僕が虫屋になったわけ

Hymeno

第1話:初めての記憶・翅アリとセミの話

 幼稚園の花壇にいた翅アリを、僕は鮮明に覚えている。


 大人になってから見ると決して広くない庭の片隅に、花壇があった。その花壇は園児たちがチューリップの球根を植え、毎年色とりどりの花を咲かしていた。その花壇に、アリの巣があった。

 外遊びの時間だっただろうか。そのアリの巣の周りを観察していると、翅の生えたアリが歩いているのを発見した。


 僕は物知りで有名で、特に生き物には多大なる興味があったのでしばしば「博士」と呼ばれていた。僕はそのアリを見て「翅アリだ」と言った。

 当時幼稚園にはもう一人物知りの子がいて、その子はそれを見て「女王アリだよ」と言った。


 僕たちは喧嘩になった。


 慌てて止めに来た先生が「じゃあ図鑑で確認してみましょう」と、汚れないようにビニールのカバーが付いていて、本文の紙も頑丈に作られた子供向けの「こんちゅう」と書かれた図鑑を持ってきて、アリのページを開いた。するとそこには、

女王じょうおうあり(はねあり)」

 と書かれていた。


「ほら、どっちも正しかったね」


 先生はほっとしたのか、満足げな顔で僕たちを仲直りさせたけど、僕はまったく納得がいっていなかった。

 だってあれは女王じゃなくて、オスアリだったんだ。だから女王アリじゃなくて翅アリの方が正しいはずだ。


 僕の記憶の中で、昆虫関係で一番古く、鮮明に覚えているのは、この翅アリ事件が悔しかったことだ。


 *


 子供の頃、誰しも一度は昆虫に触れているはずだ。それどころか、むしとりをしたことのない人間を探す方が難しいのではないのだろうか。子供の頃から虫が嫌いで嫌いで仕方がなかった人なんて、めったにいないだろう。


 子供が目にするもので、あれほど面白いものは他にはない。まずなにより、勝手に動く。飛んだり跳ねたり歩き回ったり、とにかく動きまわる。大人にとっては自分の予想を外れた動きをするものとして恐怖や嫌悪を抱かせるその動きも、子供にとってはただただ面白いものでしかない。

 また、様々な色形があるのも見ていて楽しい。子供の認識能力というのは目を見張るものがあり、大人が「全部黒くてゴキブリみたいに見える~」というカブトムシやクワガタなんかも、子供は「これがオオクワでこれがヒラタで……」とすぐに見分けがつく。


 そんな気持ちは、誰もが持っていたはずのものなのだ。


 子供は親を見て育つ。親の真似をして育つ。親が良いといったものは良いし、悪いと言ったものは悪い。虫なんて見るのもいや、触るのもいやという親のもとで育った子供は、たいていは親の真似をして虫嫌いになってしまう。特に、子供が興味を持っているのに嫌がる親は最悪だ。

 僕の親は幸いにして、虫とか生き物に関心のある人たちだったからよかったけれど。父親はよくむしとりに付き合ってくれたものだ。母親も、今となってはあまり得意ではないが、幼少期はわんさとバッタを採ったりしていたからか嫌がりはしなかった。


 夏、家の前の一本の木で、大量のセミが鳴いていた。最近はずいぶん減ってしまったけれど、僕が小学生の頃は鈴なりに張り付いて大合唱をしていたものだ。ウチではこれを「セミの木」と呼んでいた。

 セミというのは暑くなってくるとどんどん木の上に登って行ってしまう。暑いから葉っぱの影になっている上の方に逃げるんだ、と父親は言っていたが、本当のところはよくわからない。なんにせよお昼が近づくにつれてセミは上の方へ登ってしまい、網が届かなくなる。それまでに採りにいかないといけない。


 べたべたべた、と大量のクマゼミが張り付いている。このあたりはほとんどが黒くて大きいクマゼミで、時々翅の茶色いアブラゼミ、たまに小さくて灰色のニイニイゼミがいる。ツクツクボウシやミンミンゼミは、一年に一度一匹だけ鳴き声を聞くかどうかという珍しい種だ。山手の方へ行けば鳴いているので、たまに迷い込んでしまうのだろう。

 セミに気づかれないようにそっと網を近づけ、下から掬うように網を振るとうまく捕まえることができる。セミは木から飛び立つとき、脚を離して落ちながら翅を広げて飛ぶので、こうして少し下に網を構えるのだ。一匹が飛ぶと連鎖的に何匹も飛び立つので、うまくいけばバサバサバサッと採れることもある。

 そしてもちろん、失敗するとおしっこをかけられる。そしてたまに、混乱したセミが顔面に飛んでくることもある。僕は一度顔のど真ん中に張り付かれたことがあるが、セミの強固な爪が全然離れてくれなくて軽くトラウマになった。


 今でこそセミなんてほとんど採らなくなったが、セミは最も身近で、しかし意外と奥深い、僕の隣人だった。


 *


「何を書いているの、ケイ?」


 パソコンで文章を作成していると、コーヒーカップを片手に持ったスミレが横から覗き込んできた。


「ん、ちょっとね。知り合いに執筆を頼まれてね」

「ふうん。ケイってそういうの得意だったかしら」

「いやあ、それがそうでもないから大変なんだよ」

「そうよね」


 だってあなた卒論の時も大変そうだったもの、とスミレが懐かしそうに言う。僕は思い出したくない。


「コーヒー、飲む?」

「ありがとう。もらえるかな」


 ん、と頷き手に持っているカップを作業場の横に置いてくれる。もともと僕に持ってきてくれていたらしい。


 彼女は僕の大学の同期で、今は僕の奥さんで、そして――だ。


「まあ、頑張って。いざとなったら私が」

「そういえばキミ、こういうの得意だったっけ……」


 そういえば、普通みんな嫌がる論文執筆とかも、スミレは結構楽しそうにやっていたっけ。彼女は得意げに「まあね」と鼻をならした。


「採集にはなかなか行けないけど、頭を使うほうなら、ね」

「そうはいっても、はたらきすぎは体に毒だよ。……もうキミ一人の体じゃないんだから」


 この執筆依頼が来た時、はじめは断ろうかとも考えた。なんせ僕はこういう文章を書くということが苦手なのだ。おかげで卒論をはじめ論文を執筆する際は毎度頭を抱える羽目になり、締め切りギリギリになってようやくなんとか完成させるような人間だ。そんな自分が、自分の事を面白く書けだなんて。


 でも、スミレと、そのおなかの中の新しい命が僕を執筆する方へと導いた。


 別に僕もスミレも、自分の子供も虫好きにしようだなんて思っていない。そりゃそうなってくれたら嬉しいけれど、別の事に興味が湧いたならそっちの道を歩んでくれればいいと思っている。

 だけど、自分たちがどのようなことをしてきたのか、僕とスミレが、どんなことを人生の中心に置いてきたのかを知ってほしいと思ったんだ。


 だから、僕はこうして、僕たちの人生においてずっと共にあったとの物語を紡ごうと思ったんだ――。




 私の彼は虫屋です・派生作品――僕が虫屋になったわけ――

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