第3話 サッカーボールの女の子
翌日、辺りが暗くなって来て、夕焼けの橙色が群青色に駆逐され始めた時、ヤツは再び現れた。
ここ一週間毎日来ている。皆勤賞ものだ。
ヤツは判を押したように『ペペロンチーノ』を棚からつかみ取り、俺に七十円を渡した。
そして定位置の店の隅に行き、来店する子どもたちを凝視しながら麺を啜っている。
不気味だ。
今日も制服の上から赤いジャンパーを着込んでいる。どこを取っても警官の言っていた特徴にそっくりだ。
ごくり、と俺は唾を飲み込んだ。そしてポケットに入っている携帯電話をまさぐる。
いつでも通報出来る体勢をとろうと考えたのだ。
と、その時だ。ヤツが突然、いつもと異なる行動を取ったのは。
何か決心したかのように、顔を上げると、俺を直視し、そして口を開いた。
「……あの、よ」
びくり、と俺の身体は跳ね上がった。
「な、なにかな?」とかすれ声で必死に応対する。額には暑くもないのに、勝手に汗がうっすらとにじみ出していた。
「お、俺さ……」
ヤツは何かを絞り出すように言葉を切れ切れに話す。何を言い出すんだろう。俺は、ごくりと唾を飲み込んで次の言葉を身構えた。
「とある女の子を捜しているんだけどよ……」
その瞬間、俺と俺の後ろで耳を澄ませていたケイの顔面が蒼白になる。
間違いがない。百パーセントだ。本当に変態さんだったー!
俺はすばやく右手をポケットに入れた。そして携帯電話を握りしめる。
だが、ヤツの言葉はその後にまだ続いたのだ。
「……俺、その女の子に世話になって、さ。お礼を言いたいんだ……」
「え?」
その言葉に俺は携帯電話を握る力を緩めた。
*
……俺、さ。加藤竜也って言うんだ。近くの国立船橋高校だ。
知っているだろ? うん? あ、そうそう。サッカーやバレーボールでよく全国大会に出場する高校だよ。
……野球部は、ここ数年甲子園から遠ざかっているけどな……。
俺はそこの野球部なんだ。二年生。
俺はもともと栃木の出身なんだけど、スポーツ推薦で高校に入学したんだ。
え? そう。野球でだ。ピッチャーだよ。さすがにスポーツ名門校だけあって、先輩にも凄いピッチャーが何人も居るんで、一年の時は全然活躍出来なかったけど、二年生になってからはエースになって、バンバン投げていたんだ。
夏の大会も良いところまで行った。そう、良く知っているな!
県大会準決勝まで行ったんだよ。でも、そこまでだった……。
準々決勝で肩を……やっちまったんだ。……俺が言うのもなんだけど、エースが抜けてしまったチームはバランスを崩して、さ。
他のピッチャーに負担を掛けてしまって、そして監督の用兵にも迷惑を掛けた。
その結果……微妙な差だったんだけどな――準決勝敗退だった。
俺の肩は、医者に言わせると、治るレベルのものだった。ほっとしたよ。再起不能みたいな重傷じゃなくて良かった。
治療してリハビリに励めば、三ヶ月で治るんだってさ。
俺はその言葉を信じたよ。定期的に医者に行き、肩以外の筋力アップを心がけ、毎日ロードワークも欠かさず行った。
でもボールを投げちゃいけないというのは辛かった。毎日ボールを握りしめては、壁に向かって投げつけたい衝動に駆られた。
でも完治するまでに無理な投球をしたら、悪化してしまうかも知れない。ひょっとしたら今度こそ再起不能になってしまうかも知れない。
でも、投げたい。
……俺にとって、投げることは息をすることと同じなんだ。
投げられないと、苦しくてたまらないんだ。
光の差し込まない真っ暗な部屋を手探りで進んでいるような感じがするんだ。
治っているのか、治っていないのか。俺の肩はほんとうに元に戻るのか、あの速球は投げられるのか。
昔、監督に、練習を一日休むと他の選手より三日上達が遅れると言われたことがある。
その計算で言えば、三ヶ月休んでいる俺は、他の選手より、九ヶ月も上達が遅れていることになる。
他のピッチャーは速球や変化球、コントロールに磨きを掛け、俺の上を行こうとしているのに。並み居るバッターたちは俺の球なんか簡単に打ち崩せるようなバッティング技術を身に付けようとしているのに。
それなのに、俺は毎日、走っているだけ。
時々、思い出したように心の悪魔みたいなヤツが這い出してくるんだ。
そいつは俺の心の中で絶望を囁く。
お前はもう投げられないんだ。投げられたところで元には戻らないんだ、って。
俺はいつも、ここの近くの川――海老川っていうのか?
その海老川の遊歩道を毎日ロードワークしているんだけど、時々、その悪魔が心の中にいっぱいになって、足が動かなくなることが良くあるんだ。
そして心が落ち着くまで、川面を見ていて、時間が過ぎてしまうんだ。
で、そんなことが続いたある日、俺はその女の子と出会ったんだ。
その日も、苦しくなって足を止めて、心が落ち着くまで川面を眺めていたんだ。
海老川には鯉や亀やカモが泳いでいて、そいつらを眺めている間だけは余計なことを考えずに済んだ。
あいつが心の中を占領することはなかったんだ。
そんな時だ。俺の右足に何かがぶつかってきたのは。
それはサッカーボールだった。
ふと顔を上げて、ボールが転がってきた方を見てみると青いジャージ姿の女の子がいた。
女の子は小学校高学年くらいだったかな。髪の毛は肩くらいで、スポーティーな子だった。
女の子は手を挙げて、ボールを蹴り返すように要求していた。
俺は、野球部だけどスポーツ全般は得意なんだ。軽く足先でボールを拾い上げると、そのままふわっと浮かして女の子の元へ蹴り返した。
俺の蹴り返したボールを軽やかにトラップした女の子は嬉しそうに笑った。
その日以降、俺はその子とその場所でサッカーをするのが日課になった。
女の子とはほとんど会話を交わさなかった。
だから互いに名前も知らない。
だけど、ただ一度だけ会話をしたことがあるんだ。
ある日、その子はぼそりと訊いてきたんだ。
「……サッカー選手なの?」と。
俺は首を横に振って答えたよ。
「いや、野球をやっている」
「じゃあ、キャッチボールの方が得意?」
それに対して「ああ」と答えようとして、口ごもってしまったんだ。
だって、その時の俺はキャッチボールすら出来ない野球部のお荷物だったんだから。そんな状態なのに「キャッチボールの方が得意だ」なんて言って良いものなのか。
「……今、肩を怪我しているんだ」
俺は思わず口走ってしまったことを後悔した。
こんな小さな子に、何を話しているんだろう、と自問自答したさ。
だが女の子はそんな俺の様子なんか気にせず、言った。
「……病院に通っているの?」
「ああ。……元に戻れば良いんだけど」
『戻る』。
その言葉を口に出したとたん、またあいつがやってきた。
あの黒い悪魔が頭をもたげて来た。
「戻らないよ」悪魔はそう囁いて心の中を真っ黒に染め上げ始める。
息が出来なくなる。俺は苦しくなって胸を押さえて片膝を突いた。とその時だった。
「もっと良くなるんだね」
女の子は何のためらいもなく、そう言ったんだ。
「え?」
思わず聞き返した。
それは俺にとって全くの予想外の言葉だったんだ。
そんなことは誰からも言われたことはなかった。
戸惑いまくって、固まっている俺に対して、その子はまるで当たり前のことを話すかのように言葉を続けた。
「怪我をして病院に行っているんでしょ。だったら『元に戻る』んじゃなくて、もっと良くなるに違いないよ。放っておいたら『元に戻る』だけだと思うけど、病院に行っているんなら『もっと良く』なるよ」
そう言ってなんの屈託のない笑顔で俺を見つめたんだ。
その瞬間、俺に取り付いていた黒い悪魔はすうっと消え失せていった。
不思議だった。
いつもあれほど俺を悩ませていたあいつが、消えてしまったんだ。
まるで太陽の光を浴びた吸血鬼みたいに。
「……だけど、その日以降……その子には会うことが出来なくなった。いつもと同じ時間に同じ場所に行ってもいなかった。他の時間に行ってもいなかった。俺は一言お礼を言いたかったんだ」
*
そう言ってその男、竜也は右肩をぐるっと回す。
「あの子の言う通り、『もっと良くなった』かは、分からない。でも軽いキャッチボールは出来るようになったんだ」
「……」
俺とケイは竜也が話している間、一言も口を挟まなかった。
というより口を挟むことが出来なかったのだ。その心の中から滲み出たような物語に圧倒されて。
俺は痛烈に反省する。
そして心の中で謝った。
ごめん。変態だと思ったり、不気味なヤツだと思ったことは取り消させて欲しい。
「その女の子の特徴とか分からないかな? ひょっとしたらもっと早い時間に来ている子かも知れない」
「……青いジャージを着ている。サッカーをしている時はいつも髪の毛をポニーテールに束ねていた。サッカーはそれほど上手いわけじゃなかった。いや、ボールさばきは上手かったが根本的な体力、筋力、瞬発力がないような感じだった。すぐ息が切れて実際俺たちがボール遊びをしている時間は正味五分もない」
「もっと外見的な特徴は?」
「……すまん。上手く言い表せない。……そう言えばいつもお母さんが迎えに来ていたな。それで家に帰って行った」
「海老川のどの辺? どっちの方向に向かって帰って行った?」
「……ここからずうっと北へ遡っていたところだけど……ごめん。やっぱり上手く説明出来ない。俺、そもそも地元の人間じゃないから」
「じゃあ、もうすぐ閉店時間だから、終わったらその場所に行ってみよう。何か分かることがあるかもしれない」
竜也はその言葉に目を丸くした。
「……いいのか?」
「いいもなにも、海老川だろ? ここから歩いて五分もしないところだし。やることもないし、付き合うよ」
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