第5話 異変

「……ふぅ。……んー」


 講義終了の鐘と共に、ルトは小さく息を吐くと、静かに伸びをした。


 そして、同じ講義を受ける学生が友人達と集まったり、または1人で次の講義の準備をしたりしている中、ルトは広げていた荷物をカバンへと詰めると、そそくさとその場を退散。

 すぐに、正門へ向けて走った。


 本日、ルトが受講する講義は1限目のみ。


 つまり、ここからはある意味では学園に縛られる事のない自由な時間ということになる。

 そして、そんな自由時間の過ごし方については、もはやはっきりと決まっていた。


 正門に着く。しかし、そこでも決して止まる事なく走り続ける。


 景色は変わり、貴族の屋敷から一般の家々、遂には廃墟が多数存在する様な薄暗い雰囲気の漂う場所になり、ルトはその内のとある一軒の前に着くと、スピードを緩める事なくその中へと入る。


 見知った家具の数々。もう何年も生活を共にしている、ルトの家である。


 家に着くと、すぐにカバンを置き、制服を脱ぐ。

 次いで、動きやすそうな服を選ぶとそれを身につけた。


 何となく、肩の荷が下りたような気がして、フーッと小さく息を吐く。


 その後、革製の簡素な防具を一つまた一つと身に纏い、大事に保管してある短剣を鞘ごと掴むと、それを腰元へと装着した。


 ルトの戦闘スタイルの完成である。


「……よし!」


 必要最低限の荷物を麻布でできた簡素な袋に突っ込み、それを手に持つ。


 これで準備は完了である。


「行くか!」


 気合いを入れるつもりで短く一言。


 そしてすぐに家を出ると、ルトは学園とは反対方向へ走っていった。


 あいも変わらずボロボロの家々が並ぶ通りから、徐々に平凡な家々の並ぶ通りへと変わっていく。


 所々商業施設と思わしき物が点在し、人影も多く見られるようになったそこは、力ない一般人が住む、下町である。


 学園周辺とはまた違い、ルトにとって馴染みやすい雰囲気を醸し出しているという事もあり、ルトには特に緊張した様子がなかった。


 そんな下町の一角に。

 他の家や施設に比べ、明らかに巨大で存在感のある施設が見られた。


 ルトは走るとそこへ向かい、ドアを開く。


 と、同時にルトの耳にガヤガヤと騒ぐ人の声が届いた。

 上擦った、何とも上機嫌な声が特に多い。

 しかし、それも当然だろう。


 何故ならば、ここは酒場。

 仕事で疲れた大人が、その疲れを吹き飛ばすべく、飲み騒ぐ場所であるからだ。


 ある者は机に片足を乗せ、ビールが並々と注がれた木製のジョッキを掲げ、「今日は俺のおごりだ! お前ら呑んで呑んで呑みまくれぇ!」と、同じ卓の仲間と思しき者達に向け叫び、ある者は「今日は豪勢にいくぞ」とばかりに、大量の肉を喰らい、ビールを浴びるように呑んでおり、またある者は、何か辛い事でもあったのであろう、向かいに座る仲間に愚痴を言いながら、べろべろになる程酒を呑んでいた。


 毎度ここに来ると、圧倒される。

 少々下品だとも感じるが、ルトはここで仲間と騒ぐ人達がどこか羨ましくもあった。


 と、そんな事を思いながら、酒場にいるルトであったが、実は彼が用があったのは、この酒場であって、酒場ではない。


 いや、どちらかと言えば、酒場で馬鹿騒ぎをしたい所ではあるが、今のルトにとって、それ以上に大切な用事があった。


 視線を動かす。

 施設を右から左へ眺めていくと、明らかに雰囲気の違う空間が一部存在していた。


 施設の一角、大凡4分の1程度を占めるそこは、酒場と隣接した、依頼斡旋所である。


 掃除や運搬のような雑用から、簡単な魔物討伐まで、国や個人から依頼された仕事を受ける事ができる場所である。


 歩き、そちらへと向かう。


 依頼斡旋所については、基本壁に貼られている依頼の用紙を手にし、受付に持っていき、そこで受理されると晴れてその依頼を受けられるという流れを汲んでいる。


 という訳で、ルトは依頼がまばらに貼ってある壁へと着くと、1枚1枚しっかりと吟味した。


 全体的に、依頼の内容は決して質の良いものではない。

 しかし、それも仕方がないと言えるだろう。


 何故なら、この斡旋所に流れてくる依頼は、術師団が受理しなかったものなのである。


 基本国からの依頼はまず術師団に行き、そこで選択が始まる。

 その中で、どの術師団も受けない、難易度の低いものなどが、流れてくるのだ。


 つまり、斡旋所はいわば術師団のおこぼれを授かる場所という訳だ。


 しかし、そんなおこぼれでも、親が居らず自ら稼がなきゃなからないルトからすれば、煌びやかな宝石以上の価値があった。


 という訳で、吟味を重ねていく。

 ルトが狙うのは、郊外にある低級の魔物しか存在しない、草原での討伐依頼だ。


「……よし、これにしよう!」


 言って、最も効率のよさそうな依頼書を手に取る。

 ゴブリンの討伐依頼だ。


 報酬は1匹討伐につき、15リル。

 1匹討伐で大凡安物のパン1個分程度の報酬が手に入る事になる。


 毎日依頼を受けられる訳ではない上に、食費以外にも費用がかかる可能性を考慮すると、最低でも10匹は討伐したい所であった。


 因みにルトの1日の最高討伐数は20匹である事から、上手く遭遇できさえすれば、10匹という数字は決して不可能なものではないと言える。


 要は、どれだけ遭遇できるのか、長年の経験と運次第で討伐数が決まるという訳だ。


 ルトはその依頼書を持ったまま、受付へと向かった。


 そこには、恰幅の良いおばさんの姿があった。

 おばさんは、ルトに気がつくと、にっこりと笑みを浮かべる。


 ルトも、見知ったおばさんへ向け笑みを浮かべると、元気よく声を上げた。


「……こんにちは!」


「お、ルトちゃんじゃないか! こんにちは〜! なんだい、今日も討伐依頼を受けにいくのかい?」


「はい! ……えっと今日はこれでお願いします」


 言って、ルトはおばさんへと依頼書を手渡す。


 おばさんは依頼書を受けると、内容を吟味。

 すぐに、ルトにとって無茶ではない依頼だと理解したのだろう、にっこりと笑みを浮かべると、


「……はいよ、ゴブリン退治ね〜! 何度も経験してるし、ゴブリン自体も低級の魔物だからそこまで危険はないと思うけど……絶対に気を抜いたら駄目だからね!」


「はい! 気を引き締めて頑張ります!」


 ルトがそう言うと、おばさんはウンウンと2度頷き、その依頼書へとハンコをポンと押した。

 これにより、依頼が受理された事になる。


「……よし。では、行ってきます!」


「気をつけるんだよ!」


「はーい!」


 言って、ルトは駆け出した。


 目標はここから、学園と反対方向へ更に10分程行った所。

 アルデバード学園や王城の存在する王都の郊外、低級の魔物のみが存在する難度の低い狩場、アルデビア草原である。


 ◇


 門の横へ立つ門番へ、アルデバード学園の学生証を提示する。


 門番はそれを確認すると──と言っても、何度も提示した経験があるため、向こうもわかってはいると思うのだが──通行許可を出した。


 通常、個人の証明書を作成する際には、料金がかかり、かつ作成日から1週間程度しか使用できないのだが、学生証に関しては違う。


 学生証は、発行する際に、一度国王の目を通っている。つまり、学生証を持つ人間は、その存在を王国が認めたのと同義という訳である。


 その効力は凄まじく、学生である間は、こうした郊外への出入りの際に、証明書を作成する必要なく済むのである。


 全く、アルデバード学園様々だ。


 ……まぁ、その効力も、ルトが序列戦で敗北を喫すれば、関係の無いものとなってしまうのだが。


 という訳で、ルトは許可を貰うと、門番へと一言挨拶をし、門を抜けた。


 途端に、ルトの視界へと広大な草原が目に入る。

 アルデビア草原。低級の魔物のみが生息すると言われている、比較的安全な狩場である。


 そのランクはE。

 王国が危険度を国民へと伝える為設定した、5段階の評価の内、最も危険度が低いと言われている値である。

 因みに、これは狩場の他に魔物にも設定されており、ルトが討伐予定のゴブリンに関しても、同様にランクはEとなっている。


 その推奨戦闘力は、初級魔術習得程度、つまり魔術師の内、12歳を過ぎる頃には基本的に習得できる魔術を利用できるだけの力があれば、十分に闘う事ができるとされるレベルとなっている。


 ルトに関しては、魔術師纏術師のどちらでもないが、曲がりなりにもアルデバード学園に入学できるだけの戦闘力はあるので、特に問題はなかった。


 という訳で、制限時間は辺りが暗くなるまでという事もあり、早速ゴブリン退治に取り掛かる事にした。


 しかし、当然討伐には、ゴブリンの存在がなくてはならない。

 ゴブリンの生息域はこの草原でありながらもう少し奥地、草原の向こうに広がる森の近くであり、ここらには全くと言って良い程存在しない。


 ルトは、それを理解している為、普段自身がよく利用している位置へと、駆けていった。


 走る事数分。いつもの定位置へと着くと、ルトは首を振り辺りを見渡す。


 ゴブリンに関しては、他の魔物に比べて特に知能レベルが低く、隠れる事をしない。


 したがって、疎らに木々が位置する事を除けば比較的全体を見渡しやすいこの草原において、運という要素はあれど、基本2、3匹は見つける事ができる……のだが。


 この日は、いつもと様相が違っていた。


「……ゴブリンが、居ない?」


 そう、ゴブリンの姿が見当たらないのである。

 もっと言うのならば、普段生息しているような動物や他の低級の魔物の姿も全く見当たらなかった。


「……どうしたんだろ」


 ルトは首を傾げた。というのも、こんな事態は今まで狩りをしてきて初めてだったのである。


「…………」


 何やら言いようのない不穏感が漂う。


 先程まで雲一つない晴天だった空に所々雲が点在しており、その内の一つが太陽を覆い隠す。

 途端に、周囲が薄暗くなり、よりその不気味さを際立たせた。


 額を汗が伝う。


 本能が警笛を鳴らしていた。


『絶対に何かおかしい。すぐに帰宅し、上の人間へ伝えるべきだ』


 とでも言うかのように、強くけたたましく。


「……か、帰ろう」


 ルトはその本能へと従う事にした。


 弱虫かもしれない。アルデバード学園の生徒として情けないかもしれない。


 しかし、やはり命に代えられるものはないのだ。


 ルトはそう考えると門の方へと向きを変え、走り出そうとし──


「…………ッ!?」


 すぐにその場を飛び退いた。


 瞬間、先程までルトが居た場所に……巨大な棍棒が深く突き刺さった。


「…………ぇ、な、なんで……」


 すんでで跳びのき、何とか直撃を免れたルトであったが、地へ身体を投げ出した彼の表情は……絶望に染まっていた。


 ルトの視線の先。


 そこには、本来この場にいる筈のない者が、存在していた。


 3メートルはあるだろうか、巨大な筋肉質の身体に、異様に膨らんだ腹。

 人間と比べると明らかにバランスの悪い大きな頭に、ニタリといやらしい笑みを浮かべる大きく裂けた口と、そこから覗く鋭い牙。


 そして頭部には、ソレが異形の化け物である事を示す、2本の太いツノ。


 そう、それは──


「な、何でオーガがこんな場所にいるんだよッ!?」


 オーガ。ランクC。

 推奨戦闘力、術師団員3人以上。


 通常、こんな王国の近くに存在する筈のない、食人鬼、その姿であった。


 オーガが、ルトを目に映しながら、ヨダレを垂らしニヤリと笑う。

 ルトは、その眼下で、その姿を目に収めながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

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