第3話 ケイの留守番
次の日、目覚まし時計の音で目覚めた。
……いや、嘘だ。
目覚まし時計のアラームが鳴る前から俺は起きていた。
アラームが鳴ったと同時にそいつを沈黙させると、二度寝をしてしまいそうな弱い心を必死に叱咤しつつ、起き上がる。
目がしょぼしょぼする。
あくびが止まらない。実は一睡も出来ていない。
その原因は、隣の部屋で寝ているケイにある。
昨晩見た、あの光景が目に焼き付いて離れない。
年齢的には中学生くらいのくせにして、その割には発達した胸と腰。そして女性的な身体のライン。
最初はジーパンとだぼだぼの上着のせいで全く気付かなかったが、正真正銘の女の子だった。
しかし、さすが外国人だ。発育加減が日本人と違う。
そしてそれは日本のただの平均的男子高校生にとっては刺激が強すぎた。
風呂場から出てきた時は、さんざん怒っていたケイだが、やはり疲れていたのだろう。
隣の部屋に布団を用意すると「もう寝るナ」と言って音速で夢の世界に旅立ってしまった。
戸惑ったのは俺だ。隣の部屋とはいえ、思春期の女の子と一つ屋根の下で寝るなんて初めての経験なのである。
おまけに時々「う、うん」なんて悩ましい声が聞こえてきたり、寝返りうつ衣擦れの音が聞こえてきたり、風呂上がりの良い香りが漂ってきたりと、俺の眠ろうとする努力を、ほど良いタイミングで摘み取ってくれる。
そんなこんなで結局、朝になってしまった。
俺はこれから学校に行かなくてはならない。
ただ、不幸中の幸いなのが、学校には『授業』という名を冠する睡眠時間がたくさんあるってことだ。
「アルーンサワッ……おはようナ」
隣の障子ががらっと開き、ケイが上半身を起こして背伸びした。
そして「ふああ」と大きなあくびをする。
ケイは今はTシャツを身に纏っている。
背伸びの拍子でその膨らんだ胸が強調された。
「ああ、おはよう」と言って、俺は咄嗟に目を逸らす。
そして何かをごまかすかのように、むやみにあわただしく登校の準備を始めていた。
そんな俺をケイは布団の上からぼうっと眺めている。
俺は登校準備をしながら、ふと思った。
そうか。ケイの朝食のことをすっかり忘れていた。
俺はいつも朝食を食べない。
ケイの日々の習慣は分からないが、普通は食べるだろう。
だが、昨日の夜はそこまで頭が回らなかったので、朝食の準備なんてしていない。
俺は売り上げの中からケイに二千円札を渡すことにした。
「ごめん、ケイ。俺はこれから学校に行かなくちゃいけないんだ。近くにコンビニがあるから、これでご飯でもなんでも食べてくれ。大丈夫か?」
早口でそこまでまくし立てた。
にも関わらずケイは俺の日本語をきちんと聞き取ったようだ。
「OKナ。コンビニは私の国にもあるナ。慣れているナ」
「良かった」
それを訊いてほっとした。コンビニでの買い物の仕方を一から説明しなくてはいけないのか、と思っていたからだ。
「じゃあ、行ってくる。あ、これは鍵だけど、外出するときはちゃんと戸締まりしてくれな」
「まかせてくれナ」
ケイの自信満々な表情に、安堵の息を漏らして、俺は学校へと出発した。
ばあちゃんのせいで、やっかいごとが増えたけど、そして寝不足だったけど、割と気分の良い自分がいることに気が付いていた。
なんなんだろう、この気持ちは。
授業終了のチャイムと同時に、俺は手早く教材をまとめてカバンを肩に引っかけた。そして足早に教室を退室しようとすると、
「耕平、今日カラオケいかねーか」
とコキンの声が後ろから飛んで来た。
辛うじて教室の出口で踏みとどまり、言葉を返す。
「悪ぃ。今日はこの後、用事があってだな」
「なんだ耕平付き合い悪いな。さては彼女とデートか。なんて、な。ガハハハ!」
と爆笑しながら突っ込んでくる。
当然、付き合いの悪い理由は、駄菓子屋『すおう』なのだけど、なぜか脳裏には、みーちゃんの顔がわずかに過ぎる。
俺は心の中でそのイメージをあわてて消去した。
みーちゃんは単なる幼なじみで――トップアイドルではあるけれど――彼女でもなんでもない。
ただ、最近親しくしている同年代の女性であることは確かだ。
それに続いて浮かんだのはサイアム王国からの珍客、ケイの顔だ。
昨晩見た風呂場での光景が脳裏にまざまざと蘇る。
……ヤバい。落ち着け俺。
一瞬、動きを止めた俺を見て何を思ったのか、コキンはいきなり顔面を蒼白にさせた。
「おい。まさか、お前……。彼女、いるのか?」
とたん、おろおろとまるで泣き出しそうな顔をして俺の足にしがみついてきた。
「なあ、おい嘘だ。嘘だと言ってくれよ。俺を置いていかないでくれ。いつまでもこの恋愛最下層のヒエラルキーに一緒にいてくれよおう」
なぜか、いつの間にかわけのわからないカテゴリーに区分けされていたようだ。
俺は足にしがみついて、おいおい泣くコキンを必死に引き離して言ってやった。
「ちょ、違うって。今、ばあちゃんの店を手伝ってんだよ。仕事だよ。女なんかいねえよ。逆に紹介して欲しいくらいだ」
必死にそう説明するとコキンは「本当か?」とその目を潤ませて上目遣いで俺の事をみつめてくる。ああ、うざったい。
「本当だ」
その様子にようやく納得がいったようだ。
コキンは俺の足から離れて、今までの情けない態度が嘘のように、ポーズを取って直立する。
「いやあ、そうだと思っていたぜ。なるほど、バイトをやっていたんだな。それなら納得だ。頑張れよ」
そう言ってぽんぽんと俺の肩を叩くコキン。
バイトか……。まあ、バイトって言えばバイトなのかな。
ただ、一定収入が保証されないバイトだけど。
しかし、このコキンに登美丘遙香と幼なじみだ、と言ったら一体どれだけ大騒ぎされるかと思うとぞっとする。まあ、言わないけどね。
コキンに呼び止められたにも拘わらず、割と早めに帰宅出来た。
それは電車以外の場面は全て早歩きで移動していたからだ。
今日、帰宅することを急いでいたのは別に『すおう』のためではない。それは最近の日常なので、もはやなんとも思っていない。
今日、気が急いていたのは、やっぱりケイの存在のせいだ。
見知らぬ国にたった一人でやってきて、更にその上、見知らぬ家で一人取り残されているのだ。心細いことこの上ないだろう。
正直言って、気が気でなかった。
二千円だけ渡してきたけど、ちゃんと朝食、昼食を摂っただろうか。そして留守番を頼んだ『すおう』は無事だろうか。果たして――
「ただいま! ケイいるか?」
『すおう』に到着するやいなや、扉を開け放ち、そして叫んだ。
返事はない。
だが、がさごそと人が動く気配を感じるので、誰かがいるのは間違いがない。ケイか? それとも?
扉から足を踏み入れ、そして『すおう』の店内スペースに足を踏み入れた。
人の気配はそっちからしていたからだ。
「ケイ?」
店の電気をぱちりと入れるとそこに浮かび上がったのは、大量の駄菓子の包装紙の残骸とそしてその中心でもしゃもしゃと何かを咀嚼しているケイの姿。
ケイは俺から背中を向けてしゃがみ込んでいる。
やがて俺の存在に気が付いたのか、首だけをこちらに向け、あの何の屈託のない笑顔をその顔に浮かべた。
「おかえりなさいナ」
……いや、あの、お前な。
その惨状を目の前にして、いろいろな文句を口にしたかったが、どれもこれも身体の外へ出て行かなかった。
ケイは立ち上がり、俺の元へとことこと歩いてくると、上目遣いで俺の事を見上げる。
「日本のお菓子はどれもこれもおいしいナ。私、日本に来て良かったナ」
「ああ、そうか。それは良かったな。……ただ、これ以上、俺の稼ぎを減らさないでくれ」
そう言ってその場で崩れ落ちる俺の姿を、ケイはきょとんとした表情で見ているだけだった。
「ずぞぞぞ、捜し物は、ずぞぞぞ、こういうことナ。私の姉さんの話ナ」
本日の『すおう』の営業が終わった後、俺はベビースターラーメンにカレーを入れてケイに差しだした。
ケイは目を輝かせてそれに飛びつく。
昨日、たまたまお袋から貰ったカレーを利用したオリジナルレシピがいたくお気に召したらしく、今日も同じメニューのリクエストとなった。
結局、ケイは渡した二千円を使っていなかったらしい。
ケイに食い散らかされた『すおう』の駄菓子は二千円分には圧倒的に到達していない。
結果的に、ケイは経済的に俺のいない時間を過ごしてくれたことになる。
健康的にはよくないと思うけどな。
ケイは、ベビースターラーメンを食べながら、「姉さんから頼まれた捜し物」の説明を訥々と始めた。
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