第31話:網を振るよろこび
最近、虫採りができていない。
これは切実な問題だ。虫採りをしないと虫採りはできないし、虫採りをしないと虫は採れない。
「なにいってるのよあなた」
「わからないか、スミレ?」
いいか、虫採りをしないと虫採りはできないんだよ。
「わかる、わかるよスガルン。虫採りしないと虫は採れないんだよね」
「なんでわかるのよ……」
私たち虫屋にとって、虫採りというのは生きがいであり、ぶっちゃけ虫採りしないと死ぬ。虫採りは呼吸みたいなものだ。しかし、呼吸は無意識にできるが、虫採りは意識的にしないとできにあ。虫採りというのは、虫採りをしようと思って虫採りに行き、虫を採らないとできないことなんだ。
「でもあなた、何度も調査に出かけていたじゃない。あれが採れたこれが採れたって言っていなかったかしら」
「調査採集と虫採りは違うんだよ! それにあれは修行だ修行」
確かにスミレの言うとおりだ。私はこの一年で三回ほど調査遠征にでかけ、数百種の虫を採集した。だが、それはあくまで調査のための採集だ。しかも、今回の調査は定量的に行うためイエローパントラップというものを用いた。
イエローパントラップは、虫が黄色によくひきつけられるという性質を利用したものである。黄色い皿に界面活性剤を混ぜた水を張り、地面に置いておく。すると、黄色に引き寄せられた虫が皿に飛び込んで来るので、虫が採れるというトラップだ。このトラップでは、主にハチやハエが採集できるが、地表付近を飛び回る甲虫やバッタ、クモなども一緒に採れることが多い。
これだけ聞くと「置いておくだけで虫が採れるなんて楽なトラップだなぁ」と感じるが、ネックなのは大量の水が必要だということだ。20枚のお皿を仕掛けるのに1.5リットルほど必要とする。なので、車で水を運んで、降りてすぐの林道脇きなどに設置するのが賢い、というか普通のやり方である。
だが私は今回の調査で、15リットルの水を担いでほとんど整備されていない山道を登り、200枚ほどの黄色い皿を置いて回ったのだ。調査地は車で横付けすることはできないような山奥であったため仕方なかったのだが、それでも今回の調査は自分でもアホかと思った。(さらに輪をかけてアホなのが、初回の調査では水に加えて網も持参した。さすがにキツイと悟り二回目からはやめたが……。)
「トラップはその場で何を採ったかじっくり見ないし、そんな時間も余裕もなかったからな。私の今年の採集はほとんど研究室の顕微鏡の前で終わったようなものだ」
「でもいい虫は採れていたのでしょう?」
「……それはそうだが」
九州未記録とかオス未記録とか未記載種とかいたけどな(まあ未記載種はいくらでもいるか)。確かにめちゃくちゃ珍しいハチが採れてて、顕微鏡の前でひっくり返りかけたことはあったが……。
「つまりスガルンはこういいたいんだよ。研究や調査の採集と、趣味の虫採りは別物だって。調査は許可とったり色々気を使うこともあるから、趣味の虫採りのように気楽にはできないもんね」
「ふうん……そういうものなの」
スミレは濃い虫屋ではないからあまりピンと来ないのかもしれない。まあ私もマユやメグリとかに比べればあまり濃いとは言い難いが。ちなみに濃い虫屋というのは、虫が好きで好きで仕方がなくて、人生虫を中心に回っているような、良くも悪くも虫狂いのことを言う、と私は思っている。
「確かにそういうこともある。だが私の場合は、やはり網を振らんと虫採りをした気にならないんだよ」
*
ここからが今回の本題である。
”むしとり”と聞いて、一番に思いつくイメージが虫あみを持ってチョウやセミを追いかける様子だろう。だが、ライトを焚いたり、朽木を割ったり、トラップを仕掛けたりと、昆虫採集には様々な方法がある。網を振っているだけでは採れない虫も多いし、もはや採集に網を持って行かないという場合もかなりある。
しかし、やはり私は網を振る採集が一番楽しいと思うのだ。なので、今回は網を振る採集――ネット採集のどこが楽しいのかという話をしたいと思う。
まず第一に、ネット採集は目で見つけた虫を採ることが多いというのがある。空を飛んでいる虫、花に集まっている虫、木にとまっている虫――こういった虫をまず目で見つけて、それから網で捕獲する。つまり、自分の採る虫が何か、ある程度わかった状態で採ることになる。
これは、純粋に楽しいというのもあるが、その虫がどういう場所にいたのか、どういう行動をしていたのかというのがわかる楽しみがある。アブラナの花に色々なハチが集まっているのに集まっていて、隣のアザミにはマルハナバチしか来ていない、とか。
だが、これはほかの採集方法でもできることだ。例えば、朽木を割って『こういう乾燥した朽木を好むのか』とか。そこで、ネット採集がほかの採集と決定的に違うところを述べよう。
ネット採集の一番の魅力、それは運動量が多いところだ。
「……は?」
「運動量が多い、って……。まあ言わんとするところはわかるけどさ」
「あくまで個人的に、だがな」
マユやスミレですら怪訝な顔をするのだ。ほかの虫屋、あるいは虫屋でない人たちにとっては意味の分からない発言だろう。
最初に誤解無きよう述べておくが、私は虫を採ること自体に喜びを覚えているわけではない。例えば、バスフィッシングは大きなバスを釣り上げることが楽しいスポーツであり、そのバス自体に興味があるというわけではないだろう(多少の偏見があることは認める)。そうではなく、あくまで採った虫に興味があるのだ。
そのうえで、ネット採集にはある意味スポーツ的な側面、運動する楽しみがあると思っている。もう少し大仰に言うと、虫と私との真剣勝負がここにはある。
まず、純粋な運動量について述べていこう。当たり前だが、ネット採集はまず網を持つところから始まる。私は6.5mの長竿を愛用しており、これを持って山やら川やらに出掛ける。
これをただ持っているだけだと大した重さではないが、これを適当に伸ばして振り回すから腕が鍛えられる。山道を歩きながら地面すれすれを網で掃くように左右に振ったり、高所の花に来ている虫を採るため上へ伸ばして振り回したりするので、体幹も鍛えられる。毎週のように採集に行っていた学生時代は、半年で腕の筋肉がムッキムキ(当社比)になったこともあるほどだ。
また、私の好きな虫はハチだ。特に有剣ハチという仲間を好んで採集する。この仲間はスズメバチやミツバチなどが代表だが、この辺りの大型のハチは肉眼でも見つけやすく、たとえ振り逃がしても目で追うことができる。しかし、もう少し小さなハチは、小さいわ早いわすぐ見失うわで採るのに結構苦労する。採り逃さないためには、見失わず確実にネットインする必要がある。
スーッと飛んで行っている場合は、追いかけて行って横からかっさらうように網を振り抜く。まあ、追いつけなかったり、崖の向こうや木の上の方に飛んで行ってしまうことも多々あるが。
花などの蜜線や朽木に集まっている時、これが一番緊張が走る瞬間だ。ポイントの前で網を構えてまち、虫が来るのを待つ。この時、虫を警戒させないようにある程度素知らぬ顔をしながらもしっかりと目を凝らしていないといけない。そして虫が飛んで来たら、やはり警戒させないように、しかし飛び去ってしまう前に網を振らなければならない。この緊張感がたまらないのだ。
網を振り抜いたあとも油断してはいけない。もし振り逃していた時は、返す刀で網を振り返す。この時やみくもに振るのではなく、飛び去った虫をしっかり目で追っておくことが大切だ。
また、ネットインしていても入りが甘く逃げられてしまうこともある。そうならないように十分網を振り抜き、かつ網をひねって逃げられないようにする必要がある。
この一瞬の駆け引きに、虫と私との真剣勝負がある。
*
「――まあ、虫にとっては迷惑な話だろうがな」
「ふうん。あなたの言いたいこと、なんとなくわかったわ」
私にはない感覚だけれど、と付け加えつつも、スミレは理解を示してくれたようだ。
「あたしもゼフ採集の時とかはそういうの感じるところがあるなぁ。今までそんなに考えたことなかったけど」
常に素早い虫を追っている私だからこそ、特によく感じる感覚なのかもしれない。見つけたハチを採るには必ず網を用いないといけないからというのもある。
「虫を採るために虫採りをするのは当たり前だけれど、その虫採り自体にも楽しみを見出している、というわけね」
「ひどいエゴだと、自分でも思うけどな。でも、だからこそ手段が目的にならないようにしなければいけないと肝に銘じている。あくまで虫採りは虫を採る手段だ」
これはしっかりしておかなければいけない線引きである。それが行き過ぎたものがスポーツフィッシングや放流、放蝶といった行為であり、実際に様々な問題を生み出している。
長々と話したが、結局のところ、私は自分の眼で見つけて網で捕獲する採集をしないと、虫採りの満足感を得られないということだ。
「というわけで、マユ、スミレ。どっか虫採り行こうぜ」
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