第14話 花冷えとワイシャツ
車が木々の生い茂った砂利道を抜け、舗装された道に出ると、古びた街灯が点々と現れ、夜の闇を照らしだした。静寂な田舎の街並みが露わになり、遠くに広がる田んぼや、納屋のような年季の入った木造建造物がガラス越しにぼんやりと映る。田んぼの奥には森が広がっており、その境目は黒く塗りつぶされたように不確かで、輪郭がない。
瑠依はその流れていく風景を横目に眺めながら、静寂に通る楓の微かな寝息を聞いていた。
楓の頭は落ち着く場所に収まったのか、瑠依の肩に寄り掛かったままびくともしない。すうすうと立てる寝息と、呼吸のたびに揺れるセーラー服のリボンが、彼女がただ眠っているだけなのだということを物語ってくれる。
秋陽の運転が安定しているからか、楓は病院を出てから、車に乗り込むとすぐに眠りの世界に入った。そして赤ん坊のようなほのかな熱を発しながら、静寂のなかにふわふわとした気を送ってくる。
姉貴の荒い運転ではこうはいかないだろうと独りごちながら、瑠依は前に座った二人に目を向けた。
後部座席からでは二人の表情は見えないが、紫は助手席で胡坐をかきながら頬杖をついて窓の外を眺めており、秋陽は黙々とハンドルを握っている。
楓がこてんと瑠依に頭を預けた際、秋陽が「おい」と忠告のような言葉を投げかけ、紫が「楓ちゃんも疲れてるんだからいいでしょ」と口を挟んだ、それっきり二人は何の会話もしていないし、一言も発していない。
秋陽はともかく、普段は一人であったとしてもぶつぶつと勝手に独り言をつぶやき、終いには手当たり次第に人に絡みまくる姉がだんまりとしている。その様子に、瑠依は二人の間に何かがあったことを察した。
先ほど二人がロビーを出ていったあと、何を話したかは知らないし聴いていない。戻ってきた二人は、診察を終えた楓の心身を労わりながら、薬を貰ったり、診察料金を払ったりなど、至極普通の振る舞いをしていた。しかし瑠依は、その時は感じなかった違和感を、今ひしひしと感じていた。
楓が眠っているから、と気遣っていることもあるだろうが、それを除いても二人の間には妙な雰囲気が漂っていた。ぎすぎすしたようなものでも、冷たいものとも違うが、何とも言えない居心地の良くない空気であることは確かだった。
瑠依から見た、今までの二人の関係は、決して険悪といったものではなかったはずだった。
瑠依がはっきりとした自我を持つようになったころから、紫は1人でどこまでも突っ走り、周りを巻き込んでいく破天荒な性格の持ち主だった。一方、秋陽はどこか達観したような落ち着きのある、大人びた雰囲気を持った少年で、瑠依の母も、「秋陽くんはまだ小学生なのにしっかりしているわ」と言いながら、瑠依の遊び相手にと、安心して任せていた。彼より二つ年上の自分の娘のほうが手のかかる、といった風情で、母は嬉しいやら悲しいやら、複雑な顔をしていたことを瑠依は思い出した。それほど滅茶苦茶だったのだ、我が姉は。
しかし、秋陽はそんな紫に対して苦笑しながらも、何か諍いが起こったとき(主に原因は紫)は仲裁役を買って出、ぼろぼろになった紫の手を引きながら、家まで共に帰ってくるなど、何だかんだ言って面倒を見ていた。
紫は、
「私が秋陽の面倒を見てるのよ。あいつネクラなんだもん。もうちょっと明るくなってもいいと思って、私が指導してるの」
と、身体同様にぼろぼろになった赤いランドセルを引きずりながら唇を尖らせていたが。
中学高校と学年は違いながらも交流はあったようで、紫が生徒会長、秋陽が書記を務めたこともあったらしい。家がお隣同士というのに交流がないというのも些かおかしく、二人はつかず離れずの関係を保っていたように瑠依は見ていた。つまり、そこまで仲が悪いわけではないはず、だったのだ。
それなのに、どうして車内にこれほど不穏な空気が漂っているのか。
楓が眠っているのは幸いだな、と瑠依はひとり溜息をつき、行き場のない視線を再び窓の外によこした。
「ついたわよ」
紫の凛とした声が頭上でこだました。瑠依はうっすらと瞼を開け、顔を上げる。ぼんやりと視界の中に映るウェーブのかかった栗色の髪を眺める。その奥に、ぽうっと団地の蛍光灯が光っている。
「さっさと起きろ」
ばしん、という音と共に肩に鈍い痛みが走った。紫にはたかれたのだ。彼女は瑠依側の後部座席のドアを開けたまま、車の後ろに回った。荷物でも取りだすのだろう。
おかげで、いつの間にか自分も眠ってしまっていたらしい、と認識できるまでに頭の中はクリアになった。しかし、わざわざ叩かなくてもいいだろ。
そう思いながら、隣で熟睡している楓の肩を揺らす。
「楓、着いたぞ」
「……んー」
楓は一瞬身じろぎ、眉をひそめた。茶髪を揺らしながら唇を引き締め、ん、んん、とくぐもった声を漏らす。
小動物みたいだな、と瑠依が眺めていると、急に背筋に冷たいものが走った感覚がした。振り返ると、冷気を放ってこちらをじっと見つめる秋陽がそこにいた。そんな秋陽の後ろで、紫がため息のような呆れた声を漏らす。
だから、一体何があったんだ。
二人の異様さに瑠依が一言物申したくなったとき、彼の肩が軽くなった。
振り返ると、楓が目をこすりながら瞼をしぱしぱと開け閉めしているところだった。
「……瑠依……?」
寝起きだと分かるたどたどしい口調に、
「着いたって。降りるぞ」
と声を掛け、足元に置いていた学生鞄を掴み、片足を車から出し、地面を踏んで、降車を促す。
楓はまだ覚醒しきっていないのか、瞼の奥の瞳を揺らしながらこくりと頷くと、おぼつかない仕草で瑠依のワイシャツの袖をきゅっと握った。
「寒い……」
掠れた声は震えているように聞こえて。
思わずその華奢な腕に手を伸ばし、引き寄せようとする。
しかし、その手は空中で止まった。
そして瑠依は行き場をなくしたその手をぎゅっと握りこみ、そっと楓から遠ざける。
「もう家だから」
瑠依はそう言って車から降りる。楓が掴んだワイシャツが引っ張られ、それにつられて楓もおぼつかない足取りで地面に降りる。
秋陽が遠隔操作で車にロックをかける。もう片方の手に、病院から処方された薬の入ったポリ袋を引っ提げ、いつの間にか楓の学生鞄も肩にかけていた。
そして、瑠依と楓のほうへ振り向き楓の傍によると、着ていたグレーのパーカーを楓の肩にかけた。
「秋陽にい……」
「寒いんだろう。それ着てろ」
「……ありがとう」
楓はまだ覚め切っていない目を細め、そのパーカーの裾を握りしめ、秋陽に微笑んだ。
それでも、何故か瑠依のワイシャツを離さない妹に、秋陽は観念したように苦笑し、楓の頭をくしゃりと撫でつけた。
猫のように目を瞑って撫でられている楓を、優し気な目で見つめた後、秋陽は「行くぞ」と言って団地の階段へと先に向かった。
びゅうと春風が吹いて、地面に散らばっていた桜の花びらが舞う。暗がりの中、桃色の花びらは白い蛍のように空中を踊った。
紫の後に続いて階段を上がっているときも、楓は何故か瑠依のワイシャツの袖を握ったまま離さない。
しがみつくように。しっかりと繋いだまま。
まるで昼の自分のようだと思いながら、後ろへと引っ張られる感覚に、瑠依は何も言わず、ただついてくる楓の存在を背中で感じていた。
3階まで登ったところで、お互いの家のドアの前にたどり着く。
秋陽は先に藤森家のドアを開け、楓を待っていた。
久々に秋陽が家の前にいる光景を目にしたからか、楓の頬が緩んだ。目を見開き、ほうと息を吐く仕草が、彼女のこれまでの寂しさを物語っていた。
「楓」
兄が妹を呼ぶ。ドアを開いて、彼女が家に入るのを待っている。
すると、ぎゅうと楓の手に力が入るのを瑠依は感じた。衝動的に楓を振り返ると、彼女の瞳と目が合った。
寂しい。
そう訴えかけているような目。
それは、自分の思い過ごしだろうか。
それとも。
一瞬、胸のうちから得体のしれない衝動がこみ上げてきたが、瑠依はそれを振り払うように目を瞑った。
違う。そうじゃない。
「楓、今日は早く寝ろ」
その迷いを宿した瞳を隠すように彼女の額を撫でつけ、遠回しに離れるように促す。
楓はそんな瑠依を見上げながら、一瞬喉を詰まらせ、何か言いたげに口を開いた。
しかし、
「分かった」
その口から出てきたのは、了承の言葉で、もう一度ぐっとワイシャツを握りしめながら、
「今日は、ありがとう」
と告げた。
その寂しげな瞳。いろんな思いが渦巻いているであろう心が漏らした、ひとかけら。
その言葉の重みをかみしめながら、楓に気負わせることのないように、瑠依は慎重に言葉を紡ぐ。
「また、明日な」
明日も明後日も、変わらない。俺はお前の傍にいる。
そう唱えながら、楓の額を撫でる。
その思いも伝わったのか否か。
楓はうん、と頷きながら、瑠依のワイシャツから手を離した。
瑠依は楓の額を開放した。
そして、楓は瑠依の隣にいた紫に近づき、
「紫さんも、来てくれて、ありがとうございました。……心配かけて、」
「ごめんなさい、はなしね。あなたは既に身内なんだから、そういう心配はしなくていいのよ」
紫はそう言ってから楓に飛びつき、ぎゅうと抱きしめ、頬に口づけた。目の前で展開される大っぴらな行為に、自分の姉が海外帰りだったということを改めて思い知らされる瑠依。
どうしていいか分からないながらも、ぎこちなく抱きしめ返す楓に満足したのか、紫は抱擁を解き、くるりと楓の体の向きを反転させた。
「ほら、シスコンお兄ちゃんが待ってるわよ」
秋陽はその言葉に顔をしかめたが、楓はぎこちなく笑い、秋陽のほうへ掛けていく。ドアの前まで来て、家の中に入ろうとする寸前で、楓が瑠依の目を見、その瞳に影が宿ったのを、瑠依は見逃せなかった。
完全に楓が家の中に入ったと分かる足音を確認し、瑠依は秋陽を呼び止めた。
「姉貴は先、入ってて」
瑠依が紫にそう促すと、意外にも紫は何も言わず、扉を開けて家の中へ入った。
秋陽に一瞥をよこして。
秋陽は家のドアを半開きにしたまま瑠依のほうを向いている。
瑠依は湿気の残る空気を深く吸い込み、己に言いかけるように、その一言を告げる。
「秋陽にいの言ったこと、肝に銘じます」
蛍光灯の灯りがちかちかと点滅し、ばちっばちっと音を立てた。
右側から浸食してくる暗闇が、秋陽の顔に影を作る。
「そうか」
秋陽はその三文字を、ゆっくりと噛みしめるように紡いだ。
その短い返事に、彼が自分の答えを受け取ったことを瑠依は知る。
体にあたる風が妙に冷たく感じる。それは自分の体に熱がこもっているからだろうか。
秋陽は瑠依から一瞬視線を外し、コンクリートの床に目をやった。そして、短く息を吐くと、
「おやすみ」
と微笑を浮かべながら呟き、ドアノブを引いて家の中へ消えた。ばたんと、ドアの締まる音が響く。
瑠依は一人外に残り、肌に纏わりつく風を受けていた。
脳裏に焼き付いた残像に、背筋が強張っていく。
秋陽が姿を消す前に見せた表情。雰囲気。
自分に、覚悟を決めてほしいと言った彼は。
楓を何よりも優先できるかと諭した彼は。
まるで、行き場をなくした少年のように。
今にも泣きだしそうに、見えた。
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