずっと一緒らしいよ!」「登下校もべったりだって」「あの二人、付き合ってるのかな?」瑠依に想いを寄せる女子生徒は、自分の想いが叶わなかった理由を見出したくて、楓をその標的にした。


 ここで二人が恋仲だったら、収拾がついていたのかもしれない。しかし、勢いの止まらない女子たちが、こぞって楓のもとへ確認しに行ったとき、律義にも「付き合っていません」と恋慕の気配も見せずに否定した楓に、やるせない恋情を傷つけられた生徒がいたのだろう、そのころから楓は一部の女子生徒から「ビッチ」と揶揄されるようになってしまった。それがもう半年以上続いている。


 

 瑠依は歯がゆかった。自分が原因で、楓が陰口を叩かれ、傷ついている。彼女が、そんな中傷など歯牙にもかけない強さを持っていれば問題はなかっただろう。でも、楓は強くない。自分の周りに起こることを、全て自分のせいにしてしまう。「ビッチ」と言われれば、そう言われる要因が自分にあるのだと思ってしまう。そうやってまた自分の心の傷を深くする。


 瑠依は怒りすら感じていた。自分に好意を向けてくれる人にも、何も知らずにはやし立ててくる人にも。自分と楓の何を知っているのかと。上辺だけ見て、勝手に判断して、それで楓が傷ついていることに、どれだけの人が気付いているのか、と。


 でも一番不甲斐ないと思うのは自分自身だ。守りたいと思うのに、それができない。傍にいて守るべきなのか、距離を置いて楓に向けられる負の視線を回避すべきなのか、自分でも決めかねている。


 だから、一緒にアパートを出、学校に近づくと距離を置いて別々に登校するという、いつからか始まった恒例の行動を促した今も、瑠依は内心で舌打ちをしていた。



 楓は、瑠依の言葉に、ぎゅっと学生鞄の持ち手を握った。

 その目は真っ直ぐ行った先にある校門を、そこに立てかけてある『始業式』と太い墨で書かれた看板を、見つめた。桃色の桜の花びらが、ちかちかと視界を横切っていく。あの日と同じように。思わず息を吸うと、まだ乾燥した肌寒い春先の空気が楓の肺に入った。



「いい。今日は」



 今日、一人でこの校門をまたぐのは、さみしくて耐えられそうにない。


 

 


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