第16話 兄妹と添い寝


 『俺にとって、家族とは何だろう?』




***






 妹からの感謝の言葉を受け、秋陽は先ほど注いだばかりの水を楓に差し出した。透明な液体がグラスの中でゆらりと揺れ、楓の細い指へと渡る。




 そして、楓は二種類の錠剤をぷちりと一粒ずつ取り出し、口に入れ、そのまま水で流し込む。その流れるような動作に、秋陽は目を細めた。


 彼は、錠剤をのめないことを言わず、ひっそりと奥歯で噛みつぶしていた昔の楓を、思い出していた。あの頃既に、何でも一人で出来なければ、という思いに駆られていたのだろう。小学校に上がりたての、まだ幼い姿の少女が、ばれないように錠剤をもごもごと口の中で動かしながら。独特な苦い味に顔をしかめずにはいられないだろうに、それを隠そうとするさまは健気で、同時に痛々しかった。




 今はもう背伸びをしなくても飲めるのかと、安心する思いの裏に、たった今楓が飲んだばかりの錠剤の効果を思い出す。




 一つがSSRI。もう一つが、睡眠薬。そのどちらも、前に出された薬よりも効き目が強く、量も増えていた。


 そのことは、楓が最近眠れていなかったことを意味していて。瑠依が、深夜まで勉強していた、と言っていたことを思い出す。それは眠りたくても眠れないからか、それとも、悪夢でも見るからか、と秋陽は、水をもう一杯ついで飲み干す楓を見ながら考えた。もしそうであるなら、それがどれだけ彼女にとって辛く恐ろしい夜なのかは、想像に難くなく。同時に、自分が彼女をこの家に1人にしてしまったことを後悔した。




 空になったコップを流し台に置いた楓に、秋陽はもう寝るように告げた。この睡眠薬だと、今日はぐっすり眠れるだろう。車の中でもよく寝ていたし。






「もう休んだほうがいい」






「……秋陽にいは?」






 楓は不安げな顔で秋陽を見た。その寂し気な表情に、兄は妹が心細さを感じていることを察した。






「俺も休むよ」






 そう言うと、楓は躊躇うように俯いた。口に出かかっているのに、それを言おうか迷っているといったように。




 自分はいい子じゃないからと否定して、それでもいい子になろうと頑張る楓は、何より誰かの愛を求めている。認められていないのだと、自分は愛されていないのだと思い続けることに、心は耐えられない。だから、乾いた土が水を求めるように、楓の乾ききった心は、誰かの愛や温もりを探し、求める。そして、今も……。






「一緒に寝るか。昔みたいに」






 先手を打って促すと、楓は案の定、いいの?といったように目を見張り、眉を下げた。喜びたいのに、迷惑ではないかという思いに苛まれている様を、瞳の奥に感じ取る。どこまでも人を慮り、遠慮する妹に、最上級の安心を示すように、秋陽は口角を上げて目の前の額を撫で、居間のソファを移動しにかかった。








 敷布団一枚を押し入れから引っ張り出してきて、居間の中央に広げる。昔は三人で寝ていた敷布団。今は丁度大人二人が寝そべっても余るくらいの大きさだ。


 互いに自分の部屋から持ってきた掛布団と枕をセットする。寝る用意を済ましたことを確認すると、秋陽は照明を落とした。


 先に布団に潜り込んでいた楓が、布団に入ろうとする秋陽を見上げ、群青色のブランケットの奥でくすぐったそうに笑った。その姿は、急に暗くなり物を捉え難くなった眼でも分かった。並んだ枕に、お互いの髪が散る。






「本当に久々」






「そうだな」






「私が小学校卒業するまで、秋陽にいはこうやって添い寝してくれてたよね」




あの時は、自分が楓を守らなければならないという使命感と責任感で生きていた。秋陽は自分の抹茶色の掛布団を肩まで引っ張りながら、幼き頃の自分を思い出していた。






「周りの子たちは一人の部屋があるのにって、恥ずかしい気持ちもあったけど」






当時は知らなかったことのカミングアウトに、秋陽は思わず楓のほうを向き、声を漏らした。






「そうなのか」






少なからず受けたショックに顔をしかめると、楓は慌てたようにぶんぶんと首を振って秋陽のほうへ寄ってきた。楓の頭の位置がずれ、隣り合わせた秋陽の枕に僅かに侵入する。






「嬉しい気持ちのほうが大きかったよ。秋陽にい、私の小学校の時の同級生からも人気あったの知らない?お兄ちゃんかっこよくていいなーって言われてたの」




 そういえば、何度か行った授業参観の時に、女子小学生が何人かこっちを振りかえってこそこそしてたな、と秋陽は思いだす。あれは、母親に混じった場違いな中学生の自分のことを言われていると思っていたが。






「自慢のお兄ちゃんだったからね」






 しみじみとつぶやく楓に、秋陽はふと悪戯心がわいた。






「今は自慢じゃないのか」






「……言わないと分かんない?」






 楓が不服そうに唇を尖らせ、じとーとこちらを見る。秋陽はその至近距離にある瞳にはは、と笑い声をあげた。でも、言われたい気持ちは正直ある。








「……秋陽にい、頑張ってお母さんの代わりしてくれたから」






 タオルケットを鼻の上まで覆って、楓は喉の奥が詰まったような声を漏らした。


 急に雰囲気の変わった声に、秋陽は一瞬胸が詰まった。




 どんな気持ちで言っているのか。


 今日病院に行って、母の病室の前で泣いた妹は、その母を、どんな想いで言葉にしているのだろう。






「……なあ、楓。母さん、さ」






慎重に、一音一音確かめるように紡ぎながら楓に呼びかけると、楓はうずくまってブランケットの中に隠れた。ミノムシのように丸くなり、小さく縮こまった体に、そっと手を置くと、振動が伝わってきた。震えている。






「……どう、だった?」






 布越しにくぐもった声がした。全身で発したような声。その証拠に震える身体。






「眠ってるみたいだったよ」






 一番楓の傷ついた心に触れないような言葉を選んで言う。そして秋陽は、まだ震えて隠れたままの妹をブランケットごと抱きしめた。


 布越しの感覚で震える肩を探し、ゆっくり撫でてやる。幼き頃の、泣きじゃくる妹をあやした時と違わぬよう。その抱きしめる存在はもうすでに高校生になり、全身を覆ってやることはできないけれど。






「母さんは、ゆっくり回復してるから、楓も焦らずに休もう」






 そう顔のある位置へと囁きかけると、ブランケットのかたまりはもぞと動いた。頷いたのだろうか。


 暫くして、ごそごそと頭が出てき、陰りのある顔が恐る恐ると表れる。




「秋陽にい、ありがとう」




 今はそれしか言えない、というように掠れた小さな声。精一杯の声。


 ありがとうの裏に隠されたごめんね。




 今となっては唯一傍にいる家族。その無残で、かわいそうで、痛々しい姿。




そのぼろぼろの心に手を添えるように、秋陽は楓の頬に手を伸ばした。自分の胸へと引き寄せ、その髪を撫でる。


どくどくと脈打つ楓の心音を感じながら、その耳元に、不安よ、消えろ、と念じながら囁きかける。






「おやすみ」








 そして、一粒の白い錠剤が、彼女の意識を眠りの世界へといざなっていった。








 体の震えが微かな寝息に変わったころ、秋陽は楓の体をそっともとの位置に戻し、彼女の肩までブランケットを掛け直した。




 そして自らも枕へと頭を沈み込ませ、横向きに彼女の様子を伺う。


 瞼の閉ざされた寝顔。それは一見安らかに見えるけれど、その奥にある傷は表面化しているものより遥かに深く、広く、むごい。






 彼女は水がなければ生きてはいけない。愛情という水が。


 その役目の一端を、土を潤す水に、自分はなってきたつもりだった。母が与えられない分も。あいつが奪っていった分も。残された肉親に、愛する妹に注いできたつもりだった。


 でも、水は足りなかったと突き付けられた。年を重ねるごとにその現実は肥大化し、そして今日という日に『限界』は訪れた。




 自分ではどうしてもやれないと嘆いたあの日よりも、知識も地位も周りからの信頼も築いてきたはずだった。医者としての道を進み、母と妹を救う方法が分かるかもしれない、一縷の望みが叶うということさえ不可能ではないところまで来たはずだった。


 だが、その方法を見つけるより先に彼女の『限界』が来て。






 秋陽は胸の内にある泥を吐き出すように息を吐きだした。


 結局自分ではなにもしてやれないのか。そんな思いが強くなる。自分に対する失望や、失念の想いがわいてくる。




 そして、夕方、紫にぶつけたどろどろとしたヘドロのような感情まで、自分の意志とは無関係に湧いて出て、溢れてくる。


 秋陽は、自分の中に、コントロールできない感情があることを自覚していた。それは年月を重ねるごとに大きくなり、今にも自分さえ飲み込もうとしている。






『一番恐れているものは、何?』






 紫の唐突で、身を裂くような問い。彼女はいつも、自分の想像の上を行く。そういうところが敵わないと思うし、信頼している部分でもあるのは確かなのだが。


 ただ、今の自分にはひどく危うかった。その温もりも、射るような真っ直ぐな瞳も。


 止められず放置した自分を、彼女は掘り返そうとしている。自分さえ気づかない恐ろしいものを見つけてしまうのではないか、そんな予感がするのだ。






 恐れているもの。






 確かなものが一つある。




 自分の存在まで脅かすようなもの。




 常に自分の背後にあり、離れないもの。




 自分を変えてしまうほど、巨大なもの。




 酷く、得体の知れないもの。






 秋陽は天井を見上げ目を閉じた。額に腕を置き、暗闇と静けさのなか、隣に眠る存在を思う。


 そしてそっと瞳を開け、まだあどけなさの残る、しかし確かに女として開花しつつある自分の妹を見つめた。




 瑠依に忠告したのはその「恐れ」からだ。自分の想いを抑えられるかと。恋仲になるなと牽制したようなものだった。あいつを引き合いに出したのも、本心ではあったが半分は口実だった。




 今日目にした『限界』よりも。


 来てしまうかもしれない楓の崩壊よりも。


 過去にあいつから受けた傷よりも。




 もっと恐ろしいもの。






 秋陽は、手に残る楓の温もりを思いながら、その恐れを瞼に焼き付け、己の身に封じる。






 楓が、「女性」として目覚めてくれるな、と。



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