第6話 車イスの女の子
その後ばあちゃん担当の看護師さんに会うことができ、その病状を訊くことが出来た。
ばあちゃんの回復は順調らしい。もう一月もすれば、本格的なリハビリに入れるそうだ。
ほっとした俺たちは足取り軽く、帰途の道に着くために病院の廊下を歩いていた。
「久しぶりに、ハルエさんに会えて嬉しかったナ」
「ばあちゃんとはサイアムで会ったのか?」
「そうナ。私たちファミリーが事件に巻き込まれていたところを、ハルエさんが助けてくれたナ」
……ばあちゃん。海外旅行まで行ってなにしているんだよ。相変わらずのスーパーグランドマザーっぷりだ。
俺は呆れて肩を竦めた。そして階下に降りるためにエレベーター室の前に辿り着く。
そこでふと、窓の外を見た。窓の外には船橋の町並みとそのど真ん中を流れる海老川が見える。
……海老川?
俺は窓辺に寄った。そして窓の外をじっくりと観察する。
おいおい。この病院って……。
「あれは、昨日三人で見に行った場所ナ」
ケイがいつの間にか傍らに来て呟いた。
そうなのだ。
昨日、俺と竜也とケイで実地検分した海老川沿いの遊歩道がすぐ近くにあったんだ。
昨日はこの病院の存在にまで気付かなかった。
恐らく、鉄道の高架橋で視野が遮蔽されていたから、この病院が見えなかったせいだと思う。
とたん、俺の頭の中のスイッチが勝手に入った。
情報が、そして手がかりが揃った証拠だ。ラムネを囓るまでもなかった。それともさっきばあちゃんの病室で囓ったラムネの影響がまだ残っているんだろうか。
川沿いの狭い遊歩道でボール遊びをする体力の無い女の子。
その子には、お母さんが必ず迎えに来る。
そしてある日を境にぱったりと現れなくなった。
近くにある病院――。
悪いアイデアが次々に頭の中に浮かんでくる。
まさかとは思うが、その母子がわざわざ船橋にまで電車で来る用事とは、この病院では。いや。
頭を激しく横に振った。
そんなわけない。それでは、その女の子も竜也も救われなさ過ぎる。そんなわけは――
その時、目の前のエレベーターの扉が開いた。
エレベータールームからは車イスに乗った女の子と、年配の女性が降りてきた。
二人は首から『面会カード』を掛けていた。
車イスに乗った女の子は不慣れながらも、懸命にそのタイヤを掴んで動かし、車イスを操ろうとしていた。
年配の女性はその様子を心配そうに見守っている。
女の子は青いジャージを身に纏い、そして髪型はポニーテールだった。そして車イスの手すりには網に入ったサッカーボールが掛けられていた……
「コーヘー……」
顔を真っ青にしたケイが俺の上着を引っ張った。
俺はそれには答えず、車イスの女の子たちと入れ替わりにエレベーターに乗った。
ケイはあわてて俺に着いてくる。
そして扉が完全に閉まり、動き出したことを確認してから、俺はゆっくりと口を開いた。
「もしかして、あれが竜也に言っていた女の子かな。竜也が言っていた外見描写とそっくりだ」
「たぶんそうナ。でもコーヘー。これはきっと竜也に言わない方がいいナ」
悲しげにそう首を振るケイに俺は首を傾げた。
「え? どうして?」
「そんなこと決まっているナ! 怪我のことを慰めてくれた女の子が、自分も怪我をしていた、なんて訊いたらショックを受けるナ! コーヘーは人の感情が分からないのカ!」
「大丈夫だよ、ケイ。だってさ……」
俺がその後の言葉を続けようとしたその時、いつの間にかエレベーターは止まっており、軽快な音を立ててその扉をゆっくりと開いた。
そして俺はそこに予想外な男が居たことに気がつく。
顔面を蒼白にして、今にも倒れそうなほどのショックを受けたような表情をしているその男子高校生は――
――竜也だった。
その表情を見る限り、何が起きたのか容易に想像出来る。
竜也は見てしまったのだ。
あの女の子が車イスに乗っているシーンを。
そしてこの状況から逆算できることは、やっぱりあの車イスの女の子は竜也の探していた女の子だったというわけだ。
その場に崩れ落ちそうなほどに足を震わせている竜也に俺は近寄った。
傍らに居るケイは両手で口を押さえて話すことも出来ないようだ。
どうやらここは俺が竜也の支えになってやらなくてはいけないのだろう。
「竜也」
声を掛けると竜也はびくっと怯えたような目で俺を見た。
その唇はがちがちと震えている。酷いショックを受けている。身体が自分の思い通りにならないんだ。
俺はもう一歩足を踏み出し、そしてもう一度声を掛けた。
「竜也」
「ひっ!」
竜也は突然踵を返して脱兎の如く逃げ出した。
その行動の意味が全く理解出来なかったが、ここは放っておいて良い場面ではない。
俺もすかさずダッシュをかまして竜也を追いかけた。
ばりばりのスポーツマンの足に俺が追いつけるだろうか、と心配になったけど竜也はなんなく取り押さえることが出来た。
がくがくと震えた足ではスピードを出すことが出来なかったんだ。
「あの子が、あの子が……まさかあの子が入院して……いたなんて……あの子が」
まるで呪文を唱えるかのように焦点の定まらない視線でそう呟く竜也を見下ろして俺は大きくため息を吐いた。
俺は竜也に言わなくてはならない。
そう、さっきの車イスの女の子の真相を。
俺は竜也の耳に口を近づけて、一語一語しっかりと区切るように言ってやった。
「竜也、お前は勘違いをしている。あの女の子は怪我をしていないし、ましてや入院なんかもしていない」
と。
竜也は俺の言葉の意味を理解していなかったように俯いていたが、しばらくして急に大きく目を見開いて、俺のこと見上げてきた。
「え?」
その口をぽかんと半開きにしたまま。
次の日の夕刻。
次第に子どもたちの客足が途絶え初め、夕闇に辺りが包まれ初め、閉店時間が近づいてくる頃、俺はわけもなく緊張していた。
それはケイも同じだったようだ。いつもは座敷で、ぼけっとテレビを眺めているだけなのに、今日は店先に人が通る度にいちいち反応しているからだ。
座敷の壁に掛かっている時計を眺める。
六時半。
いつもならそろそろだ、と身構えていたその時、そいつはいつも通り唐突にやってきた。
「よ」
相変わらず竜也は無骨な挨拶をして、ずかずかと店内に入り、いつも通りに『ペペロンチーノ』をつかみ取ると俺に七十円を手渡した。
そして店の隅に置いてあるポットで勝手にお湯を入れていく。
三分はあっという間に過ぎ、竜也はカップのフタをはぎ取り、フォークで中の麺を啜り始める。はふはふという竜也の麺を頬張る音だけが『すおう』響く。
そしてきっちりスープを飲み干してから、空容器をゴミ箱に捨てて、俺の目をしっかり見つめ返してきた。
「……あの女の子に会うことが出来たんだ」
竜也は、なんてことのないように、ぼそりと言った。
そう、まるで今日の朝、何を食べたかを報告するかのように、なんてことなく。
「……今日な、例の海老川沿いの遊歩道をロードワークしていたんだ。そしたら、久しぶりにあの子が居たんだ」
「そうか」
俺はにっこりと口元に笑みを浮かべてそう言った。
竜也もそれに応じて微笑む。
「あの子は車イスに乗った弟を押していたんだ。どうやら、今日も弟の見舞いに来ていたみたいだ」
俺は深く首肯した。
良かった。俺の予想通りだった。
俺はあの後、竜也に自分の推理を話したことを思い出す。
*
「あの女の子は怪我もしていないし、入院もしていないよ、竜也」
その理由はいくつかある。
まず彼女は車イスの運転に慣れていなかったということ。
実はこれは俺もばあちゃんの車イスを操作するまでは気がつかなかったことなんだけど、車イスには、ハンドリムという自分で運転するための丸いてすりが付いている。
本来ならその手すりを握って車イスを動かさなくてはならない。
でもあの女の子はそんなことはまるでそんなことは知りもしないように、タイヤを直接握って動かしていた。
車イスを日常的に動かしていないことは明らかだ。
あともう一つ彼女が入院をしていないと判断した決定的な理由がある。
――彼女はその首から『面会カード』を下げていたんだ。
入院患者が首から『面会カード』を掛けることなど百パーセントあり得ない。
そう考えるとそこからの論理の構築は容易だった。
彼女自身が入院患者ではないとすると彼女はなぜ車イスに乗っているのか。
恐らくそこに入院している自分の親族、それも兄弟か姉妹の使っている車イスに興味半分で乗っていたというのが真相だったんじゃないだろうか。
付き添っていた母親の心配そうな表情は実は呆れたような表情だった、というわけだ。
こう語ったところ竜也は「へ?」と間抜けな声を上げ、そしてそれから約一分の沈黙後、唐突に笑い出したんだ。
「あはは。そうか。あはは……バカだな、俺は。そうか、あはは」
そして自嘲気味にひとしきり笑った後、ようやく落ち着きを取り戻した竜也は、こうぼそりと呟いたんだ。
「……良かった」って。
*
竜也は嬉しそうに口元に笑みを浮かべたまま、もう一つ『ペペロンチーノ』に手を出した。
そしてカップのフタをぺりぺりと剥がすと湯を入れ始めた。
そんな竜也に俺は言葉を掛ける。
「お礼は言えたのか?」
「……ああ、ばっちり。で、俺の肩が良くなったことを話したら、『言った通りでしょ』っていい気になりやがった。……でも、車椅子に乗っていた弟くんが、それを訊いて目をきらきらさせていたな。きっと自分に重ね合わせたんだろうな。まあ良かったかな」
俺とケイは目を合わせ、にっこりと微笑んだ。
そして竜也へと目を移す。竜也はいつも通りペペロンチーノを食べている。
だけど、その身体から醸し出されている雰囲気は以前と異なった。
身体全体が膨らんでいるように感じる。
まるでその身体の中から生まれるエネルギーが無尽蔵に湧き出して、抑えることが出来ないかのように。
これが本来の竜也だったんだろう。
持っているオーラが違う、というのはこういうことを言うのだろう。
俺は全く知らなかったことだけど、竜也って実は凄いピッチャーなのかも知れない。
そんな竜也のことを見つめていて、ふと思ったことがある。
それはセーターに付いたせんべいのかけらみたいに、以前からウザく俺の脳みそに引っかかっていたものだ。
俺は、その疑問を思わず口に出していた。
「……ところでさ。竜也はニット帽って被っているか?」
「ニット帽? いや、野球帽以外、被らないが」
「ロードワークの時は?」
「被っていない。それがどうした?」
「いや、別に」
……まあ、きっとたいしたことがないんだろう。
俺は頭の中のせんべいのかけらを無理矢理払いのけると、竜也とケイとのたわいもない会話に没頭していった。
すでに日はとっぷりと暮れていた。
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