第三章 黄色いカーネーション
第35話 卒業と居酒屋
『卒業だからって、羽目外しすぎんなよ!そこ!体育館の傍にいる奴!あんたのことを言ってんのよ!自分の顔に泥塗って帰る気か!親が泣くわよ!』
秋陽が屋上に出た瞬間、凍てつく寒さと共に紫の怒号が聞こえてきた。しかもメガホンを通した、轟くような機械音で。
その声につられるように、秋陽はところどころ禿げた濃緑のフェンスの奥、体育館の裏当たりを見下ろすと、卒業証書の黒い筒を持った男子生徒が女子生徒の腕を引っ張っている姿が見えた。
そして、上から聞こえてきた紫の声に、男子生徒は唖然としてこちらを見上げ、その間に女子生徒はその腕から逃げ出し、本校舎のほうへ駆け出して行った。それから、男子生徒は校舎中に響き渡った自分に対する叱咤と、周りの生徒からの視線にいたたまれなくなったのか、恥ずかしそうに体育館の裏に消えていった。
『気が済んだか。元生徒会長』
秋陽は、メガホンを下ろしてフェンスにもたれ掛かりながら、グラウンドを眺めている紫に近づいていった。彼女の長い黒髪が風の赴くままにたなびいて、白い首筋が露わになる。二月だというのに彼女は寒さすら感じさせないほど凛としてその場に立っていた。スカートがふわりと舞って、紫のすらりとした脚が映える。
秋陽が紫の隣まで行くと、彼女はようやく秋陽に目を向けた。
『また止めに来たの?書記くん』
面白がるように口の端をにやりとさせて、紫は目を細めた。
紫が口を開くと、白い息がふわあと空中を舞った。
『副会長が止めてくれって。いくらなんでもやりすぎだろ、これは』
『卒業だから、って浮かれる輩がいると思ったから、こうして見張ってるのよ。これもれっきとした生徒会長のお仕事』
紫はフェンスの網目を掴んでゆらゆらと自分の体を揺らした。肩にかけたメガホンが重たく揺れる。
その様を横目で眺めながら、秋陽は息を吐いた。
『あんまりあの人を困らせるなよ』
『あいつはあいつでもう達観してるのよ。だからあんたに頼んだんでしょ。秋陽に言えば、私は止められると思ってる。ちょっと心外』
そう言って唇を尖らせる様は、子どものように無邪気で、でもどこか儚さを湛えていた。もう紫は18だ。着々と大人の階段を上りつつある。
そして今日は節目の日でもあった。卒業という名の。
紫は明日からいなくなる。
秋陽は自分でも白い息を吐いた。舞い上がっていく白い靄は、雲と同化して見えなくなった。雪でも降りそうな、灰色の雲が空を覆っていた。
『明日発つのか』
『そう。朝の八時に成田』
紫は受かった大学を休学し、自ら世界一周の旅を計画していた。日本を飛び出したい、この目で世界を見てみたい、そう言って決めたのだ。
秋陽は彼女らしいと思った。しかし、同時に言い知れぬ空虚さが広がっていくのを感じていた。それが、自分の吐く息の白さで更に大きくなっていく。
『俺から解放されて、せいせいするか』
秋陽は誰に向けてでもなく呟いた。寂しさが、自分の口を動かしたのか、自分でも意図せずに言葉が口から出ていた。
感情は、抑えようとしても時に溢れてしまうことがある。秋陽には、それが恐ろしかった。
見ないようにと蓋をして、今まで生きてきた。一番大事なこと、自分が明らかにしたいと思っていることから目を背けてきた。それが間違いなのかは分からない。しかし、今はそれを見る暇もない。東大理Ⅲ合格を心に決めてから、勉強に追われている日々。それは苦痛でもあるけれど、寧ろ有難かった。思考を別の場所に向けていれば、余計なことは考えなくて済む。
しかし、今はそうはいかないらしい。それだけ、紫には愛着も思いもあったのだ。今更そう気づいて寂しくなったなんて、まるでガキのようだと、秋陽は心の中で自分を笑った。
秋陽の寂しさが放った言葉に、紫はふっと白い息を漏らした。彼女は身体を反転させて背中をフェンスに預け、足を伸ばす。空を見上げ、再び息をはっと吐く。白い靄が空を飛んでいく。
『あっちにいったら、あんたがいなくて寂しいかもね』
紫の言葉に、秋陽は彼女を見た。
紫はふふんと目を細めて笑っていた。それは、どうだ、と主張するような揶揄っているような目でもあった。
『そう言ってほしいんでしょ?秋陽は』
わざわざ名前で呼ぶあたりが憎たらしいと、秋陽は呆れて紫から目を逸らした。返答するのが癪で、秋陽はグラウンドを見下ろした。下では生徒同士がスマホで写真を取り合ったり、教師も交えたりと、思い思いに今日の思い出を残している様子が見えた。
『私たちも取る?写真』
紫の声が耳元でした。秋陽が振り返ると、紫は秋陽の隣で目を輝かせていた。好奇心旺盛な動物のようなくりくりとした目に、秋陽は一瞬言葉を失った。だが、その瞳に何故か反発したい気持ちが湧き上がってきて、言い返す。
『わざわざ取らなくてもいいだろ』
『最期なのにつれないなあ。あ、女子と写真撮るの初めてか?だから恥ずかしいとか?』
まあ、あんただから有り得るかもね、女子嫌いだし、と言いながら、からかうようにニヤリと笑う紫に何故かムッとして、秋陽はぐいと紫の細い腕を引っ張った。
かしゃりとカメラのシャッターを切る音が、灰色の雲の下で響き渡った。
***
「藤森、迎えが来たぞー」
林が白衣のポケットに手を突っ込んで体を揺らしながら、デスクで資料を読み漁っていた秋陽を呼んだ。しかも、ニヤニヤとした含み笑いを顔に浮かべながら。その表情に嫌な予感がして何ですか、と言おうとした秋陽は、研究室の透明なガラス越しに見えたシルエットに、意識をすべて持っていかれた。そして、がちゃりと音を立ててステンレス製の長いノブが回り、紫がひょっこりと顔を出した。秋陽と目が合うと、紫はにやりと白い歯を見せて笑った。
「どうしてこうもタイミングがいいのか……」
秋陽は呟いた。その呟きは誰かに聞かれることもなく霧散した。広げていた資料を手際よく片付け、傍に立っていた林に告げる。
「ちょっと出てきます」
林はうらやましいなーという意図を隠さずに唇を尖らせた。いい大人が。
「今日の飲み会はどうするんだ?」
「パスで」
秋陽がにべもなく答え、白衣を脱いで椅子に掛けると、林は、はいはい分かりましたよ、いってらっさーい、といじけた子供のように言ってから、自分のデスクへ戻っていった。またトランプタワーでも始めるのだろうか。
秋陽が自分の椅子を机におさめ、財布と車の鍵だけポケットに突っ込んで、研究室のドア脇に行く。秋陽が近づいていくと、紫は研究室の中に入ってきた。
「ここは部外者立ち入り禁止だぞ」
言っても聞かないだろうが、と秋陽は諦めの気持ちを抱きながら、一応忠告だけはしてみた。
「今日は帰れって言わないのね」
紫が意外そうに秋陽の顔を覗き込む。栗色の髪がふわふわと揺れる。
その紫の様子を肌で感じながら、秋陽は紫に隠しても仕方がないと思った。自分のグレーのパーカーをハンガーから取って羽織りながら、想いのままに告げる。
「お前に触りたい」
その言葉を告げた瞬間、紫は目を丸くした。
それはそうだろう、突然こんなことを言われて驚かない奴のほうがどうかしている、と秋陽は思った。それでも、紫相手には直球のほうが良いと思ったのだ。たとえ断られたとしても。
紫は思案するように顎に手を当てながら視線を下にやっていたが、しばらくしてゆっくりと顔が上がり、秋陽の瞳を見据えた。それは秋陽の心を捉えるほどに真剣な瞳だった。
「分かった」
「はい!ビールと唐揚げお待ちっ!」
秋陽の目の前に油がたっぷりと乗った、揚げたての唐揚げと、麦を思わせる粟立ったビールが置かれた。
「いただきます!」
紫は一人割り箸を抜き取って、手を合わせ、秋陽と同じ唐揚げに一口かぶりついた。
「ん~うまいっ!」
紫が頬を抑えて旨味を堪能している姿を見て、秋陽はため息をついた。
「そうだよな、お前に期待した俺がバカだった」
「なに、ホテルに直行のほうがよかった?」
唐揚げにかぶりつきながらド直球の質問をあけっぴろにしてくる紫に、秋陽は苦笑いながらため息をついた。
「いや、いい。お前とはこっちのほうがあってるかもな」
「秋陽も食べれば?おいしいわよ」
紫が口に頬張りながら勧めてくるそれに、秋陽もいただきますと言ってかぶりつく。こってりとした油に、レモンの汁がマッチしていて、秋陽は素直においしいと思った。
「こういう息抜きも必要でしょ。パーッと飲む。こういうことしたことある?」
そう言われて、
「……いや、ない」
秋陽はもう一口かぶりつきながら答えた。
大学に入ってからも、新歓行事やコンパ、飲み会などは参加してこなかった。それよりも将来が大事だった。遊ぶ暇などなかった。
秋陽にとって時間は悪魔だった。時が経てばたつほど、母の回復の見込みは薄くなる。残された希望もあと何パーセントなのか、それだけは考えてこなかった。ただひたすら今までを、希望だけにあてて、自分を酷使する代わりに母を救ってくれと、自分が頑張れば、母は回復に近づくのだと信じてひたすらやってきた。
楓の事だって。思春期に入れば入るほど、心に負った傷は体に現れてくる。それは時に精神疾患という形で現れる。何か体の奥に潜んだ闇のようにこころを蝕んでいくのだ。
だから時間は秋陽にとって命にも等しかった。
こんな、誰かと飲みに行ったりなどする暇も作らなかった。
不思議な感覚がする。
しかし、唐揚げの味を感じると同時に、無視できない感覚が襲ってくるのを、秋陽は感じていた。
この場の空気が圧迫されるような感覚を与えてくるのだ。
秋陽は目の前に置かれたビールの泡を見つめた。そして、賑わっている店内を見まわした。サラリーマンや会社員、スーツを脱いでワイシャツだけになった若い男性、中年の男性などが思い思いに飲んだり、大きな声で話したりしているのを眺める。
その光景を見て、秋陽の心の中にはわだかまりができていた。苦い記憶が思い起こされる。
周りの人たちには何の罪もない。しかし、この空間には慣れなかった。赦せなかった。
きっと普段の自分なら大丈夫だっただろう。
しかし、今の自分では許せない理由がある。
昼間、叔父が放った一言。
それが自分の中では爆弾となって身の内を這っている。
そして、目の前にいる紫にその一端を告げる。
「紫、俺は酒は飲まない」
紫はその言葉を聞いて唐揚げをごくりと飲み込んだ。そして、
「お父さんのことがあるから?」
さらりとその言葉を口にした。そう聞こえたのは、彼女が迷いなく言ったからだ。軽々しく言ったわけではないことは分かっている。紫の秋陽を見つめる目がそれを証明していた。その瞳は秋陽の心を見ているようで。
秋陽は無性に紫に触れたいと思った。叔父と話した時、溢れだしそうな自分の心を、紫なら止めてくれると思った。止めてほしいと思った。自分のささくれた心を癒してほしかった。
それは、今も感じている。五感が紫に執着して、手を取りたい、抱きしめたと叫んでいる。醜い敵意のような憎しみも、行き場のない思いも、すべて紫にぶちまけたいと思っている。
それでも、今紫を目の前にして思う。
それをして、紫を傷つけない保証がどこにあるか、と。
俺が紫に触れて、傷つけない確証はない。俺の中には、あの残酷で非道なあいつの血も流れている。
この場がそうさせるのか、今は父親という存在を意識せずにはいられなかった。
そう思うと、秋陽の心の行き場はなくなった。
触れたいと思った自分の気持ちも。
紫に自分をゆだねたいと思った自分は愚かだった。
「悪い。帰る」
秋陽は席から立ちあがった。紫とは目を合わせずに。彼女を見れば、自分の触れたいという思いが溢れてきそうだったから。そのまま、昼間と同じように万札だけ置いて席を後にしようとする。
しかし、紫も立ち上がって秋陽の後を追いかけてきた。
「秋陽、逃げるの?」
紫の諭すような声が背中にかかる。秋陽はその声に、自分の感情を抑えるので精いっぱいだった。
「お前は俺と関わらないほうが良い」
俺は一人でいるべきなんだ。
最初からそうだった。
俺は。
「関わるなって言われたって、私は追及し続けるって言ったでしょ」
紫の怒ったような声がした。そして、手を取られる。その熱に、秋陽の肩は跳ねた。そして、溢れた。止めることはできなかった。
その手を振り払い、叫ぶ。
「お前を傷つけたくないんだよ!」
「傷つけなさいよ!!」
秋陽の言葉に、紫も叫んだ。居酒屋中に響き渡る声だった。店内がしんと静まった。
紫の叫びに愕然とした秋陽の隙をついて、紫は秋陽の首根っこに抱きついた。
そして、秋陽の唇に思いっきりかぶりついた。
その唇の柔らかさと、紫の温もりを秋陽ははっきりと感じた。
そして、紫は唇の合間でまたも叫んだ。
「私は、それくらいの覚悟して来てんのよ!」
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