第26話:夏のむしとり指南(昼の部)
夏、それは虫採りの季節。
――ただし、僕らの活動限界を越えない場合に限る。
*
「……」
「……」
「暑いわね……」
「暑いねぇ……」
この一週間、僕とスミレはずっとこの調子だ。ちょっと前から冷房の調子も悪くて、設定温度20℃にしているのに全然部屋が冷えない。暑さですっかりまいってしまって、ずっと家でぐったりしている。あ、ちゃんと仕事はしているけどね。
「むしとり少年は元気だねー」
虫あみを持った近所の子供が家の外をかけていく。それを横目で見ながらスミレが机に突っ伏す。
「こんなクソ暑い中虫採りなんか行く気にならないわ」
「スミレ、暑さで言葉乱れてるよ」
「ん……」
スミレの口に棒アイスを放り込む。スミレは寒さは大丈夫なのだけど、特に都会の暑さにはめっぽう弱い。
「まあこの時期、セミくらいしかいないよね」
「山にいけば何かいるのかもしれないけれど……山に行くまでが暑いわ」
アイスをゴリゴリかじりながらも、スミレは完全にへばっている。うーん、どうしたものか……。
「僕さ、ネタ探しにいかなきゃいけないんだけど」
「………………」
「オオムラサキとか見に行こうかなと思って」
「………………」
なるほど、オオムラサキは少し興味がある、と。
「お昼は山の上のレストランでランチとか」
「………………」
あー、採集の格好でお洒落なレストランは入りにくいかな。
「マユさんでも誘おうかなー」
「………………」
無言で立ち上がるスミレ。そのまま洗面所へ行き、しばらくして今度は寝室へ入り、出てきたときにはばっちり出撃用意ができていた。
「行くわよ、ケイ」
「はーい」
*
「そもそも、夏休みという時期は採集に向いていないわ」
「そうだねぇ」
虫といえば夏、むしとりといえば夏。夏休みには虫あみもって、野山を走り回る。これが世間一般のイメージだろう。
だけど、実際夏休み――特に8月は虫採りをするのが結構難しい。これはひとえにに暑すぎるからだ。虫だって暑さは苦手なので、お昼をまわると活動が鈍る。この暑さで活動できるのはセミくらいのものだ。
「それも僕達の子供のころの話になっちゃうのかなぁ」
「最近はセミですら暑すぎて鳴かないものね」
僕が小学生くらいの時は、朝セミが鳴きだすと同時に家を出て虫採りをし、一番暑い正午から14時くらいの間だけ家で休憩して、またセミが鳴きだすころに再び外へ出て日が暮れるまで虫を採っていたものなんだけどな……。僕らの子供のころといってもせいぜい10年15年前程度のものだけど、それでも明らかに夏は暑くなっている。
「今年は特にひどいよね。35℃越えた時なんかはセミも一瞬しか鳴いてなかったもん」
「生き物の生きられる温度じゃないわ……」
こんな暑い夏は、街中で虫を探すのは大変だ。虫も暑くてへばっているし、僕ら自身も暑くてくたばってしまう。
「というわけで、今日は少し山手の方へ来ました」
「ここまで来ればまだ涼しいわね。標高は低くても暑さは何とか大丈夫そう」
暑いときは山へ行こう。夏休みの虫採りはやっぱり山だよね。
「それで、ケイ。今日の狙いは?」
「さっきも言ったオオムラサキとか、樹液に来る虫を狙おうかな」
花は暑すぎたり乾燥でしおれていたり、蜜の出が悪かったりすることが時々ある。でも樹液は僕らを裏切らない。
題にも指南と書いてしまったので、少しそれっぽいことでも書いてみよう。
樹液採集をするなら、まず樹液を出す樹木の生えている森に行かなきゃいけない。樹液の出る木はクヌギやコナラといったコナラ属の木がおすすめ。簡単にいうとどんぐりの木だ。これは有名だね。
山の中へ入ったら、使うのは視覚じゃなくて嗅覚。歩きながら樹液のにおいを探すんだ。腐りかけの果実のような少し鼻をつく甘いにおいがしたら、それが樹液のにおいだ。
「こっちの方から樹液のにおいがするわ」
「えっ、わからない」
「こっちよ」
さすがスミレ。鋭い嗅覚だ。
スミレに先導されて歩いていくと、確かに樹液のにおいが濃くなっていく。
「このあたりだと思うのだけれど」
「うーん……あ、あそこ樹液出てるね」
一本のクヌギの胸高あたりが鈍く光っていて、その周りをハエが飛び回っているのが見えた。
「めぼしいものは何も来ていないようね」
「はずれかな」
樹液が出ていたとしても虫がいるとは限らない。こういう時は――。
「ケイ、何をしているの?」
「座標データを落としているんだ」
「そういうことね」
樹液の出る木の座標を地図アプリに落としておく。最近は携帯で簡単に座標を落とせるから便利だよね。こうしておくと後で楽なんだ。
次の樹液の出ている木を見つけた。今度は色々と虫がついている。
「カナブンが多いわね。私の家の裏山にもたくさんいたわ」
「樹液の常連さんだよね」
樹液にカナブンが5、6匹集まっている。樹液で一番よく見る虫だ。ちなみに本土のカナブンは3種類。緑っぽいものから茶色っぽいものまで色彩に変異があるカナブンPseudotorynorrhina japonica、より鮮やかな緑色のアオカナブンP. unicolor、真っ黒なクロカナブンP. politaがいる。今回はカナブンのみだった。
「カナブンってゴミのようにいるから雑魚という感じがするけれど、よく見ると大きいし色も綺麗よね」
「それほめてるんだよね?」
暑さによるスミレの言葉の乱れは、山に入る程度では収まらなかったらしい。
「あ! スミレ、スズメバチ!」
「大丈夫」
樹液に飛来したスズメバチをパァン! とネットインするスミレ。さすがスミレ、まったく動じない。
「あら、これモンスズメバチじゃない」
「お、いいね」
樹液に来るスズメバチにもいくつか種類がある。多いのはオオスズメバチVespa mandaliniaやコガタスズメバチV. analisだけど、他にもヒメスズメバチV. ducalisやモンスズメバチV. crabroなどがいる。今採れたモンスズメバチは、スズメバチの中でもすこし少ないほうかな。
ちなみにすごくざっくりとした見分け方だけど、腹端が黒いのがヒメ、腹部の模様が波打っているのがモン、大きいのがオオ、少し小さいのがコガタ。
「そろそろチョウも見たいわね」
「そうだね……。あ、噂をすれば」
今度の樹液にはチョウが来ていた。でも残念ながらオオムラサキじゃない。
「スミナガシ、渋くて美麗なチョウだよね」
樹液に来るのはタテハチョウの仲間。よく見かけるのはルリタテハKaniska canaceやヒカゲチョウLethe sicelis、スミナガシDichorragia nesimachusなど。スミナガシは漢字で「墨流し」と書くのだけど、その字の通り墨を流したような美しい模様をしている。色彩も黒の中に青緑色を帯びていて綺麗だ。
「私、スミナガシこそが一番日本のチョウらしいと思うわ」
「まあ東南アジアに広く分布しているけれどね」
「……ケイってたまにそういうところあるわよね」
「え、あ、ごめん……」
しまった。ここは素直にうなずくところだった……。
挽回するためにも、なんとしてもオオムラサキを見つけなくては。スミレに負けじと僕も嗅覚を研ぎ澄ませる。
「森の中で何かのにおいを嗅ぎ続ける成人男女って、おかしな目で見られそうよね」
「補虫網を持っている時点でお察しだと思うけどね」
むしろスミレがいる分怪しさが和らいでいるかもしれないけれど。
「いないものね」
「うーん……」
カナブンやスズメバチ、ヒカゲチョウなどばかりで、本命のオオムラサキにはなかなか出会えない。この辺では有名な産地なのだけど、最近は減っちゃったのかな……。
「そろそろ暑くなってきたね……」
「……」
さすがスミレ。ここまで来たのだからその姿を見るまで絶対止まらないという強い意志を感じる。こうなれば僕も覚悟を決めよう。お昼ご飯はオオムラサキを見るまで食べられないという覚悟を。
「とはいえ、そろそろ休憩しないと……」
「大丈夫よ、ケイ。次の樹液ではきっと出会える」
こういう時のスミレの勘は、外れたためしがない。
「――ほらね」
「さすがスミレ」
雑木林の宝石。オスは青紫色に輝き、気品あふれる姿をしている。その堂々とした飛翔は見る者の眼をくぎ付けにする。日本の国蝶。彼のチョウは、確かにそこにいた。
「オオムラサキだ」
「ええ」
美しい。なんと美しいのだろう。生きたこの虫を見ることができただけで、今までの疲れとか最近の悩み事とか、全部吹き飛んでしまった。
「やっぱりこのチョウは格別ね。これが国蝶に選ばれたのも当然かもしれないわね。分かりやすく美しいもの」
少し残念だけれど、と付け加えるスミレ。よっぽどスミナガシを気にいっているのだろう。
「エノキが食草だったと思うけれど、どうして減少しているのかしら。エノキって結構どこにでも生えている気がするのだけれど」
「うーん、エノキ自身はあったとしても、やっぱりその雑木林の管理が不足して環境が荒れてしまうといなくなっちゃうんじゃないかなぁ。適度に管理されている雑木林がある程度まとまった範囲にないとダメなんだと思うよ」
「でも、コムラサキは河川敷の数本のヤナギとかでも発生しているじゃない?」
「言われてみれば……。あとは樹液とか?」
「これだけ樹液の出ている木があるのに?」
「そうだね……」
昆虫の増加や減少は様々な要因が複雑に関係し合った結果だから、これがダメだったと推定するのは難しい。だからこそ、できるだけ全てを保全しようというのが現在の生物多様性保全の方法なんだけど。
「でも、この森にまだオオムラサキがいることがわかってよかったよ。昔からの遊び場からなじみの顔が消えてしまうのは悲しいからさ」
「そうね……」
スミレにしては珍しく、寂しそうな表情を浮かべている。長い付き合いでも、彼女のすべての過去に触れさせてもらえているわけではない。
「――さて、当初の目標は見ることができたし、そろそろお昼にしようよ。スミレのお弁当、早く食べたいな」
「そうね。せっかくだから景色のいいところで食べましょう」
「そうしよう」
――夜の部へ続く
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