第8話:熱帯・闇夜の森で

 日本とは比べ物にならないような、熱く、刺すような日差しを降り注いでいた太陽も、ようやく地平線の彼方へ沈もうとしていた。谷底から吹き上げる風に髪を躍らせるスミレに、僕は適度の緊張と興奮を抱きながら言葉をかける。


「さあ、始めようか――」


 *


 豆知識的な内容が続いたので、今回は虫採りのお話をしよう。特に、夜間の灯火採集について。


 灯火採集というのはその名の通り、夜間に電灯をたいて虫を集める採集方法だ。虫は光に集まる習性がある。最近はLEDに変わってしまってあまり見なくなってしまったけど……夜、街灯や自販機にガやカゲロウの仲間が集まっている様子は、つい十年ほど前までは普通の光景だった。それのもっと強力なものを、電灯の無いような山の中などでするのが灯火採集だ。

 実は、どうして虫が光に集まるのかというのはよくわかっていない。夜間、昆虫は月との位置関係や距離を一定に保つように飛んでいるんだけど、ライトの強力な光が月だと勘違いするらしい。でも、ライトが地表付近にあるせいで位置や距離がぐちゃぐちゃになり、ライトを中心にぐるぐる飛んで、最終的に灯りに集まっているように見えるというのが今のところ有力な説。街灯に集まっているガなんかも、街灯を中心にぐるぐる回りながら飛んでいることがある。


 そういう性質を、灯火採集は利用している。本当は発電機を使って水銀灯をたくと虫がよく集まっていいんだけど、重いし大きいしガソリン入れなきゃいけないし、何より飛行機に乗せられないので、空路の時は郵送するか諦めて現地で買わなければいけない。

 最近はHIDハンディライト、通称バズーカ砲という懐中電灯のお化けのようなライトが登場したので、わざわざ発電機を担いでいかなくてすむようになった。けれど、電池一本が約二時間程度しか持たないので、一晩中灯りをたいておくことはできない。まあ、せいぜい23時くらいまでできれば十分なので、HIDは有用な武器となっている。飛行機にも乗せられるし。


 ――そう、僕達は今、日本からおよそ十時間かけて、東南アジアの熱帯・マレーシアに来ている。


 飛行機での移動が特別ではなくなった近年、この遠き異国の森も時間的・費用的に近くなった。たいていの場所で英語が通じるし、物価は安く、治安も悪くない。なにより昆虫採集に厳しくないのがいいね。マレーシアは比較的気を楽にして昆虫採集に行ける外国なんだ。

 つい十数年前の面影がないほどどんどん開発が進んでいるんだけど、それでもまだまだ虫がたくさんいる場所は残されている。今回はそんな熱帯雨林で灯火採集をしたときの話をしよう。


 *


「じゃあ、点けるよ」

「ええ」


 ライトの点灯は日没前がいいらしい。なんでかはよく知らないんだけど、たぶん夜行性の虫が動き出すタイミングでつけたほうが効果的みたいだ。

 沈みゆく太陽の燃えかすに負けじと、山の稜線から放たれたHIDライトの光が薄暗闇を切り裂く。


「よし、これでOK、と」


 向かいの山に真っ直ぐ灯りが行くようにライトの位置を調整する。

 灯火採集をする場所にはいくつかポイントがあって、重要なものの一つは開けた場所であること。これは光を白い布に当てて拡散させたときに、広範囲から虫が集まってくるようにするためだ。

 もう一つは向かいにも山があること。向かいの山にライトを照射することで、そこの虫をぐっと誘引できるようにするためだ。普段はHIDライトを二つ持って行って、拡散と照射を組み合わせることが多いかな。


 はじめの五分十分で飛んでくるのはたいていすぐ近くの茂みや木にとまっていた小さなハエやガなどだ。灯火採集が面白くなってくるのは三十分から一時間程度たったころから……と、僕は考えていた。


 ゴツン!

「!」


 車に張った白布に何か固いものの当たった音がした。


「……セミだ」

「セミね」


 その後、ゴツゴツゴツゴツッ! と爆撃の様に白布を襲ったセミの集団は、三十分も経つとその数も100近くになり白布を埋め尽くした。

 飛んでくるセミはだいたい二種類。全身緑色のミドリゼミの仲間と、腹部に大きな白い帯のあるシロオビカレイゼミだ。シロオビカレイゼミの数が圧倒的に多く、ライトの前にめちゃくちゃに集まって蠢いている。


「セミだらけだね……」

「……そういえば今もセミの声が聞こえるけど、セミって昼行性ではないの?」


 日本のセミはすべて昼行性なので、スミレの質問はもっともだ。実はセミの仲間であるカメムシは夜行性の種が多い(セミはカメムシの仲間という話はまた後日)。日本で灯火採集をすると、今現在僕らが目の当たりにしているセミの大群のようにカメムシが大量に飛来することがある。

 そして東南アジアのセミも同じように夜行性のものが多い。もちろん昼間に鳴いているものも多いけど、夜でも昼と変わらないくらいセミの声が聞こえる。暗闇の中なら大きな声で鳴いていても鳥などに狙われなくてすむ。思えば昼に鳴いているのは毒を持ったセミが多い気もする。

 熱帯から徐々に分布を広げてきたセミだが、日本の夜は少し寒すぎたのだろう。仕方なく暖かい昼間に鳴くようになったのではという説がある。たまに夜オカシクなったようにけたたましく鳴いているセミがいるけど、もしかしたら遠く熱帯に住んでいたころの遺伝子がよみがえっているのかもしれないね。


 激しいセミラッシュに気をとられてしまっていたけど、始めてまだたかだか三十分程度だというのに日本で灯火採集をしたときとは比べ物にならないくらい虫が集まっている。多くはガの仲間で、エダシャクやスズメガ、ツバメガなどなんでもござれという感じ。とはいえ、結構日本でも見るようなやつも多くて、まだまだ大興奮するほどでもない。


 ……さて、熱帯で灯火採集をする上でもう一つ語らなければいけない虫がいる。すでに何匹か集まってきている――ヤミスズメバチだ。


 ヤミスズメバチProvespa。その名の通り、夜間行動するスズメバチ亜科のハチだけど、大きさはアシナガバチくらいで体つきもそんなにがっちりしていない。夜に活動するスズメバチなんてほとんどいないんだけど、この仲間はガッツリ夜行性でライトにも集まる。

 普通のスズメバチは一匹の女王が巣を大きくし、秋の終わりに新しい女王が巣立つと巣は放棄されるんだけど、ヤミスズメバチはミツバチのように分蜂――巣分かれをして増えていくらしい。


 今はセミが占拠しているこの白布も、多いときではこのヤミスズメが大挙して押しかける。たいていはおとなしくとまっているだけなんだけど、刺激してしまうとすぐ刺してくる。それはもう弁解の余地なしってくらいすぐ刺してくる。しかも痛い。めちゃくちゃ痛い。

 普通のスズメバチに刺されたことはさすがにないから比べられないんだけど、刺された瞬間は太い注射針で刺されたような鋭い痛みが走って、そこからタンスの角に小指をぶつけたときの十倍くらい、ズキズキというよりはガンガンという鈍痛がずっと続き、患部が大きく腫れることもある。下手すると次の日になっても腫れが引かなかったりする。

 アナフィラキシーショックの危険性はそれほどでもないみたいだけど、痛いものは痛い。すぐに毒を吸い出して患部にステロイド系の軟膏を塗れば、次の日には腫れも痛みも引く。


 ラッシュも落ち着いてきたころ、ぽつぽつと甲虫や大きめのガが飛んでくるようになってきた。こうなってくると灯火採集は一気に加速するんだ――。

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