第5話 決着
ボンネットからかすかに煙を上げている黒いBMWからは弾けるように運転席の扉が開いた。
そして浅黒い肌でニット帽を被った男がそこから姿を現した。
ケイの首にしっかりとナイフを回したまま。
その光景を見た瞬間、俺の頭は一瞬にして沸騰する。
あいつが、ケイを、そして薫を誘拐して、酷い目に合わせたヤツか!
腹の底からぐらぐらと沸き立つ怒りを抑えることが出来ない。
俺はわずかに歪んだ山平商店カーの助手席のドアを開けるとすぐにケイたちを追いかけた。
だが、それに気が付いたニット帽の男は、見せつけるようにナイフをケイの首の前で翳す。
ニット帽の男は関節技の名手だと聞いた。
力のないケイを拘束することなどその技を使えば、たやすいはずだ。
それなのになぜナイフでケイを脅すのかと疑問に思っていたのだけど、それが今、氷解した。
ナイフは他の人間に対する脅しなんだ。
関節技で首の関節を極めても第三者からしてみると、何が起こっているのか判断し辛い。
だけど、ナイフなら見ただけで、現在進行形で生殺与奪の状況にあると一発で理解出来る。
俺は男の脅しに屈して立ち止まった。
ニット帽の男はケイの首にナイフを当てたまま、辺りに気を配りつつ次第に後退していく。
男とケイは車がぶつかってへし折れた壁の中から、競馬場の中へ侵入して行く。
そこは中山競馬場のセンタープラザだった。
中山競馬場は県道を挟んで反対側に、バスターミナルと中央門がある。
そこから県道下のトンネルを通って競馬場の方へ歩いて行けるというシステムなのだが、この中央門からトンネルに至るまでのちょっとした広場がセンタープラザだ。
センタープラザは、楕円形状の広場でその上を屋根が覆っている。
ニット帽の男はケイを後ろから抱きかかえるようにして、そのセンタープラザ中央まで辿り着いた。
ときおり後方に視線をやっている。
どうやらセンタープラザから通じているトンネルを通って、競馬場施設の中に逃げ込もうとしているようだ。
俺の両脇に人の気配がした。あおいさんと竜也だ。
竜也は俺の右隣で呟くように言う。
「耕平。登美丘遙香のブログは警察も見ているはずだ。もうすぐ警察も駆けつける」
竜也の言いたいことは分かった。
すでに犯人は捕捉している。
ここで敢えて危険を冒す必要はない。
後は警察に任せればよい。
そう言いたいんだ。
うん、それは分かっている。
やがて警察が到着し、この施設を取り囲むだろう。そしてクールに統制された技術でもって犯人を制圧するのだろう。それは理性では理解していた。
だけど、感情だけは別だった。
目の前でケイがナイフで脅されている。
その表情は恐怖で歪んでいる。
あの陽気なケイが涙ぐんでいる。
それを見ているだけでも我慢ならないんだ。
ケイの首筋でちらついている銀色の凶器が、いつケイの肌の中に潜り込んでいくのかと思うと気が気でないんだ。
ニット帽の男はケイを拘束したまま、じりじりと更に後退していく。
その進行方向にはトンネルが、更には施設内に侵入するための扉が大きく開かれている。
このままだと施設内に侵入されてしまう。
まずい、と思った。
遅かれ早かれ、ニット帽の男は警察によって取り押さえられるだろうけど閉鎖空間に逃げ込まれるとその時間が長くなる。
捕獲するまでの時間が長くなると、ケイに危険が及ぶ可能性の時間も長くなるということだ。それは避けたい。
ニット帽の男が少しずつ後退するのと同じように、俺もヤツを刺激しないように少しずつ前進をしていた。
だけど、これではちっとも距離は縮まっていない。
俺は少し冷静になって現状を再確認した。
ケイは国王の脅迫の材料として現在拘束されている。
ニット帽の男はここでケイを殺すことはない。
殺してしまっては契約不履行になるからだ。
なら、あのナイフが振るわれる機会はない――
俺はポケットから『ボトルラムネ』を取りだして、握りしめた。
今回は『スイッチ』を入れるまでもない。
すでに臨戦態勢だ。
このラムネはもはや気休め。
俺の背中を後押しするだけのガジェットに過ぎない。
あとは機会さえ来れば――
そしてその機会はすぐにやってきた。
比較的に近いところからけたたましい音を立ててパトカーのサイレンが聞こえてきたのだ。
びくり、とニット帽の男、ケイ、あおいさん、竜也がほぼ同時にその音に反応した。
だけど、俺は全く別の行動に移っていた。
ニット帽の男に向かってダッシュを仕掛けたのだ。
俺と男の距離は約百メートル。
全力疾走で約十三秒の距離だ。
しばらくパトカーのサイレンに意識が向いていた男だったが、すぐに俺の行動に気が付いた。
そしてその驚愕の表情が、嘲笑の表情に切り替わるのはわずかな間だった。
男は俺が突進するのも動揺せず、敢えて待ち構えている風だった。
ケイを拘束する手も緩めていない。
だけど、この辺りは俺も予想の範疇だ。
相手はプロ。
俺は素人。
これくらいのレベルの差はあるだろうと思っていた。そこで、だ。
俺は二メートル直前まで到達した瞬間、右手に握っていた物を男の顔面に投げつけたんだ。
そう、『ボトルラムネ』の粒だ。
男の意識がほんの一瞬でも削がれれば良い。
そういう意図があった。
だけど次の瞬間、男の表情を垣間見た時。
ぞくり、と俺の身体は総毛だった。
そんな行動は無意味だった。
男は顔にぶち当たるボトルラムネなどに全く頓着せず、目を見開いたまま、しっかりと俺の動作を見つめていたのだ。
やはり相手はプロだった。
素人の浅知恵なんて、敵うわけはなかった。
だが、勢いの付いている俺は立ち止まるわけには行かない。
勢いそのままに、重心を低くして男の両足めがけて突っ込んでいった。
ラクビーで言うタックル、柔道で言う双手狩りだ。
が、その時、俺は身体が引きつるような戦慄を味わう――
姿勢を低くして視線を切っていたので、詳しいことは分からない。
ただ、男はケイの身体を拘束したままフリーだった片方の手を魔法のように動かし、俺の左腕を絡め取ったんだ。
そして完璧に肩関節を決められたまま、俺は大地に叩きつけられた。
地面に這わされた瞬間、俺は咄嗟に男の顔を見上げた。
男は全くの無表情で何の躊躇もなく、次の動作に移ろうとしていた。
つまり、折られる!
俺は襲いかかってくる痛みに備えるべく強く目を閉じた――
……だが、いつまで経っても俺の右肩に痛みは襲っては来ない。
更にはどさっと何か重い物体が倒れる音がして、俺の右肩の拘束が外れた。
「え?」
恐る恐る目を開ける。
俺のすぐ傍らには、男が失神して倒れている。
そして呆然と立ち尽くしているケイの姿。
俺は中腰になって辺りを更に見回すと、遙か遠くに、今まさにボールを投げ終えた後のような格好の竜也が居たことを確認した。
そして俺は自分の足下に硬球の野球ボールがころころと転がっていることに気が付く。
硬球ボールにはなにやら文字が書いてあった。
『竜也くんへ 登美丘遙香』
「……投げれた」
竜也は自分の肩をいたわるようにさすりながら、ほっとしたようにそう呟いていた。
竜也のフォローだったのか……。
竜也に対して右腕を上げて感謝の意を表すと、俺はその傍らで地面に崩れ落ちているケイに急いで駆け寄った。
ケイの両肩と顎は、薫の時と同じように関節が外されているようだ。
両腕をぶらんとさせてケイはその両の目にいっぱいに涙を溜めながら、何かを訴えかけるように俺に向き直った。
だが、その口から意味の分かる言葉が発せられることはない。
でも、言いたいことは直球で俺の心に伝わった。
俺は優しくケイを抱きしめる。
「大丈夫だから。もう大丈夫だから」
ケイは何度も何度も頷く。
そしてみっともなく意味不明の言葉を漏らしながら、俺の胸にもたれ掛かっていた。
複数のパトカーの停車する音が聞こえてきた。
そしてその後に警官隊が突入して来る。
その様子を見て、ケイを抱きしめながら、俺はようやく安堵の息を漏らした。
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