第29話:夏の夜の怖い話

 夏。生暖かい風の吹く夜。となればあとは”怖い話”をするしかないだろう。


 昆虫採集と怖い話、一見何の関係もなさそうなこの二つだけれど、実は採集中に不思議な体験をした、という人は結構いるんだ。虫屋は普通の人があまり行かない場所や素通りしてしまうような場所に行ったり、今の僕達のように人のいない時間に変な場所にいたりするからね。得体の知れないものを見ただの、ここから先に絶対入れないという感覚に陥っただのと”不思議な体験”の内容も様々だ。


「あれはいつだったかな。そうだ、大学1年生の、まだスミレと出会っていない頃のことだ――」


 大学1年生の時、僕は友人と海外へ昆虫採集に行った。行先はマレーシア。東南アジアではベトナムやインドネシアと並んで昆虫採集に行く日本人が多い国だ。

 初めての熱帯雨林、ドキドキが止まらない僕達は、空港を出るや否や、さっそく虫採りをするために山奥へと車を走らせた。幸いマレーシアは日本と同じく左走行右ハンドルなので、運転に支障はなかった。日本と違うのは、法定速度が日本の倍くらいあることかな。特に高速道路。


「つまりその速すぎる法定速度すら守らない現地の車に衝突されそうになったという話ね?」

「確かに運転の荒い車にぶつかられそうになったりもしたけど、そうじゃないんだ」


 そもそも追い越し車線に入ることすら恐ろしい感じだったので、慣れるまではずっと走行車線に留まり続けていたからね。それでも十分命の危険は感じたけど……。だって、スリップして路肩に突っ込み炎上したであろう車の残骸のようなものが転がっているのを見てしまったから。


 まあでも、今回の怖い話はそういうことじゃない。高速を降り、ハイウェイのような道路に入る。高野龍神スカイラインというよりはやまなみハイウェイを少し広くしたような道路で、当然のごとく法定速度は80kmだかそのくらいだったけれど(ちなみに高速道路は140km制限くらいだったから妥当ではある)。

 しばらく山の中の暗闇を運転していると、急に目の前が明るくなり、慌ててブレーキを踏んだ。なんだなんだ、と辺りをキョロキョロしていると、唐突に窓ガラスが叩かれた。


「そこで現地の警察に銃を突き付けられたのね?」

「いや、今回はそうじゃないんだ」


 確かにその明かりは軍の検問で、みんなライフルを担いでいたけれど、パスポートと国際免許を見せれば簡単に通してもらえる穏やかなものだった(とはいえすこしドキッとしたけど)。これが他の国だと山賊や軍にすら追剥に会うこともあるっていうから恐ろしい。


 そんなこんなで、目星をつけていた採集地に着いた時にはもう日も暮れかけていた。僕達は予定通り、荷物から灯火採集用のライトや白布といった道具一式を取りだした。


「するとそこには充電されていない電池が入っていたのね?」

「たまーにそういうことやっちゃうけど、今回は違うんだ。……というかさっきからどうしたんだいスミレ」

「どうもしないわ。どうぞ続けて」


 釈然としないけど……まあいいや。たまに電池が充電できていないことが現地についてから発覚して痛い目を見ることはあるけど、今回はばっちり充電済み。白布をはったりヘッドライトに電池をいれたり、あるいは毒ビンの用意をしたりして、日没を待った。


『点灯だー!』

『うおおおおお! テレロレッテレー!』


 念願の熱帯でのナイターに嬉しさを隠せない僕たちは、訳もわからず喜びの舞を踊ったりした。そんな舞をしたのもつかの間、点灯から30分も満たないうちから見たこともない虫が次々飛来し、僕たちのテンションはうなぎのぼりだった。


「そのテンションが最高潮の時にヤミスズメに刺されて激萎えしたのね……可哀想……」

「刺されるのはあと2日後だね……」


 これが痛いんだよ……って話は随分前にしたっけ? でも、今回の話はたかが”ヤミスズメバチに刺された”程度の話ではないんだ。あ、もちろんヤミスズメも十分危険な生物であることはことわっておくね。

 ともかく、ナイターに飛来する見たこともない虫に夢中になっていた僕たちは、迫り来る危機に気がついていなかったんだ。日本に住んでいたら絶対に想像できない、命にかかわる危機ってやつを。


 飛来する虫の波が一度落ち着いたので、僕たちは今日のように夜見廻り採集を始めた。200mm以上あるめちゃくちゃデカいナナフシに驚いたり、ギガスオオアリの行列を踏み抜きかけて慌てて足を引っ込めたりした。

 そうやって地面や周りの低木なんかを見回して歩いていた時の事だった。


『おい、ケイ……』

『どうしたの?』


 隣を歩いていた友達がふと足を止め、僕の肩を叩く。僕が振り向くと、彼の頭のヘッドライトが僕の目を焼く。


『眩しっ……何?』


 彼の顔はヘッドライトの明かりでよく見えない。目を細めて見ると、彼は目の前の暗闇を指さしていた。僕はその指の、あるいはヘッドライトの光道の先を見やった。



 僕達の視線よりも高い位置に浮かぶ、二つの赤い点。



((ゾウだー!!!))



 僕達は驚きのあまり声も上げられず、しかし示し合わせたようにくるりと振り返り、一目散に車まで退散した。灯火セットや網なんかも放り出したまま車の中へ飛び込む。

 幸いゾウは怒り狂ってつっこんできたりはしなかった。けれど、何に興味を持ったのか僕達のあとをついてきた挙句、車のまわりをくるくる回りだした。動物園やサーカスで人に慣らされたゾウではない。正真正銘、野生のゾウだ。どういう行動に出るかなんてわかりっこない。それに、僕らの前に檻や柵はなく、ただの薄い合金の板があるだけなのだ。流石にこの時ばかりは祈りかけた。


 5分くらいか、それとも1時間くらいだったのか、恐怖でガタガタ震えながら車内に引きこもっていると、いつの間にかゾウはいなくなっていた。

 ――しかし、車を出て周りを見渡すと、おびただしい数のゾウの足跡がしっかりと残されていたのだった。



「とまあ、とっさに思いついた怖い話はこんなところかな。どうだった?」

「まあ、なかなか恐ろしい話だったわね。でも”怖い話”という感じではなかったかしら」


 といいつつ、やけにホッとした顔をしているスミレ。ふーん。


「……それより、さっきからあなたの後ろに、その、何か白い影みたいなのが見えるのだけれど」

「スミレ、ごまかすにしてはあまりにも安直な――」


 やれやれと思いつつ振り向くとそこには真っ白に光った、


「ばぁ」


「うわああぁぁああっあ痛っ!?」


 驚きのあまりひっくり返って地面に頭を打つ僕。目の前ではヘッドライトをひらひらさせながらげらげら笑う人影が。


「ちょ、心臓止まるかと思ったじゃないか、マユさん!」

「いやぁ、まさかこんなのに引っかかるだなんて思ってもみなかったけん、こっちのほうがびっくりしたよ!」


 とか言いながらまだ笑い転げてるんだけど。


「というかマユさんはどうしてこんなところにいるのさ!」

「そりゃここはあたしも良く来るところだし、そこのスミレ氏が『今日はここでナイターする予定』って教えてくれたけんね」

「ハメたね、スミレっ」

「え、ええ……」


 なんだか歯切れが悪い。僕がこんなに驚くと思っていなくて悪いことをしたとでも思っているのだろうか。


「それより、面白い話をしてるじゃない。でも、虫屋にとっての”怖い話”って、そういうやつばっかりじゃないでしょ」

「というと?」

「しょーがない。あたしがつい最近経験した怖い話、してあげようじゃないの」

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