第10話:熱帯・闇夜の森で3
「ほら、有剣のハチがいるぞ。雌雄で、しかもたくさん。早く採れよ早く」
「うるせえそれヤミスズメだろ全部!」
ぎゃあぎゃあじゃれつくクロシマくんとスガルさんを尻目に、さっきから無言で白布に向かいガを採っているマユさん。
「マユさんはずいぶんと落ち着いているんだね」
「違うわケイ。あの顔をよく見てみなさい」
スミレに言われてマユさんの顔をよく見てみる。
「――うっわ」
目は血走り、頬は赤く上気し、口角が上がりうっすら開かれた口元からは「うへへへへへへへへへへ」という気味の悪い笑い声が漏れ続けていた。
「ね?」
「いや、ね? じゃないでしょ……」
「たぶん、あまりにもガとふれあいすぎて鱗粉中毒にでもなっているのよ」
「そんなばかな……」
採集時にガの鱗粉を吸い過ぎて若干鱗粉アレルギーになっている研究者の話は聞いたことあるけど……あれは単純に”ちょっとオカシイ”だけだと思うよ?
「ねえねえマユ」
あっ、この状況で話しかけるんだ。さすがスミレ。
「マレーシアだというのに、なんだか集まってきているガの中に日本でも見たことのあるような種類が結構いるのだけれど、これは亜種? それとも似て非なる別種?」
するとマユさんはぴたりと笑いを止め、
「そうなのぉ~ガは意外と共通種多いんだよぉ~……」
今度は眉を八の字にしてめそめそし出した。なんて感情の起伏が豊かな人なのだろう。
「例えばさ、チョウは日本には属単位でいない種がたくさんいるわけだよ。カザリシロチョウとかトリバネアゲハとか」
「確かに、昼間見かけたチョウはどれも日本で見たことのないようなものばかりだったわ」
「でしょう? それに比べてガ――とりあえず大型種だけ考えても、結構『あれ、こいつ日本でも見たな』ってやつが多いんだよ。特に琉球列島との共通種が多いよね。そこのリョクモンエダシャクとか、ハグルマヤママユとか」
マユさんが指さすガは、確かに沖縄でナイターをしたときにも見たことのあるようなものだ。
「もちろん亜種扱いにされてるんだけど、パッと見何が違うかわかんないやつも多いんだよね。例えば日本産のハグルマヤママユにこの赤い筋はないとか、ちゃんと見ればそういうのあるんだけど」
と言われても、正直僕にはあまりよくわからない。マユさんの言う通り、パッと見は日本産種も大陸産種も同じように見える。
「でもまあ、もちろん熱帯にいかないと採れないやつもいるわけだよ。例えばクチバの仲間とかね。まあクチバ自体は日本にもいるけど。あとヤガの仲間とか。まあヤガも日本にいるけど。あとはヒトリガとか……あれ、やっぱり日本にいるな」
マユさんはうむむとうなってしまう。やっぱり鱗翅は飛ぶから分布範囲も広いのかな。でも彼らの分布は食草に左右されるところも大きいし……。
例えば、ギフチョウという日本のチョウの幼虫はヒメカンアオイやミヤコアオイといった植物を食べるのだけれど、この植物はいい感じの二次林によく生える。このいい感じというのが難しくて、林冠が葉でおおわれていて林床が暗いうっそうとした森ではだめだし、かといって日当たりや風通しのよい乾燥した場所でもだめ。光合成できるくらいには日照があり、土壌が湿潤な場所でないと生育できない。さらに、カンアオイは種子をアリに運んでもらうので、分布の拡大速度は遅い。
こういった性質を持つため、カンアオイは日本の、特に関東から近畿、四国あたりにしか生息していない。この植物を食べているギフチョウも、同じような分布をしている。チョウやガの仲間の幼虫には、このような特定の食草しか食べないといったスペシャリストが多い。
「いやいや、待って待って。これ別にガだけの問題じゃないでしょ。島嶼とはいえ大きく見れば日本も同じ東南アジアみたいなものなんだから、他の分類群だって属単位科単位でいない虫ばっかりってわけじゃないよ。ね、スガルン?」
「え? いやハチはそんなんばっかりだが。そもそもここに山ほどいるヤミスズメだって日本にいない属だし。ハラボソバチとかハリナシバチも亜科単位でいないな」
「――クリューはどうなん!?」
「そもそも日本のナナフシはナナフシ科1科しかいないしな。熱帯はナナフシの王国だし、日本にいない科なんていくらでもいるぞ」
「……ばかな」
あ、マユさんが膝から崩れ落ちた。
「そうだねぇ。迷蝶っていうくらいだし、鱗翅の仲間は大きい分風に飛ばされやすいんじゃないかな。だから分布がとても広くなるんだよ」
「まあ確かに、ハチの飛翔能力は高いが風に乗って飛ぶタイプじゃないしな。迷蜂なんて聞いたことがない」
僕達の発言に、マユさんはどんどん青ざめていく。
「あれ……? もしかしてガ屋って熱帯であんまり楽しめない……?」
「あ、でも集まってくるガの量は比じゃないだろ」
「それはどの虫も同じ……だって熱帯だもの……」
ついには両手を地面につき、ずーんと落ち込んでしまうマユさん。
「――そんなことないわ、マユ」
すると、先ほどまで黙って聞いていた
「スミスミ……?」
「だってマレーシアなら、これが合法的に採集できるじゃない……!」
ぶわっとライトを横切る、力強い羽ばたきが聞こえるほどの大きな影。はじめコウモリかと思ったが、違う。
「
Attacus atlas。和名はヨナグニサン。最果ての島与那国で発見されたことにちなみ、日本では八重山諸島にのみ生息する、めちゃくちゃでかいガの仲間だ。与那国の方言では
翅の長さが一番大きいのはアレクサンドラトリバネアゲハというチョウなのだが、翅の面積でいうとこのAttacus atlasの仲間の方が大きい。人の顔を覆うくらいの大きさはあり、ていうか化け物でしょこんなの。モスラのモデルになったと言われるだけはある。
その大きな翅を羽ばたかせると、まるで鳥の様に羽ばたく音まで聞こえる。ちょっと思い出してほしいんだけど、チョウが飛んでいるとき羽ばたく音がしたことなんてある? 少なくとも日本のアゲハチョウやタテハチョウではそんな音を聞いたことがない。つまりそれくらいこのガは強く強く羽ばたいているんだ。
「そうだ! これ採集していいんだよね!? だってここマレーシアだもんね!?」
マユさんが大興奮しているのにはわけがあって、ヨナグニサンは日本では八重山にしかいないということから沖縄県指定天然記念物に指定されている。天然記念物ということは採集することはおろか触ってもいけない。
一方、Attacus atlas自体はべらぼうに珍しいものではなく、ここマレーシアでも生息数は少なくない(もちろんいつでも会えるわけではないけれど)。なので特に保護されたり、採集禁止にされているわけではない。
「ええ、そうよ。合法よ。合法でヨナグニサンが手に入るのよ!」
「よっしゃネットイン! うっわめっちゃ暴れるっていうか力強い! 魚を釣り上げたときみたいに網が震える!」
マユさんはともかく、スミレもやけに上機嫌だ。おおかた昆虫図鑑の後ろの方の『世界の昆虫』のページで見て憧れていたんだろう。もちろん僕もだ。図鑑でしか見ることができなかった憧れの虫を、20年後にこうして実際に目にすることができるだなんて、当時の僕は想像なんてできなかったなぁ。
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