第19話:世界を支える昆虫

「……書いたわ」


 スガルさんやマユさんから送られてきた文章の校正作業をしていると、ここのところ部屋にこもって何かしていたスミレがとうとう天の岩戸を開いた。


「え?」

「あなたに頼まれた原稿、書いたわ」

「本当かい。というか、そんなに根を詰めてしてもらわなくてもよかったのに」


 スミレは何かに集中するとき、ひとり部屋にこもる習性がある。だから今回も何か面白いものを見つけてこもっているものだと思っていたのだけど……。


「私は虫のこと、あなたたちみたいに詳しくないし、特別好きな虫がいるわけでもないわ。だから、どの虫を書こうかと考えて、ありとあらゆる分類群を勉強しなおしていたの。……もちろん、浅く広くだけれど」


 彼女の肩越しに見える部屋の中は、図鑑や印刷された文献がごちゃごちゃと散乱していた。普段整理整頓の行き届いているスミレにしては珍しい。よっぽどあれこれ、しかも短時間で調べまくっていたのだろう。

 うーん……やると決めたことに妥協を許さない感じ、さすがスミレだ。


「それに、あなたから頼られることって、あまりないし……」


 いつもはズバズバ――はっきりとものを言うスミレがもごもごと口ごもる様子は、めったに見られない貴重な姿だ。脳内で生態写真を撮りまくる。

 うーん……若干目をそらしながらもこういうことをちゃんと言う感じ、さすがスミレだ……。


「そっか……ありがとう、スミレ」

「どういたしまして、ケイ」


 こういう感じは久しぶりで、なんだか気恥ずかしい。僕はごまかすように話を進めた。


「――そ、それで、どういうことについて書いてくれたんだい?」

「私は昆虫のことが好きだけど、マユやスガルの様にある特定の虫について異常な興味を持っているわけではないわ。そんな私がどんなことについて書くべきか考えたとき、まずはこの虫の話をするべきじゃないかと思ったのよ」


 *


 ゴキブリという虫は、世界を支える昆虫よ。


 ゴキブリほど知名度が高く、かつ嫌悪されている昆虫はいないでしょう。最近では”G”とか”ヤツ”とか”黒いアレ”というふうに名前を呼ぶことすら憚られるような風潮があるくらい。まったく、ふざけたことだわ。人種差別ならぬ、虫種差別も甚だしい。人間が、いや、世界中の生物が、どれだけ彼らに生かされていることかわかっていないのよ。


 まずはじめに、改めて言わせてもらいたいのだけれど、ごく一部のゴキブリが有害であることは確かだわ。でも、その有害性はゴキブリそのものにあるのではなくて、そのゴキブリが食べる生ごみや住処にしている場所が汚いから。ゴキブリが汚いのではなくて、ゴキブリが出たが汚いのよ。特に新興住宅地やマンションなどの新しい住宅ではね。ゴキブリを嫌う前に、まずあなたの家を清潔に保ちなさい。

 さらに、家屋性のゴキブリはほとんどが南の方からやってきた外来種。日本だとチャバネ、ワモン、クロの三種あたりね。もともと暖かい所に生息していたから、冬でも暖かい屋内を住処にしているの。生命力の高いゴキブリでも、日本の寒さは少し堪えるようね。とはいえ、いくら暖かい場所でも食べ物がなければ繁殖するのは難しいでしょうから、やっぱり家を清潔に保つことが重要よ。


 もう一つ害虫とされるゴキブリの仲間がシロアリね。見た目がゴキブリとは似ても似つかないから伝統的な形態分類では別の分類群と考えられていたのだけれど、近年のDNAを用いた系統解析の結果、ゴキブリとシロアリは同じゴキブリ目に属するという説が提唱されているの。

 シロアリは木造建築の害虫。一匹だけならたいしたことはないけれど、アリのように女王を頂点とした大きなコロニーをつくるので、一度巣をつくられてしまうとあっという間に家が食べつくされてしまうの。といっても、最近は木造の家も減ってしまったから昔ほどシロアリを見なくなったみたいだけれど。


 このような有害なゴキブリはごくごくわずかで、ほとんどのゴキブリは無害どころか、地球上の生物が生存する上でなくてはならない存在なのよ。

 ゴキブリという昆虫は、本来森林性の生き物なの。樹液や木材、動物の死骸など、何でも食べる雑食性よ。「森の掃除屋」と呼ばれる昆虫のうち、これほど雑食なものもいないと思うわ。こうした分解者が掃除をしてくれるから、生物は土に還り、新たな生物の栄養となっていくの。極端に言えば、ゴキブリがいないと森は死ぬわ。

 さらに注目してほしいのは、木材を食べるというところ。樹液や死骸は言わずもがな、木材を餌とする昆虫も数多くいるわ。けれど、それはの話。朽木というのは字のごとく朽ちた木のことなのだけれど、ここではとさせてもらうわね。ここから少し樹木学の話になるけれど、聞いて頂戴。



 樹木を構成する三大成分というものがあるわ。セルロース、ヘミセルロース、リグニンと呼ばれるこの三つの化学物質はどの樹木も共通に有していて、かつ樹木の成分のほとんどがこの三つで構成されているの。これらは樹体を支えたり、細胞同士の接着剤としての役割を果たしているのだけれど、これがとてつもなく頑丈なのよ。生物が生み出す物質の中で、これほど強固な構造物はないわ。だからこそ、人間が建築材料として選んだわけだけれど。

 数百年前の木簡や木造建築物がいまだにそのままの姿で現存しているのは、その構造が強固であり、またというところにある。そう、とにかくセルロースやリグニンは構造が安定していて自然には分解されないのよ。特にリグニンね。太古の植物が石炭として残っているのは、リグニンが分解されないまま堆積していったからなの。

 そして、リグニンが登場したころはまだこれを分解できる生物がいなかった。だからこの時代の植物の化石、つまり石炭が大量に残されているの。



 さて、ここからが本題よ。セルロースやリグニンは放っておいても分解されない。誰かが分解しようとしないと、その木は半永久的に残り続けるといっても過言ではないわ。この難攻不落の化学物質を分解することができるのは、木材腐朽菌と呼ばれる菌やシロアリ体内などに生息するセルロース分解菌などの限られた生物だけなのよ。(*草食動物は当然セルロースを分解できるけれど、栄養のある葉や生細胞を食べるばかりで、栄養に乏しい木部は食べないわ。)


 木材腐朽菌の話は置いておいて……木材を直接利用できる生き物というのはほとんどいないわ。さっき朽木を強調したのは、木を食べたり住処にしている昆虫も木材を直接利用しているわけではないということを言いたかったの。ほとんどの昆虫は木材の中でもリグニン化していない生細胞の部分を食べたり、腐朽菌などが一度分解したあとの腐食部を食べているわ。

 一方で、まだ菌に分解されていない部分も食料にできるのが、シロアリの仲間。シロアリは体内に共生している分解菌にセルロースを分解してもらって栄養としている。シロアリを含めたゴキブリの仲間はまさに石炭紀の頃に登場したと考えられていて、彼らが木材を分解するようになったからこそ、現在のような森林内の物質循環サイクルが形成されたのだと考えることもできるわね。


 ちなみに、現生のゴキブリが栄養の乏しい環境でも生きていけるのも共生細菌のおかげ。人間は窒素代謝物を尿として排出してしまうけれど、ゴキブリは共生細菌を介してアミノ酸に戻すことができるらしいわ。アミノ酸はDNAにも使われている生物を構成する重要な物質。これを体内で再合成できるからこそ、朽木という貧栄養なものでも生きていけるというわけね。



 何かと不名誉な扱いを受けているゴキブリだけれど、実は森林の環境を支えていて、さらに難分解性のセルロースを分解できる重要な昆虫であるということ、わかってもらえたかしら。次回は「かっこいいゴキブリ」「飼えるゴキブリ」という観点でお話させてもらうわ。

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