第21話:早春の河川敷で
スミレが「久しぶりに和文を書いたから疲れたわ……」といって休養に入ってしまった。
「人にばかり頼っていないで、そろそろあなたが書きなさいな。スガルやマユの文章を読んで、刺激をもらったでしょう?」
と、スミレにくぎを刺されてしまったので、今回は僕が話をすることにするよ。とはいえ……どうしよう。確かにスガルさんやマユさん、それにスミレの話を読むのは新鮮だったけれど、だからといってすぐに書けるわけではないんだよね……。何の話をしようかなぁ。
そういえば、マレーシアでのナイターの話はそれなりにウケたみたいだったんだよね。さじ加減が難しいけれど、採集の話をしようか。
啓蟄を過ぎ、ぽかぽかとした春の陽気の下、イヌノフグリやカラスノエンドウ、アブラナなどの花が咲き始めるまさに今頃にする採集だよ。……というか、つい先日の採集を書き起こすだけなんだけどね。
*
僕やスミレはそこまで冬場に出歩かないのだけど……だからといって冬が終わるまで家や研究室に引きこもっていると気がめいってしまうからね。寒いけれど、たまにはフィールドへ出て体を動かさないとなまっちゃうし。僕は月に二、三回は採集に行くよ。スミレは寒いのが苦手だから、もうちょっと出不精だけど。
そんなスミレも、三月に入り啓蟄を迎えれば冬眠から目覚めて外に出るようになる。啓蟄っていうのは二十四節気(立春や夏至などのこと)の一つで、冬眠していた虫が出てきて動き出すという意味だよ。
毎年「啓蟄だっていうのにまだ寒いじゃないか~」とぼやくんだけど、今年の啓蟄は暖かかったね。今年は冬が寒かったから、余計にそう感じるのかも。
「今年は虫の出に期待できそうね」
「去年は暖冬だったからね。しかも雨が降らずに干ばつ気味だった上に、どうも裏年だった感じだしねぇ」
冬の寒さが厳しいほど、春の虫の出がよくなるんだよね。これは僕の個人的な感想や錯覚とかではなくて、ちゃんと理由があるんだ。
モンシロチョウのように、蛹で冬を越す昆虫がいるよね。冬の寒さを蛹の状態で乗り越えて、暖かい春の陽気に誘われるように羽化して青空へと羽ばたいていく光景は容易に想像できると思う。これ、暖かくなったから虫が羽化すると思っている人も多いと思うけど、羽化する要因はそれだけでは不十分なんだ。
昆虫が羽化するためにはいくつかのスイッチがあって、もちろん”気温の上昇”もその一つ。でも実は、”気温の低下”もスイッチになっているんだ。冬の間に一定の温度まで気温が低下しないと、その後気温が上昇してもうまく羽化できずに死んでしまう場合もある。だから、暖冬で冬の気温が下がらなかった年は虫の出が悪くなることがあるんだ。地球温暖化で南方の虫が北上してくるというのも問題なんだけど、在来の虫が恒常的に羽化できず死んでしまう可能性もあると僕は考えているよ。
また雑談をしてしまった。今日は採集の話だったね。
「風が気持ちいいわ。もうすっかり春ね」
この時期の採集は、やっぱり河川敷。つい一週間前まで不毛の大地だった河川敷はうっすらと緑で覆われ、ぽつぽつと赤や青、黄色といった花が咲き始めている。さらにあと一週間もすれば、この河川敷も僕達の待ち望んだ虫の飛び交う場所になるんだろうな。
「カラスノエンドウやアブラナも咲き始めているね」
ちなみに、さっきの「赤、青、黄色」は僕の中でそれぞれ「カラスノエンドウ、イヌノフグリ、アブラナ」に対応している。早春の河川敷の花といえばこの辺りだよね。あとはホトケノザやレンゲとかかな。
この中で一番集虫力が強いのがアブラナだね。多くのチョウやハチ、ハエがアブラナに集まってくるから、アブラナの集団を見つければ簡単に昆虫の観察や採集ができるんだ。ここの河川敷でアブラナがたくさん咲いている場所はもう頭に入っているから、さくさく歩いていく。
「いやー今年も咲き誇っていますなぁ」
河川敷の一面が黄色一色に染まっている光景は壮観だね。まだ少し早いかなと思ったけれど、今年は春が早いみたいだ。モンシロチョウやヤマトシジミといった春一番に出てくるチョウがすでに何匹も飛び回っている。
「シャッターチャンスね」
この辺りのいわゆる”普通種”はどれも採集済みなので、改めて採集はしない。あーいや、一応一年に一匹は採集するかな。経年で何か変化があるかもしれないからね。まあ経年といっても数十年単位なんだろうけど。
採集しないかわりに、写真を撮ることにしている。そして、撮影はスミレの役目。確か院生のころに撮影の仕方を教えてあげたんだったと思うんだけど、すぐに自分のカメラを買って、使い方もマスターしたんだ。ここ今回の”さすがスミレ”ポイントね。
そしていつの間にか僕をすっかり追い越して撮影のプロになっていたんだ。スミレの撮影機材がどんどんグレードアップしていったので僕が驚いていると、一言『M資金よ』とだけ言ったんだよね。強い。さすがスミレ(2回目)。
「……」
真剣なまなざしでファインダーを覗き、シャッターを切るスミレ。その横で僕は、何か変な虫がいないか探してみる。こんな都会のど真ん中の、何気ない河川敷のどこにでもある花にでも、すごく珍しい昆虫や面白い昆虫の生態を観察することができたりするんだよね。いつ何時も、油断できないのが昆虫の研究なんだ。
「まあ……とくにめぼしいものはいないかな……」
フィールドノートに訪花植物と訪花昆虫を記録しておく。自宅の近所のいくつかの地点でこうして記録を付け始めてかれこれ8年経つかな。はじめこういう記録を付け始めたときはあまり意味を見いだせなかったんだけど、8年もつけ続ければ面白いものが見えてくるものなんだ。
特にこの時期は虫の出始めの時期。同じ日付でも、年によって気温や環境の変化によって虫の種類や数が変わるのがよくわかる。例えば去年は暖冬で、冬と春の分かれ目がはっきりしなかったんだけど、そういう年はいつまでも虫の出が悪かったり、ある種類の虫の数がガクッと減ったりするんだ。逆に今年の様に冬の気温が低いときは、春一番が吹いたあとぐっと暖かくなって、想像通りわらわらと虫が出てくるんだよね。
「彼女たちは何か言ってた?」
「今年もよろしく、ですって」
「了解」
彼女たちというのは、もちろん
チョウはいらないだろうけど、ハチは採っておこう。コハナバチやヒメハナバチの仲間がそれなりに訪花しているので、ぽいぽいっと採集。僕には何の種類かさっぱりだけれど、
あれー? 結局雑談みたいになってしまったような……。全然虫が出てきてないじゃないか。よし、次の話ではちゃんと春の虫の話をするぞ。
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