第37話:明日から山
「明日から山なんだよね」
朝の挨拶を交わしたあと、昼食をとりながら、帰宅前の雑談。そんな日常の会話の中で、あなたの同僚や友人からこのセリフを聞いたとき、あなたはどのような受け取り方をするだろうか。
その同僚が死んだ目をしていれば「かわいそうに、明日から仕事が忙しくて休む暇もないんだろうな」と思うだろう。目が異常に爛々としていれば「かわいそうに、明日も仕事が忙しくて休む暇もないんだろうな」と思うだろう。要するに、明日から仕事が山場でとても大変だ、という風に受け取るのが普通である。
普通であるというのは普通でない話をする前振りである。当然僕はふつうでない側の人間なので、浮き立つ心を隠し切れない様子のマユさんにこう問いかけた。
「どこに行くの?」
「脊梁山地から高原」
「何狙い?」
「基本キバガ狙いだけどワンチャン変なやついないかなって感じ。ヒゲナガのいいのとかいるんだよね」
「いいね。ピドニアいたら採っといてほしいな」
「おっけー」
これが僕たちにとっての普通の会話。僕たちの「明日から山なんだよね」というセリフは読んで字のごとく「明日から山へ行くんだよね」という意味になる。僕たちといっても別に虫屋に限らなくて、野外研究をしている人たちはだいたい「明日山」「明日川」「明日海」という。「明日現場」という人もいるけど、これはどちらかというと林学の人に多いかな。
それはともかく、そっか、マユさんは明日から山に行くのか。
「僕もどこか行きたいな。最近あまりフィールドに出れてないし」
「ミスターケイの最近の狙いは何なの?」
「相変わらず小さい甲虫を集めてるよ。最近は
「あー落ち葉篩いねぇ。アレ、あたしはあんまり虫採ってる気がせんけんちょっとね……」
とかいう話をしていると、ふらりと現れた影が一人。スミレだった。
「私も明日から山よ」
「えっ、スミレそれ聞いてないよ」
「……いうの忘れていたわ」
僕とスミレは普段から予定を共有しているんだけど、最近のスミレは研究が忙しかったり急に予定が入ったりで、彼女自身も彼女の予定を把握しきれていないくらいだ。
「最近忙しいからね。ところでどこに行くの?」
「今回は熊本。春の調査の続きね」
「熊本か……。一週間くらいかい?」
「いえ、2泊の予定よ」
山に行くというときは、たいてい3日から一週間くらいのものだけど、今回のスミレの旅程は短めのようだ。
「ふむ……ところで、調査に手伝いは必要かい?」
「それはもちろん、いてくれるとありがたいわね」
というわけで、明日からの予定が決定した。
*
野外で研究している人たちのことをフィールド屋と呼ぶが、彼らはしばしば前日に調査の予定を決める。例えば降雨というイベントの前後での比較研究をしている場合、天気予報で明後日が雨っぽいとわかれば明日調査をいれる、とか。趣味のむしとりならもっと雑で、朝起きたら天気がよかったからフィールドに出るなんてこともざらだ。
加えて、研究室生活をしていると、ゼミなどの予定が入っていないときは多少日程に融通が利くので、こんな風に唐突に予定を決められる。
「最近、2週間に1回くらい調査に行ってるけど、大丈夫?」
「ええ、まあ……。どうしても上半期の調査不足が祟っているのよ」
「今年は色々あったから仕方がないけど、体は壊さないようにね」
「そうね……。といっても、サンプルの処理の時間を考えるとあまり休んでもいられないのよ」
スミレの研究はフィールドから帰ったあとの仕事も多いので、サンプルを集めつつその処理も行わなければいけないところが大変だ。といっても僕も佃煮のようになった虫のサンプルの中から必要な虫を抜き出さなければならないので、大変といえば大変だけど。
今回はスミレの手伝いで来ているけど、ついでだし僕の仕事も済ませることにしている。決まった調査地点を持たない僕にとっては、こうして人の調査の手伝いをしつつ気楽に自分の調査もできるからいい。
「荷物はもう積んであるから」
ジムニーのトランクにはすでに調査道具が積み込まれていた。こういうのの手伝いも言ってくれたらするのに。ああ、でも最近ずっと調査続きだったし、積みっぱなしの可能性が高いのか。
ちなみにジムニーはスミレの私物。そしてこのお嬢様は自分でこの車を乗り回す。
「一応これでも山育ちなのだけれど。田舎で車を運転できないとなにもできないわよ」
土地面積が大きいだけで私はお嬢様ではない、とはスミレの言である。だからってジムニーはちょっといかついと思うんだけど。確かに林道の走破性は高いけどさ。
さて、高速道路と山道を往くこと数時間、ようやく調査地に到着。途中北熊本サービスエリアで休憩がてらいきなり団子を食べたり、あまりにも気になった林に突撃したりしたけど、通常運転なので問題なし。
「今日の仕事は?」
「リターと土壌のサンプリング。土壌は腐食と鉱質にわけて行うわ。鉱質土壌は5cmね。あとは含水率測定と、土壌動物のコアサンプリング。あ、CN測定用の土壌サンプルも必要だったわ。植生はもうデータがあるから、同定しなくても大丈夫」
「相変わらず測定項目が多いんだね……」
「そして、これを20プロット繰り返すのよね」
「相変わらず測定プロットも多いんだね……」
近年の論文のトレンドとしては、たとえフィールド研究であっても繰り返しのない研究は研究ではない。いかに調査地へ行くのが大変だったり、サンプリング項目が多かったとしても、そういった裏の努力は得てして評価されないものである。
「慣れるとそれほど多くないけれどね。むしろラボでの作業量の方が多いから」
ざっくざっくとスコップで土壌を採取していたスミレは、ふと我に返ったように顔をあげた。その目は虚空を見つめていた。
「――そうなのよね。今こうして頑張れば頑張るほど、未来の自分の首を絞めていることになるのよね……。どうしてこんな調査をしているのかしら私……」
「ぼ、僕も手伝うから頑張ろう……」
普通こういったサンプリングは、調査地を共有して複数人で行うことが多い。けれど、スミレのラボは良くも悪くも個人主義なので、ラボメンはてんでバラバラに調査しているらしい。もちろん調査地や時期が重なれば共同で調査するのだろうけど。まあ、だからこそこうして思い立ったときに調査できるという利点もあるのかな。
「一地点の調査が一日で済むのがせめてもの救いかしらね」
「定点観測だと毎月とか毎週とか通わないといけないから、それに比べてたらマシ……なのかな?」
定点観測は楽しいこともあるんだけど、そのうち飽きるタイミングがくるんだよね~。僕も昆虫の定点観測をやったことがあるけど、同じ虫ばっかり採れたり、季節の変わり目で数が少なかったりすると、なんとなく面倒になってくる。特に一人でやっているとね。
そうだ、一人だと面倒といえば。
「このサンプル、かなりの量だけどいつもどう持って帰ってるの?」
「え、普通に担いで帰るけれど」
「……今度から調査の時は、必ず僕も呼んでね。できるかぎり手伝うから」
山盛りの土壌サンプルを前にして、さすがに彼女の体が心配になる僕であった。というか、全然普通じゃないよ。重いよこれ。僕の彼女タフすぎでは?
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