第37話 蹂躙とトラウマ
急に視界が暗転した―――かと思うと、悪魔と見間違えるほどに黒々とした影が私の視界を遮った。
この国では、悪魔に祈りを捧げれば人の命を奪うことができるという。
砂地に手足を押し付けられ、身動きがとれないなか、ふとそんなことが脳裏を横切った。
浴びせられる、知らない男の下卑た視線。赤黒いその男の身体から放たれる異様な汗の臭い。
吐く息は荒々しく、まるで
生理的な気持ち悪さと、恐ろしさ。
ただただ体中がないまぜになったような感覚に支配されて。
体内を循環する血液さえも止まってしまったかのように体中が戦慄する。
抵抗したいのにそれができない。力で押さえつけられる。
私にできるのは、馬鹿になってしまったかのように痙攣する喉で、助けを呼ぶことだけだった。
助けて。
助けて。
嫌だ。
———。
何度も
それが精いっぱいの抵抗だった。
どこからか私を呼ぶ声がする。酷く焦ったような声が、遠のいていた私の意識を引き戻していく。遠くで誰かが私の名前を呼んでいる。
私の自由を奪っていた男は、いつの間にかいなくなっていた。
今はただ、私の身体だけが暗い砂地に打ち捨てられているだけだ。
全身は倦怠感が覆い、知らない手に触れられた感触が、粘っこく染みついて、離れない。
―――私の中の何かが壊れていく。
もう私は、さっきまでの私ではなくなってしまった。
汚された。名前も知らない誰かに。好き勝手に
人間の思考というのは、あまりに惨くて、受け止めきれない出来事が起こったとき、酷く冷静になるらしい。
気怠さと、肌の細胞さえも汚されたような感覚の中で、頭だけは冴えきっていた。
人はこんなにも醜くなれるものなのか。
知らない人間にこんなにも恐怖を植え付けられるのか。
浴びせられた体温も、息も。一方的に強いられた行為も。
はっきりと身に刻まれた。
なにもかも、おぞましく、恐ろしい。
無残に破り捨てられたTシャツからはだけた身体を撫でる砂ぼこりは、鬱陶しい感触を拭ってはくれない。
重たい瞼を持ち上げた先に広がるのは、真っ青な雲一つない空だった。
―――何も変わってはいない。
わたしが襲われても。人間の醜さを垣間見せられても。
景色は、世界は、変わらないのか。
わたしだけを切り離して。わたしだけを取り残して。
目の前に広がる真っ青な空は、ただただ無慈悲だった。
こみあげてくる乾いた笑い声と、溢れてくる涙は、仲間が駆けつけた後も止まらなかった。
***
「……レイプって……」
口に出すと、その響きは秋陽自身を襲った。
その言葉が何を意味しているのか、嫌でも分かる。
性的暴力。
無意識に体が震えだす。胃の中のものが沸騰したように暴れ始める。
秋陽は紫の手を放して自分の口に当てた。
額に嫌な汗が流れだす。背筋が寒い。身体が言うことを聞かない。
レイプ。
性的暴力。
強姦。
妊娠。
相手は。
誰が。
紫を。
母を。
母が。
楓は。
思考がまとまらない。洪水のように溢れて止まらない。ぐるぐると全身をかき乱して、喉に戻ってくる。
吐き出したい。何もかも、全て。空っぽにして。何もかも。
「秋陽」
紫の声が耳元でしたかと思うと、肩と背中に紫の手の感触がした。
その熱を持った手に、秋陽はばっと距離を置いた。反射的な行動だった。
さっきまで触れていたはずの紫の手は、むなしく宙に残され、紫は傷ついたように顔を顰めた。
その顔を見た途端、胸に痛みが走った。こいつを傷つけた。
自分の行動に呆然とする秋陽に、紫はもう一度近寄った。
「触っただけで妊娠なんかしないから安心しなさいよ」
ジョークなのかも分からない言葉を投げかけ、秋陽の背中に手を置いて上下にさすってくる。
間近に迫ってきた紫の顔と、香ってくる彼女の匂いに全身が固まった。
思わず息を止めて彼女を見やりながら、
「……平気なのか」
「何が?」
「俺に触って」
「さっきからべたべた触ってるじゃない」
何をいまさら、とでも言いたげな紫は、眉をひそめながら店長を呼ぶ。
紫が何か袋はないかと頼むと、店長はスーパーのポリ袋を持ってきてくれた。
紫はそれを秋陽の口元に近づけ、吐くならここに吐きな、といいつけた。
相変わらず飄々とした彼女の様子に、いつの間にか吐き気はおさまっていた。
秋陽は正気に戻り始めると、現在の状況に恥ずかしさを覚えた。
……こいつに介抱されるなんて。
酒だって飲んでいない。素面なのにもかかわらず。
まるでガキみたいだと、秋陽は気まずさを感じながら体を起こした。
その様子を伺いながら、
「もう大丈夫?」
紫が心配そうに尋ねてくる。
その殊勝な姿に、秋陽は紫の心境が気になった。
「……お前は、平気なのか」
さっきもした問いを繰り返す。
レイプされて平気な奴なんかいない。たとえ、未遂であっても。日常に支障をきたすほど、傷を負ってしまうケースだって少なくない。
それが気丈な紫だから当てはまらない、と思えるほど秋陽は楽観的ではなかった。
紫は今度こそ「何が?」とは聞いてこなかった。代わりに彼女はふうと息を吐くと、
「今はね」
と答えた。先ほどまでと何ら変わらない口調だった。
彼女は秋陽の背中に手を当てたままジーンズを履いた長い足を組んで見せた。
「事後は駄目だった」
そう言いながら、紫は目の前のテーブルに肘を置いた。ふわっと彼女の髪が揺れる。
「そういう意思を持ってないボディータッチも、相手が男性だって分かったら委縮して、怖くなって。うちの団体のほとんどが男性だったから使い物にならなくて。もう、腫れモノ扱い。全く使えないお荷物同然の存在に成り下がった」
紫は遠くを見るような目をしていた。秋陽はただその横顔を見ることしかできない。
「ああ、私の人生って終わったな、ってその時は思った。世界の人類の半分以上が男でさ、生きていけるわけないわ、って絶望もした」
そう言いながらも彼女の顔からは、憂いを感じ取ることはできなかった。ただ過去を懐かしむような、懐古しているような穏やかな表情だった。
「でも、アメリカでトラウマの治療してたら少しずつ症状が治まってきて、今はもう平気」
事も無げに言ってのける紫に、秋陽はそうか、としか言いようがなかった。結局使わなかったポリ袋をテーブルの上に置く。
そのクシャリとした感触が鬱陶しい。
紫を心配する思いがある一方で、自分の中に処理しきれない感情が湧いてくるのを止められなかった。
それは、自覚することを恐れて、何度も胸の奥に仕舞い込んだものの片鱗。
でも、それを掘り起こしてはいけない。自覚してしまったら、俺は――――。
「ねえ、私も聞いていい?」
紫は唐突に秋陽のほうを見やった。その目は逸らすことを拒むような力があった。しかし、秋陽はその目に、今顔を出しているものを掘り起こされるような予感がした。
そして案の定、紫は爆弾を落とす。
「秋陽も女性が怖いんじゃない?」
「……は」
それは、聞き返す意思半分、溜め込んでいた息を吐き出すのが半分の行為だった。関節が、身体が上手く動かせない。
そんな秋陽に、尚も紫は言い募る。
「学生時代、秋陽に浮いた話がなかったのは、それどころじゃない事情があるからだと思ってた。でも、忙しいことを理由にするには、あんたは女子を避けすぎてた。不自然なほどに。何でなんだろうってずっと思ってた」
秋陽はただ紫の言葉を聞いていることしかできなかった。でも、確実に何かが、傷口から血がぷくりと湧き出るように、自分の中から何かが現れてくるような気配があった。
紫はじっと青ざめていく秋陽の顔をこれでもかと見つめてくる。
「その疑問が、私自身が男性恐怖症になってはっきりした。秋陽も同じなんじゃないかって」
それ以上は言わないでほしい。
言葉にしてしまったら、向き合わなければならなくなる。
自分が今まで見ないようにしてきたものと。
しかし、紫は言う。死んでも向き合いたくなかったことを。
「秋陽は、お母さんが怖いの?」
そう言われた瞬間、秋陽は崩れるように自分の顔を覆った。
頭痛がする。
目を背けたい。できるなら聞かなかったことにしたかった。
違うと言いたい。
でも、それができない。
今までひそめてきた片鱗が、今、完全に目の前にある。
「秋陽」
紫の声が耳元でしたかと思うと、紫の腕が秋陽の頭を抱えた。柔い感触と暖かな温もりが頭皮越しに伝わってくる。
体の力が抜ける。全部投げ出したい。なかったことにしたい。このまま、紫に身を委ねてしまいたい。何もかも捨てて。そんな思いが脳裏をかすめた。
「……ねえ、秋陽。一人で抱えないで」
紫が囁く。彼女にしては珍しく懇願するような声音だった。
今の自分には、その声は命綱だった。
自分は孤独だ。誰も信じられない。
自分はずっと一人だったのかもしれない。
一度自覚してしまうと、思いは堰を切ったように止まらなくなる。
惨めになんかなりたくないのに、湧いてくるのは自分を貶める考えばかりで。
そんな中で、紫にすがりたいという思いは強くなっていく。
この寂しさを埋めたい。
受け止めてほしい。
自分一人だけでは、もうこの孤独と向き合うことができない。
「……紫」
「ん」
紫が促すように秋陽の後ろ髪を撫でた。人に頭を撫でられるのなんていつ以来だろうか。
あの人が自分の頭を撫でてくれなくなったのは、いつからだろう。
自分は、本当にあの人にとって大切な息子だったのだろうか。
そう信じられなくなったのは、いつからだろう。
「……なんで、レイプされかけて俺のことが好きってなったんだ」
力なく、それでもはっきりとした声で秋陽は尋ねる。
しかし、しばらくたっても何の反応もない。秋陽が紫の顔を伺おうと紫の腕の合間から顔を出すと、珍しく顔を赤く染めた紫の顔がそこにあった。
「……奪われるくらいなら、相手はあんたがいいって思ったの」
消え入りそうな声で呟く紫を、秋陽は愛おしいと思った。
そして、彼女にこの寂しさを埋めてほしいと思ってしまった。
「あき、ひ……」
体勢を変えた秋陽に、紫が声をあげる間もなく、秋陽は紫を抱き込んだ。
肩口に香る紫の匂いが心地いい。
委ねてしまえるなら。
委ねているときだけでも、苦しみを忘れられるなら。
自分を受け入れてくれる相手に、受け入れられたい。
もう、愛されない自分を見つめるのは嫌だ。
———もう、俺は揺らぐことに疲れた。
「なあ、紫」
秋陽は抱きしめた温もりに問いかける。
そして、穴の開いた風船が空気を吐き出すように、紫の腕の中で『一番恐れているものの片鱗』を吐露する。
今まで抱え続けていた、泥を。
「俺と楓は本当の兄妹じゃないかもしれない」
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