第30話:”虫屋的”怖い話
虫屋が経験する怖い話――。確かに、ミスターケイのゾウの話はかなり恐ろしい部類に入るけど、フィールドで動物に出くわすことはそんなに珍しくないよね。その辺の裏山でも、網を振りながらぼんやり虫採りをしていたところ、目の前をイノシシの親子が駆け抜けていって肝を冷やした、なんて話はよくあるし。
最近あたしが経験したのだと、山の中を歩いていたらピューというシカの鳴き声が聞こえてきて『どこかにシカがいるなぁ』というくらいにしか考えてなかったんだけど、次第にピュー、ピューという鳴き声が四方八方から聞こえだして、いつの間にかその鳴き声が大きくなってきて『あれ、これ取り囲まれてない?』と慌てたこととかあった。
「……」
「えっ……」
「それ、大丈夫だったの……?」
「うん。まあなんだかんだシカって臆病な生き物だし」
逆にイノシシは正面切って対峙してしまうと本気で死を覚悟しかける時があるから、できれば会いたくない相手。
あっ、そういえば、もうちょっとスピリチュアルな話もあった。なんかね、山の中を山道沿いに歩いてたんだけど、突然鳥居が現れてさ。その奥になんかよくわからない社みたいなのが建ってたんだけど、その付近に転がっている倒木が気になったんだよね、夜見回り的に。でも、どう頑張ってもその鳥居より前に進めないんだよね。何か見えない壁でもあるような……、そう、これ以上は決して進んではいけないという圧力というような。よくわからない何かに足を止められているような――。
「……」
「えっ……」
「それ、大丈夫だったの……?」
「うん。まあそこから一歩も進めそうになかったから別の朽木を探したけどね」
まあでも、こんなことはたまにあるし。それにこういう話は虫屋に限らずフィールドで活動する人たちみんなに共通の話だしね。他のフィールド屋の人に聞いてみても、多かれ少なかれこういう話って出てくるんじゃないかな?
そういうことを考えると、じゃあ虫屋にとっての怖い話って何? って話なんだよね。そこで、こんな話を思いだしたんだよね――。
*
あたしはその日、確かスガルンとナイターをしていたんだよね。梅雨が明けた沖縄で、まだ誰もいない夏の空を全部二人占めしたあと、ソーキそばをすすって林道につっこんだんだっけ。
相変わらずスガルンは『ナイターに用はない。ただしハチモドキバエだけは何としても来てほしい。私はハチモドキバエさえ採集できればそれでいい』というだいぶ倒錯したお気持ちを表明していた。もちろんあたしは研究上必要なミクロレピ(小さいガ)の採集をする必要があるわけだけど、それはそれとして当然のように本土にはいない特産種も採りたい。というわけで、白布上をなめるように見回し続け、ひたすらサンプル管でガを採集するとっても楽しいお仕事を続けていたんだ。
スガルンはそれを眺めていたり、暇だからサンプル管をよこせといって勝手にミクロレピをとってはあたしの方へ投げてきたり(しかもあたしの研究対象をしっかり採っていたりするので無碍にできなくてむかつく)していたんだけど、そのうちそれにも飽きて、網を持ってどこかへ消えていった。
『ちょっと飛来も落ち着いてきたかなー』
灯火を初めて1時間ほど経ったころ、第一ピークが過ぎた感じになってきたので、少し休憩というか、気を抜いて幕を見ていた。ナイターは日没後しばらくすると飛来のピークがあって、しばらく落ち着いたのち、夜遅くになって遅れて飛んでくる大型の連中のピークが来る。この第二ピークのころにクワガタとかデカいガとかが来るから、頑張って起きていると楽しい時間帯になるね(まあスガルンはよくぐーすか寝てるけど)。
どこへ消えたのか、スガルンはさっぱり帰ってこない。いつもなら夜見回りもすぐ飽きて、またぼんやり白布を眺める簡単なお仕事に戻るはずなのに……。野犬にでも囲まれたかな。頭の片隅でちょっと心配しつつ、でも本当にやばいことになってたら連絡してくるでしょ、とも思っていた。まあたぶん大丈夫でしょ。そんなに遠くへ行くほど夜見回りに命かけてるとは思えないし。
すっかり気を抜いていたちょうどその時、
『あーっ! プロマラクティス!!!』
あたしが一番求めていたミクロレピがひっそり幕上にとまっているのを発見した。しかも見た感じでもわかるくらい既知種と違う模様をしている。交尾器を見比べてなくても未記載種(かもしれない)とわかるやつだなんて……!
『あ、ああ……あ、あ、あ……』
いつもなら適当にサンプル管とってひょいっと捕まえるんだけど、あまりの緊張にそいつから目が離せず、手探りでサンプル管を手繰り寄せ、震える手でその蓋を開けた、まさにその時のこと。
ゴツン! バタバタバタバタ!!!
突如飛来したハグルマヤママユ! 幕に激突したのち暴れ回る! 蹂躙される幕! 吹き飛ぶ小型昆虫! まさに阿鼻叫喚!
『――――――――へぁ?』
そうして、世界で(おそらく)あたししか見たことのないミクロレピは虚空へと消え去って行ったのだった……。
*
「許すまじハグルマヤママユ」
というわけで『珍品を目の前にしたにもかかわらず、何らかのアクシデントによりその珍品を採り逃してしまう』という怖い話でした。
「……」
「それは……なんというか」
「怖ろしいわ……」
「スミレ? いや怖ろしいけどさ?」
ちなみにスガルンはいい朽木を見つけたらしく、張り付いているゴミダマとかキノコムシとかを採るのに夢中になってたらしい。その帰りに道路沿いの葉の上にニジュウシトリバを発見し、あたしへ恩着せがましく渡すためにネットインしたらしいんだけど、意気揚々と帰ってきたスガルンの網の中には虚無しかなかった。
網に穴でも開いてんじゃないの? といつもなら煽るんだけど、この時ばかりは『私は確実にネットインしたんだ!』と喚き落ち込むスガルンとかどうでもよかった。
「こーいうのが虫屋の怖~いお話じゃないの?」
「うーん、まあ確かに。僕も採集したはずの虫が帰ってきて毒ビン開けたらいなくなってたりすることはあるけど」
「それはあなたがポンコツだからじゃないの」
「それは違うよ! 僕は毒ビンに入れたんだ……あの時絶対マグソを入れたはずなんだ……」
「……」
急に落ち込むやん。
「まあでも、そういうことなら他にも『タトウに入れておいた虫が、久しぶりに開いてみたら粉々になってた』とかも怖い話よね」
「……」
「そんな怖い話しないでよスミレ! ……家に帰ったらタトウ確認して防虫剤のチェックしよう」
ミスターケイもチャタテムシにやられた経験あるのか……。これはわかりやすく言い換えると『標本箱の中でチャタテムシが湧いて標本が食われちゃった』っていう怖い話だね。純粋な恐怖。根源的恐怖。
*
「……ところで、ずっと気になっていたことがあるのだけれど」
自販機の下でひとしきり虫屋的怖い話について語り合った後、スミレがぽつりとつぶやいた。
「……」
「なんだい、スミレ?」
「いえ、なんというか、気にしない方がいいのだとはわかっているのだけれど……でも気づいてしまったものは仕方がないじゃない。それに、そろそろわたしだけが気づいていることに、我慢できなくなってしまったのよ……」
スミレがこういう要領を得ないことを言うのは珍しい。
「マユ、あなた、一人で来たわよね?」
「一人で、って……今日のこと? うん、そうだけど……」
スミレは妙なことを言う。何を言いたいんだろう。
「……」
「そうよね……。ナイターの時に全身白い恰好をしてくるなんて、あなたが許すはずないわよね……」
ナイターの時に白い服を着ていると虫が集まってきてしまう。白布を身にまとっているのと同じようなものだからね。だから、マユさんはナイターの時はいつも暗めの色の服を着ているし、今日も黒っぽい服を着ている。
「……ん?」
そういえばさっき、マユさんに驚かされる前にスミレが何か言っていたような……。
『……それより、さっきからあなたの後ろに、その、何か白い影みたいなのが見えるのだけれど』
てっきりそれは光に照らされたマユさんの顔のことだと思っていたけど。でも。
「……」
「ねえ、それって……」
でもそれが、まさか、そんな。
「……スミレ」
「ああ、よかった。やっとわたしだけじゃなくなったのね」
*
その日、ヨコヤマは採集できなかった。
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