第34話:冬に虫なんているわけないでしょ

 夏はとうの昔に終わった。10月にもなれば特殊な虫以外は繁殖を終え、次代へと命をつないでいる。チョウなどは最後の世代が飛びまわっていたが11月も半分を過ぎるとそれも見られなくなり、12月に入れば道を歩いていて虫に出会うことはなくなってきた。


「――」


 虫採りと感情の起伏や精神衛生が直結している虫屋は、この時期になると虫採りができなくなって気分が落ち込んだり精神を病んだりする。比較的自由度のある大学の頃は、しばらく学校に来なくなったり、虫が活動しているより南の国に逃げる友人バカもいたわね。

 大人になればさすがに簡単に休んだり、思い付きで海外に行ったりはできないのだけれど(といっても研究者はサラリーマンや公的機関よりも融通が効くでしょうけど)、だからといって気分が落ち込まなくなるわけではないわ。


「――はぁ」


 秋の深まるころから徐々に虫は減ってくるのだけれど、それでも虫を採りたい虫屋は根性でフィールドに出続ける。それでもいつかは虫がいなくなるわけで、頑張ってもその努力に見合うほどの採集ができなくなってくるの。だから余計に、気分が落ち込むのよね。


 そして、そんな虫屋は私のすぐ隣にもいるわけなのだけれど。


「はぁぁ……」

「さすがに毎日のようにそばでため息をつかれると、幸せを逃がしたくなるわ」


 ここ最近、ケイはずっとため息をつきながら死んだような目で標本をいじっている。虫を見ているのだからもう少しキラキラした目をしなさいよ、虫屋なら。


「あ、ごめんねスミレ。そんなにため息ついていたかな……はぁ……」

「あなたそれわざとやっているの?」


 仕事場ではどうしているのか知らないけど、きっと同じようにため息をつきながら死んだような目でデータ整理をしたり論文を書いたりしているのでしょう。職場の空気を悪くしていないかしら。


「なんかね……今年は裏年だった上に気候が変だったから虫の出が悪かったじゃない? それが秋口に響いたのか、秋の虫ももう全然いなくて。家の周りのバッタやコオロギはとっくに把握しちゃったから、今更感あるしね……。軽く変動は見てるけど」

「つまり、採ったことのない虫とか、珍しい変な虫とかを探しに行きたいのね?」

「そうなんだよ……。はじめの頃は何でも楽しかったのにね。だんだんマンネリになってきたというか」


 マンネリ……倦怠期……。


「それは良くないわね」


 それは良くないわ。


「ケイ、明日は休みだったわよね」

「え、あ、うん。休みだけど……。どうしたの、突然?」

「決まっているじゃない。探しに行くのよ、虫」



 マンネリは良くない。ということで、混乱をきたしたままのケイを車につっこんで、いつもの里山にやってきた。

 車から降りると、暖冬の12月だというのに吐く息は白く、私はぶるりと身を震わせた。


「いやぁ、結構寒いね。いつものところだけど、ここで虫探すの?」

「ええ、探すのよ、虫を」

「その大荷物で?」


 私のザックを指しながらケイが言う。夏場の採集ではウエストポーチに水筒とカメラと若干の毒ビンしか持っていない私が、急に大きなザックを担いできたのだから驚くのも無理はないわね。


「オサ掘りやフユシャク探しは定番だけれど、今のあなたに足りないのは見慣れない虫の大量補給でしょう? ならやることはひとつよ」


 ザックの中から、その大半を占めていた大きめの篩いをとりだす。


「落ち葉篩い、あまりしたことないわよね?」


 ケイは感心しながら、私が差し出した篩いを受け取る。


「なるほどなぁ、落ち葉篩いか。確かにあまりやったことのない採集だね」


 落ち葉を篩って虫を採る、それが落ち葉篩い。定量的な調査などではシフターという機器を使ったりするけれど、単に虫を採るだけならホームセンターなどで売っている目が5mm程度の篩いで十分よ。目の粗い洗濯ネットでも代用できるわ。


「これなら色々と面白い虫が採れるでしょうし、体を動かすから寒くなくていいわ。篩いを始める前に、スプレーイングもしておきましょう」


 ザックから白布と、めったに買わない殺虫スプレーを取りだす。虫食いがたくさんある枯死木の周りに白布を敷き、枯死木に向かってスプレーを撒く。こうすると、虫食いの中に潜んでいる虫が穴からぽろぽろと落ちて来る。


「さすがスミレ、無駄がない」

「冬にどの程度採れるのかはわからないのだけれど、物は試しね」


 スプレーイングの効果が出るまでにはしばらくかかるので、その間に落ち葉を篩えば効率がいい。


「私も詳しくはないのだけれど、とりあえずリター層をまとめて篩いにかけて、落ちて来る虫を白布で受けて、吸虫管で吸うのが手っ取り早いみたいよ」


 篩ったものを袋などに受けて、持ち帰ってツルグレン装置にかけたほうが効率がいいらしいのだけれど、その場で何が落ちて来るのか見たほうが楽しそうだから今回はこの方法で。


「よーし、やるぞ!」


 この里山は主に落葉樹で構成されていて、傾斜も緩やかなのでリターは豊富に蓄えられている。篩った後のリターが混ざらないように気を付けつつ、あたりのリターを篩いまくる。

 運動というほどの動きではないけれど、がさがさと篩っているとだんだん体も温まってくる。


「おお~意外と色々落ちてくるんだね」


 篩いの成果はすぐに目に見えた。多いのはアリだけれど、ハネカクシやキクイムシ、キノコムシ、ナガクチキ、ゴミダマなど、いわゆる雑甲虫と呼ばれる虫もたくさん採れる。


「いつの間にこんなに小さな虫を認識できるようになったのかしら……」

「スミレは昔からかなり目がいいよね」


 落ちてくるのはどれも2、3mmの小さな虫たち。きっと普通はゴミと見分けがつかないのでしょう。私はすっかり区別できるようになってしまったけれど。


「おっ、変なアリヅカ! こっちはオチバゾウ……じゃなくてシギゾウか」


 ケイは一瞬で何の仲間か判別しているけれど、私はそこまでではないわ。ほっとするような、負けているような。


「あ、これは私も知っているわ。にっぽのまろりあでしょうにっぽのまろりあ」

「Nipponomaroliaいるの!?」


 Nipponomarolia kobensis、和名ハネナシナガクチキ。3~6mm程度の体は細長く茶色で、後翅が退化して飛べない虫。生態が謎でとても珍しいとされていたのだけれど、落ち葉に潜んでいるということがわかってからは各地で採集されているらしいわ。

 こんな小さい甲虫をどうして覚えていたかというと、基産地に思い入れがあったということと、


「にっぽのまろりあって響き可愛いわよね」

「スミレは時々そういう覚え方するよね」

「いいでしょ可愛いんだから」


 そうでもしないと、色も形も似たような小さい虫なんて覚えられないわよ。


「似ているといえば、これってアリじゃなくてハチよね?」

「どれどれ……ヒメバチじゃないかな」


 落ち葉篩いではハチも落ちる。翅の有無に限らずハチはそれなりにいるけれど、種類はあまり多くなさそう。


「スガルはこういうの要るのかしら」

「たぶんいらないんじゃないかな……。思い出したけど、彼女、地中性のハチを求めて結構あれこれしてた時期があって、でも『ヒメバチとハエヤドリクロバチしか採れん!』って言ってたね」

「そう……じゃあ逃がしておきましょう」


 この場に居たら絶対に『あなたハチ屋なんだから採りなさいよ』って押し付けるのだけれど。



 小さな小さな虫を、ケイに教えてもらいつつ採集していく。あまり採っても仕方がないのだけれど、白布の上でじっとしていたり、とことこ歩き出す虫たちを見ていると、ついつい手が伸びてしまう。


「そういえば、スプレーはどうなったかしら」


 落ち葉篩いに夢中になって、少し放置しすぎたかもしれないわね。せっかく落ちた虫も逃げてしまっているかもしれないわ。


「お、意外とうまくいっているみたいだよ」


 ケイが早速落ちている虫を物色し始めた。私も隣にしゃがんで観察してみる。


「朽木の中にいそうな、硬そうなやつばっかりでもないのね」

「そうだね、クチキムシとか以外に、キノコムシやキノコゴミダマとかも多いね。たぶん木に生えているキノコについているやつも落ちてきてるんだろうね」


 あまり気にしていなかったけど、枯死木にキノコがついていたのね。


「当然だけれど、落ち葉で採れる種類と違うわね」

「そうだね。ちゃんとスプレーもしないといけないなぁ」


 さっきと同じように、あれこれ言いながら虫をつまむ。


「ケイはキノコムシは専門ではないのだったかしら」

「本当はわかるようになればいいけれど、今はある程度の属くらいまでしかわからないかな」

「難しいの?」

「うーん、食わず嫌いかもしれない」


 分類ごとに日本語の図鑑や資料があればとっかかりやすいのだけれど、甲虫は『みればわかるでしょ』という仲間が多くて、最初は詳しい人に教えてもらわないと調べにくいのよね。だからといって他の分類群はそもそも分類が進んでいなくて調べにくい、というのも多いけど。


「まあでも、こうして標本を集めて行けばわかってくると思うよ」

「詳しくなったら教えてちょうだいね」

「善処します……」


 私の一番の師匠はケイなのだから、そこは責任をとってもらわないと。


「ところで、なんで今日はこうやって僕を誘ってくれたの?」

「それは、あなたがずうっとため息をついていて辟易したのと――」


 あまり、こういうことを口にするのは慣れていないのだけれど。


「――いつも受け身でいるのもどうなのかしら、と思って」


 たまには、私が誘ってみてもいいのかなと思っただけよ。


「ふぅん」

「ふぅん、とはなによふぅん、とは」

「いやぁ、ありがたいなぁと思っただけだよ」


 意地悪くあがったケイの頬を、私と同じくらい紅くなるまでつねる。思い出したように立ち上る白い吐息は、本格的な冬の到来を予感させた。

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