第13話 赦しと罪
「あなたのせいではありませんよ」
カウンセリングの先生は、もう何年も、何度も、その言葉を繰り返してきた。
母が精神を患ったこと。
母が自殺を図ったこと。
母の意識が戻らないこと。
そのどれも、私の責任ではないと、私のせいではないのだと、根気強く言い聞かせてくれる。
でも、そうじゃないんです。
自分でも、そうかもしれないと、自分のせいではないかもしれないと、どこかで思ってる。
赦されてもいいのではないかと、客観的に物事を捉えてみろと、頭の隅で誰かが呟いている。
それでも、私は私を赦せない。赦してはいけないんです。
他の誰が赦してくれても、皆が赦してくれても、私だけは、私を赦してはいけないんです。
母が、喋れない。
母が、動かない。
母が、私たちを認識しない。
母が、笑いかけてくれない。
母が、母ではない。
その事実がある限り、私は自分を赦してはいけない。
赦して、解放されてはいけないんです。1人だけ、楽になってはいけないんです。暗闇の中に居続けなければならないんです。
母を残しては、いけないんです。
私は、この罪を抱えて生きていかなければならない。この鎖を、解いてはいけない。それが、私の唯一出来る償いなんです。
だから。
私は、幸せになってはいけないんです。
***
「ありがとうございました」と、精神科の医師と看護師に頭を下げながら、真っ白いドアについた銀色のステンレス製の手すりを握って横に引き、診察室を後にする。
廊下に出たとたん、楓の鼻が消毒液のような匂いを捉えた。もう何度も訪れているはずなのに、未だにこの匂いに慣れることはなく。胸の内がざわざわと波を立てる。ささくれた傷を触られているような、ざわめき。
既に日は暮れていた。四角いガラス窓から見える木々、ざわざわと揺れる枝と、その先に生い茂る葉の連なり。そのすべてが黒々としていて。影があり。吸い込まれてしまいそうなほど、静寂で。冷たく。
いっそのこと私の心も、身体も、吸い込まれてしまえばいいのに。
暗闇と同化して、溶けてしまえれば。その冷たさに身を投げ出してしまえば。
母の気持ちが分かるだろうか。母のところに、行けるだろうか。
そんな思いがふつふつと湧き上がってきながらも、とぼとぼと重い足を引き吊りながら廊下を歩き、ロビーにたどり着く。
そしてそこで待っていた人物を見て、楓は肩を震わせた。
瑠依がいる。
瑠依は楓を認めると、素早く立ち上がった。黒髪が揺れ、その瞳に自分の姿が映る。
瑠依の黒い瞳が、迷いに揺れる楓の眼を捉えた。
その瞳の強さに、まぶたの裏が熱くなってくる。
……今は、一番会いたくなかった……。
楓は張り裂けそうな痛みを胸の奥に感じた。心の中が、搾り取られるようにきゅうと締まり、喉の奥がどくどくと脈打っている。
息苦しさを感じてロビーに入る手前で足を止めた楓に、瑠依は足を一歩前へ踏み出した。
こちらへと近づいてくる足音に、楓は思わず俯いた。
何を言えばいいのだろう。
何と言うべきなのだろう。
たくさん心配をかけた。振り回した。
目の前で倒れ、意識を失った私を目の当たりにして、瑠依はどう思っただろう。
今年もまた、昨年と何も変わらず、母の病室へ足を踏み入れることのできなかった私を見て、どう、思ったのだろう。
私は、また、誰かの厄介者になった。
今度は、瑠依。
今、彼の身の内にあるものは、何?
呆れ? 失望? 見切り? もう、付き合いきれない?
『ごめんね』
書き残された筆跡が、モノトーンのように蘇る。
そうやって、また一人、一人と私を見切っていく。
でも、それは仕方のないことで。それは、私が悪いのだから。
わたしは、迷惑をかけることしかできない。
だから、わたしは受け入れなければならない。
わたしから離れていく人を……。
わたしと一緒にいたら……。
だから、瑠依は……。
胸を締め付ける寂しさと、それを受け入れなければならないと急き立てる自分。
体中がかたかたと震え始めた。
どうして、どうして……。
受け入れると決めたのに。
もうこれ以上、誰かが自分の犠牲になるのは嫌だから。傷つくは嫌だから。
そう、再確認したはずなのに。
どうして、こんなにも怖いと思うのだろう。
その震えを抑えようと、息苦しさを抑えようと、胸の前でぎゅうと両手を握りしめる。
胸が痛い。
怖い。
離れてしまうの。
――これが、お前の抱えなければならない現実だ。
胸の奥で、重厚な、身体中を支配するような声が聞こえた。
心臓をナイフで抉られたようだった。
床を睨み付けたまま、目を見開く。はっと途切れた、か細い息が漏れる。思わず喉元に手を当てる。
喉が、身体が、苦しい。
それでも、わたしは……。
熱が、触れた。
楓は自分を包み込んできた温度に、目を見張った。
瑠依が、楓を抱き締めている。そっと触れるように、それでも強く。
ひとの、体温。
瑠依の、熱。
背中に回された彼の手が頭に乗り、その指が楓の髪を撫でる。俯いてさらされたつむじの部分を何度も優しく往復する。
楓の鼻に瑠依の胸元が押し付けられ、瑠依の匂いを感じ取った。それだけで、体中が彼に包まれているような感覚がする。
楓は瑠依に撫でられたままぴくりとも動けなかった。
これは、身体が動きたくないと言っている、のか。
どうして、離れると思っていた彼の熱を感じているのか。
瑠依の熱が、自分の中に浸透してくる。
自分の胸の内を、満たしていく。
冷たさが、ささくれたこころが、溶かされていく。
『楓』と何度も呼び続けてきた彼の声と、意識が途切れるまで繋いでいた掌の感触を思い出した。
楓は、身体が柔らかくなっていくのを感じながら、締め付けられた喉から、声を絞り出す。
「……わたし、瑠依に迷惑かけて、」
「かけてない」
頭の上から聞こえる優しさを含んだ声に、喉の奥が締まる。
かけたはずなのに。
「……嫌に、なった……?」
「ならないよ」
嫌になっても、いいはずなのに。
降り注ぐ声と、触れる指が、優しくて。変わらなくて。いつもの瑠依で。
自分を受け止めてくれて。
「……っ」
だから、嫌だったんだ。瑠依に会うのが。
あれだけ自覚したはずなのに。戒め直したはずなのに。罪の重さを知ったはずなのに。
罪を背負わなければならない自分が。
断罪されるべき自分が。
瑠依に優しくされるたび、肯定されるたび、一つ一つと消えていくような気がして。いなくなっていくような気がして。
赦されている気がして。
幸せになってはいけないのに、苦しむべきなのに。逃げ出してはいけないのに。
すがりたくなる。熱に。優しさに。瑠依に。
その温もりに、身体を預けてしまいたくなる。
私は、矛盾してる。
私は、おかしい。
赦されない。赦してはいけない、のに……。
「帰ろう」
瑠依の柔らかな声が、しんと静まり返ったロビーに響いた。
楓は無言のまま瑠依の背に手を回し、ワイシャツをぎゅっと握りしめた。
震える彼女の肩。抱きしめた腕の中で縮こまり、それでも抱きしめ返してくる楓の姿を収めながら、瑠依は目を瞑った。
あまりに小さく、脆く、儚い少女。
その身に宿した悲しみ、寂しさ、もどかしさ、彼女を蝕む感情ゆえに、希望を見出せない少女。
それでも、心の奥で、幸福を求める少女。
自分にとって、かけがえのない、唯一無二の少女。
瞼の裏で、思いがこだまする。
楓を守るためなら。
この、愛おしい少女を繋ぎ止めるためなら。
覚悟が足りないというのなら。未来のそうあるかもしれない自分が、楓を傷つけるなら。
揺るがない覚悟を。自分を犠牲にする覚悟を。
この身に、心に、刻み直そう。
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