第23話 絶望の果てに
「…………ッ!」
呆然としていたルトであったが、すぐに正気に戻ると、ルティアの方へ駆け寄る。
しかし──
「こないで……こないで下さい! ルトさん!」
ルティアはそれを強く拒絶した。
その美しい金色の髪も、今は砂埃に塗れ、その輝きを失っている。
「……ルティアさん」
「状況は……絶望的です。このままだと間違いなく、全滅で終わってしまいます。……だからルトさん! せめて貴方だけでも、逃げて下さい!」
必死の形相で呟かれた言葉。
しかし、ルトは、
「いやだ」
という明確な拒絶でもってそれに返した。
「ルトさん……ッ!」
いつもは素直なルトの強情な姿に、ルティアは声を荒げるように彼の名を叫ぶ。
しかし、ルトは引かず、寧ろ歩をゆっくりと進め、ルティアの前に立つと、力強い声音でもって思いを吐露する。
「……いやだ。皆を置いて逃げるなんて……見捨てるなんて! そんな事したら、僕は本当に『無能』になってしまう!」
「そんな事はないです! ここで逃げても、貴方を『無能』と蔑む人間は居ない!」
「かもしれない。わからないよ。……でも、嫌なんだ。このまま逃げたら、きっと一生後悔する事になる。自ら『無能』というレッテルを貼って、生きていく事になる。そんなの、あまりにも惨めじゃないか」
感情論で動いて良い話ではないのかもしれない。
間違いなく、ルトだけでも逃げ延びて、助けを求めに街へと向かった方が国の為にはなるだろう。
ルトもそれはよく理解している。
しかし、だからと言って、皆を、友を置いて帰るという選択肢はルトの中には全くと言って良い程存在していなかった。
ルトは尚も歩を進める。
目先には、地に降り、此方へと目を向けたまま、特に行動を起こさないデーモンの姿がある。
余裕の表れか、それとも魔物ながらにルトに同情したのか。
向こうの内情など、知る由もないが、好都合である事には変わりなかった。
後方からルティアの声が聞こえる。
必死で、ルトを想い、逃げる様にと声を荒げている。
有り難かった。嬉しかった。
何よりもルトを想っての言葉の数々。
嬉しくないわけがない。
しかし、ルトはそんなルティアに小さくごめんと声を掛けると、意識を前方へと集中した。
緊張からか、喉が異様に渇く。心臓の音が嫌に耳に残る。
気を抜いたら、吐いてしまいそうな程の吐き気に襲われる。
けど──今動けるのはルトだけ。
つまり、果てしなく低い確率かもしれないが、現状に何か変化をもたらせるのはルトだけだと言う事だ。
大きく息を吸って、吐き……グッと口を引き締める。
そして、震えそうになる手に短剣を握ると、ルトは叫び声を上げながら、地面を強く蹴った。
デーモンへと肉薄する。しかし、尚もデーモンは動かない。
これならばと、ルトは短剣を突き出し……しかしデーモンはそれを一瞥すると、大層つまらなそうに、腕を振った。
抵抗なくルトは吹き飛び、地を転がる。
ルティアの悲鳴がルトの耳へ届いた。
「……うっ……あ……」
全身を襲う鈍い痛み。立ち上がろうと力を入れるも、立ち上がる事ができない。
……たった一振り。それも、間違いなく手を抜いて放たれた拳で、ルトはまともに動けなくなってしまうほど、ボロボロになってしまった。
──何故僕の身体はこんなにも脆いんだ。
うつ伏せの状態で、必死に顔を持ち上げ、デーモンを睨みつけながら、ルトは自身の弱さを恥じる。
しかし、だからといって現状が好転するという事はなかった。
デーモンは、チラとルトの方を見ると、すぐに興味を失ったように顔を逸らした。
そして、一点へと目をやり、そちらへと歩く。──そう、ルティアの方へと。
デーモンはルティアの頭上へと立つと、右手の平に黒球を作り出す。
他の魔物に比べ、高い知能を有するデーモンの事だ、ルティアを先に倒しておいた方が、身の為だと考えたのだろう。
「…………くそっ」
ルトの口から思わず声が漏れる。
話を聞いた限りだと、現在他の地でも戦闘が行われているらしい。ということは、まず間違いなく援軍は望めない。
つまり、このまま何もせずにぼうっとしていたら、あと数秒後にはルティアの命が散る事になる。
──当然それは許せなかった。
全身に力を込める。歯を食いしばり、必死に身体を浮かせ、何とか立ち上がると、
「ルティアさんじゃなくて……僕を見ろよッ!」
全身に血を滲ませながらも、強く声を上げ走り、デーモンへと短剣を突き出す。
しかし、やはり先程と同様に、簡単にいなされてしまった。
地を転がり、うつ伏せで止まる。
身体中を先程よりも強力な痛みが襲う。
もう動くのはやめた方が良いと、身体が警笛を鳴らしているようだ。
しかし、この時のルトは身体の痛みにはあまり意識が向いておらず、代わりに、心の痛みを強く感じていた。
何故……神は、友人を救う事さえ許してくれないのか。
己の無力を恥じ、思わずそんな事を考えてしまう。
身体に力を入れる。しかし今度こそは殆ど動かず、手を伸ばすのが精一杯だ。
痛い、怖い、不甲斐ない。情けない。
負の感情が、壊れた蛇口から水が漏れるように、少しずつ溢れてくる。
が、そんなルトの事など御構い無しとでも言うように、尚もデーモンはルティアの頭上に立つと、黒球をより強大なものへと変えていく。
「……や……めろ!」
手を伸ばし、声を捻り出す。
しかし、デーモンはもはやルトに目を向ける事はなく、ただルティアだけを目に入れながら、彼女を屠る事だけ考えている。
──無力だった。
やはり、『無能』なのかもしれない。
ルティアの忠告を無視し、デーモンへと飛び込み、当然のようにボロボロに痛めつけられる。
──そして、このザマだ。
最早立ち上がる事すら不可能で、目の前で友が殺されていく様を見ている事しかできない。
思えば──昔からそうだった。
力が無いと嗤われ、いじめられていた。
しかし、そんな現状を変えようともせず、仕方がないものだと思っていた。
そんな時に、憧れの少女、リアリナが現れ、自身を救ってくれた。
その後、リアリナとよく遊ぶようになり、いじめはいつのまにか無くなった。
助かったと、ホッとした事は今でも忘れない。
──そう、いつもそうだった。
訪れる幸運に身を任せ、自分で行動しようとしない。
奇跡を望む事すらせず、ただ何か救いが勝手に来ることを待って──
と、ここで。
突然とある記憶が思い起こされた。
それは憧れの少女との何気ない会話で──
「ねぇ、ルト。……ルトは神様っていると思う?」
昼下がり、いつもの様に高い丘の上で並んで座る2人。その内の1人、リアリナが横へと目をやりながら口を開く。
「急にどうしたの? リアちゃん」
「別にどうもしないよ。ただちょっと気になっただけ」
特に質問に理由はない様だ。だからというわけではないが、ルトはどこか軽い気持ちでうーんと考えると、
「……うーん。神様かぁ。……僕はいないとおもうよ。だって神様なんていたらさ、僕みたいな奴が生まれる事は無かったはずだもん」
何度目かわからない文句を口にする。
対して、リアリナは目を伏せると、どこか優しい口調で、
「そっか。……私はね、いると思うよ。こことは違う世界で、この世の全てを見守っている神様が」
「……えー、そんなの現実的じゃないよ!」
「かもしれない。……でもさ、居たら面白いと思わない?」
「それは……まぁ……」
曖昧な返事で返す。
そんなルトに、リアリナは一拍開けると、小さく口を開いた。
「それに……さっきルトが言ってた事はちょっと違うと思う」
「…………?」
首を傾げるルト。そんな彼の横で、リアリナはバッと立ち上がると、ルトの前に立ち、
「神様が存在しないから、ルトが生まれたんじゃない。神様が存在するから、ルトは生まれて……こうして今私の前に居てくれてるんだよ」
言って太陽の様な笑みを浮かべた。
「…………っ!」
──何故、そのワンシーンを思い出したのかはわからない。他愛もない、幼馴染とのやりとりであり、現状と何の関わりもない出来事だ。
しかし、この時ルトの脳内には、とある超常の存在が浮かんでいた。
顔も、性格も何もわからない。そもそも存在するのかすらわからない、お伽話の中だけに住んでいるような、とある超常の存在が。
と。不意にルトの口から小さく、消え去りそうな程弱々しい声が発せられた。
「…………もしも存在すると言うのなら──神様……お願いします。……僕に、ルティアさんを、皆を救えるだけの力を下さい……」
地に倒れ伏しながら、情けないと思いながらも、必死に頼む。
ルト1人の力では、これ以上は戦えないから、戦った所で向こうが本気を出せば、すぐにでも殺されてしまうから。
……現状では友の1人すら救えないから。
「神様じゃなくても良いです……天使でも、悪魔でも、死神でも良いです……僕がこの世に生まれた意味が、今ここに存在している意味があると言うのならば……今だけでも良い。友人を……みんなを! 救えるだけの何かをください!」
奇跡を望まず、自分で何とかできるならやっている。
しかし、まず間違いなく、ルトのみの力で全員を救う事など不可能だろう。
──ならば、望むしかない。
奇跡を待つのではなく、奇跡を自ら呼び寄せるしかないのだ。
「もしも、救えるのならば、僕はどうなっても良い。……だから──ッ」
必死の叫び。自らを犠牲にしてでも、周りを救いたいという、その悲痛な声に。
しかし……神も、天使すらも手を伸ばす事はなく。
非情にもデーモンの攻撃が放たれ、ルティアにぶつかろうとし──
瞬間、音が、色が消え──世界が停止した。
「…………え?」
呆然と顔を動かす。すると、突然声が聞こえてきた。
『力を望むか』
同時に、ソレが姿を現す。
「あ、貴方は──」
地に伏しながらソレを見上げ、呟くように声を上げる。
身体を襲う、畏怖の感情を必死に抑えながら。
と、ソレは黒いローブの奥で、骸骨のような顔を覗かせると、
『なんて事はない。世間一般で言われている霊者のうちの1人だ』
「えっ、霊者って──」
霊者と言えば、纏術師が生まれた時から体内に有している力、その固有の名である。
少なくとも、個別で存在しているものではない。
『ふっ。その反応もわからなくはない。何故ならお主ら人間は我らについて、殆ど理解していないからな』
確かにそうなのかもしれない。纏術論の講義を受けていても、纏術師の歴史や、力の使用についての話ばかりで、霊者という存在について語られた事は一度としてなかった。
だからこそ、ルトも目を見開いたのだ。
と、ここで。ルトはハッとした表情を浮かべると、慌てた様に声を出す。
「……そうだ! ルティアさんは!?」
『……まだ生きている。ここはお主の精神世界の様なものだ。時間の経過は無い』
「まだって事は──」
『この精神世界から戻れば、数秒もかからず、黒球にやられ消滅するだろうな』
「そ、そんなッ──」
絶望に満ちた表情を浮かべるルト。
そんなルトの前で、ソレは一拍置くと、
『──我と契約をしなかったら……な』
「……そ、それって──」
『我と契約してみる気は無いか──?』
「契約……」
『お主らの世界では、霊者と契約した者の事を纏術師と呼んでいる。つまりは──纏術師になってみる気はないか……? という事だ』
「……纏術師に……なる?」
『そうだ。お主にとって悪い提案ではないだろう?』
確かにそうだ。
どこか怪しい存在ではあるが、提案自体は決して悪いものではない。
ルトは一拍置くと、恐る恐るといった様相で口を開く。
「何で……僕に手を貸してくれるんですか」
『お主の声が聞こえたから。それだけだ』
「……貴方にメリットは?」
『ただの気まぐれだ。メリットどうこうは考えていない』
「……なら。契約した事で何か代償を払う必要は……ありますか?」
『──ないと言えば嘘になる。……しかし大した事はない。ただ、戦闘終了後、今の純真無垢なお主は完全に消え去り、冷酷無比なお主へと生まれ変わるだけだ』
「──ッ!」
『それでも──お主は力を望むか……?』
ルトは口を噤み、そして考える。
もしこの提案を受け入れたら、もしかしたらこの先に自身を待っているのは、絶望かもしれない。
しかし、今この瞬間だけは、この霊者だけが希望だ。
おそらくここで決断しなければ、纏めて死ぬだけ。なら選択肢は1つしかない。
それに──友を見捨てる事なんてルトにはできなかった。
一拍開け、ルトは決意の表情を浮かべると、はっきりとした声色で、
「……望むよ」
『ふっ、そうか。……1つ言っておこう。我と契約した所で、現状のお主ではあのデーモンには勝てぬだろうな』
「そんな!」
『しかし、それはあくまでも我の力をお主が使った場合だ。──我の力を我が使った場合……ではない』
一拍開け、ソレは声を発する。
『30秒だ』
「…………え?」
『30秒耐え抜け。そうすれば我がお主に勝利を与えよう』
「……耐え抜くって、何に……!」
『……時期にわかるさ。我と契約すればな』
警笛が鳴る。やめた方が良い、すぐに逃げるべきだと身体が音を鳴らしている。
しかし、ルトはそれを無視すると、はっきりとした声音で、
「……契約するよ。……それでみんなを救えるのならば」
学園で初めて友人となってくれたアロン、強者でありながら、決して驕らず対等に接してくれた、ルティア。
灰色の日常を虹色に変えてくれた2人の親友。
もし自身の全てと2人を天秤にかけたならば、間違いなく2人の方へ傾く事であろう。
ならば、どうしてこの提案を断る事が出来ようか。
ルトの決意と共に発せられた言葉に、霊者を名乗るソレは、どこか喜色の混じった、しかし不気味な声色でもって声を発する。
『──契約成立だ。あのデーモンに恐怖を植え付け、幽冥の地へと送ってやろうではないか。……さあ、唱えろ。我が名は──』
「──
瞬間、周囲の地面から大量の黒い靄が現れたかと思うと、突然ルトを覆った。
同時に靄はゆっくりと渦を巻いていく。
「……ルト…………さん?」
ルティアが、倒れ伏しながら彼の名を呼ぶ。
その瞳に、驚嘆と少しばかりの畏怖の感情を映しながら。
そんなルティアの頭上で、デーモンはピクリと反応を示すと、ルティアに放つ予定であった黒球をルトの方へと放った。
しかし、その黒球も渦へと飲み込まれると、跡形もなく消滅する。
「…………ッ!?」
デーモンがどこか驚いた様な表情を浮かべ、同時にその場を飛び出すと、ルトへと攻撃を仕掛けた。
ルティアよりもルトの方が危険だと判断しての攻撃だろう。
しかし、その攻撃も全て渦へと飲み込まれると、跡形もなく消滅してしまった。
と。次第に黒渦が晴れていく。
そして、遂にパッと靄が霧散すると──そこには黒いボロボロのローブのようなものを身につけたルトの姿があった。
フードの隙間から、白髪が覗き、紅眼が怪しく光る。
「…………ガァァァァ!」
デーモンが声を上げ、どこか焦ったようにルトへと迫る。
対してルトは静かに右手をゆっくりと横に広げた。
すると、徐々に闇が集まっていき、形を作っていく。
そして遂に、ソレは全体が黒く染まった無機質な大鎌へと変化した。
デーモンが鋭い鉤爪に魔力を纏わせ、ルトへ切り掛かる。
しかしルトは軽く大鎌を上げ、ぶつける事でそれを防いだ。
「…………ガッ!?」
デーモンが気色悪い声と共に、後方へ弾かれる。その視線には警戒の色がありありと見て取れる。
と、ここで初めてルトが口を開いた。
『さて、では始めるとしようか』
その声は、ルトと低い男の声が混じった何とも不気味なもので──
呆然と目にするルティアは、声を出すことすらできなかった。
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