第6話 姉の手紙

「ケイ! 行くぞ!」

 俺は『すおう』に戻るなり、扉を叩き開けてカバンを座敷に放り投げた。

 しかし一向に返事が返ってこない。外出でもしているのか? 

 そう考えてながら座敷に足を踏み入れると、部屋の隅で小さくなって丸まっているヤツがいた。

 そいつはぶるぶると震えているようだ。

 ケイだ。ケイは不意に顔を上げると瞳を涙で潤ませたまま、いきなり飛びついてきた。

「コーヘー! 怖かったナ!」

「うわっ!」

 突然、ケイに飛びつかれて俺の心臓は十センチくらい跳ね上がった。正直、さっきの地震の時よりびっくりした。華奢だけど女の子らしい柔らかい身体が服を通して感じられる。暖かい体温が伝わってくる。

 だけど俺はそのむくむくと沸き上がってくるそんな下心を無理矢理抑え込む。

 サイアム王国は地震がほとんど無い国だ。

 そんなケイが来日していきなり地震に遭遇したんだ。驚くのも無理はない。俺はケイを安心させるために、優しく背中を叩いてやる。

「ケイ、大丈夫だ。日本じゃ、あんなのはしょっちゅうある。たいしたことない」

「……そ、そうなのか? 家が潰れるかと思ったナ」

 まだ不安なのかケイは目に涙を溜めたまま、そう呟くように言った。

 さもありなん。こんな狭い部屋に閉じこもっているから、恐怖が増幅するんだ。外に出れば、心も落ち着くはず。

「ケイ、行くぜ。支度しろ。お前の姉ちゃんの探していた本屋に行くぞ!」

「?」

 ケイは潤んだ瞳のまま、怪訝な表情で俺の顔を見返しながらも、あわてて立ち上がった。


「ケイ。お前の姉ちゃんが日本に来たのって、七年前のいつだ?」

「日にちまで覚えていないけど、確か三月ナ」

「ビンゴだな」

 俺は確固たる足取りで歩を進めていた。候補の店舗は三軒だ。その内の一軒へと向かう。それは船橋駅の直近にある。

「ビンゴってどういうことナ。コーヘー少しは説明しろナ。さっぱり分からないナ」

「仕方がないな」

 俺は歩きながらケイに説明してやった。頭の中に浮かんでいるウインドウが次々に入れ替わっていく。

「初めから話をするぞ。そもそもケイの姉ちゃんが船橋で足止めを食らった理由。それは地震だ。アースクエイク。東日本大震災だ。それは七年前の三月十一日に起こった。……つーか、さ。そもそもケイの姉ちゃんが、今回の依頼に絡めて大震災の話題をしなかったことが不思議なんだけど。まあ、ケイの姉ちゃんは話をするのがへたくそっぽいからな。おおかたその『素敵な本屋の店主さん』のことを主張するあまり、地震については別の話題になったんだろうな」

「あ」

 ケイは何かに気が付いたように口を半開きにする。

「……確かに姉さんは地震の話はしたナ。でもそれは親切にして貰った本屋さんとは別の時に訊いたナ。同じ日の話とは思ってなかったナ。コーヘーが言う通り、姉さんは話の仕方が下手ナ」

「だろ」

 俺は大きく頷く。そして話を続ける。

「東日本大震災当日、首都圏は交通機関が完全に麻痺していた。そして一般の電話回線は輻輳(ふくそう)で繋がりにくくなっていた。あ、輻輳っていうのは、大勢の人が一度に電話を掛けたせいで繋がりにくくなる現象のことだ。まあ、電話の渋滞みたいなもんだな。それに加えて、ケイの姉ちゃんは携帯電話を使える状態じゃなかった。なんとかして本国に連絡を取りたがるのは当然のことだ。あと、これなら『雑然としていた本棚』の説明も付く」

「……あ、地震で本棚から本が落ちてしまったカ」

「正解だ。とりあず、応急的処置として、落ちた本を本棚に戻しただけの状態の所をケイの姉ちゃんは見たんだろう。で、その親切にして貰った本屋の候補の一つが、ここだ」

 タイミング良く俺たちは目的地に到着した。

「ここはどこナ?」

 日本語は喋れるけど、読むことが出来ないケイが、その店の看板を見て、困惑の声を上げた。

 俺はご丁寧に説明してやらねばならない。

「ここは、漫画喫茶だ。ネットカフェと言った方がケイには分かるか?」

「え?」

 ケイは、その漫画喫茶『漫太郎(まんたろう)』の看板を見返して呆然としていた。


「どうして、ネットカフェにこんなにコミックスがあるナ? ここは本屋さんじゃないのカ? それとも貸し本屋カ?」

 ケイは店内に入るなり、辺りを見回して、驚きの声を上げる。

「ネットカフェに漫画が大量に備え付けられているのは日本くらいだって訊いたことがある。パソコンブースまで行かないで、この辺りだけに居たら本屋だと思ってしまったのも仕方がないのかも知れないな。とにかく、訊いてみよう」

 俺たちは受付に直行した。

 受付に立っていて俺たちを迎えたのは三十代くらいの男性。清潔そうにしており、それなりにイケメンだ。

「いらっしゃいませ。当店のご利用方法はご存じですか?」

「いや、俺たちはお客で来たわけではなくて。一つ、訊きたいことがあって来たんですけど」

 俺のその言葉にその店員はかすかに怪訝な顔を見せた。

「これを見て欲しいナ! この女性は覚えているカ?」

 ケイが興奮したように懐から一枚の写真を取りだした。それはケイの姉ちゃんの写真。

 昨日何度も取りだしては仕舞ったので、すでに皺だらけになっている。

 ケイから突きだされた写真を手に取った店員は、それを覗き込むと大きく目を見開いた。

「ああ、覚えているよ。震災の時に来店してくれた外国人の女性だね」

 その写真を懐かしそうに眺めながら言った。

「コーヘー!」

 ケイは小さく飛び跳ねて俺の腕に飛びついてきた。

 当たりだ。俺は小さく頷いてそれに応える。

「彼女は、ここがネットカフェと知らずに来たみたいだね。本国と連絡を取りたいからインターネットを使わせて欲しい、と言われた時は本当言うとちょっと戸惑ったよ。だってウチはそのインターネットを貸して商売をしているわけだからね。でも、あんな時だったからね、助け合わなくちゃと思って無料で貸したんだ」

 そして小さくため息を吐きながら、名残惜しそうにその写真をケイに返した。

「可憐な女性だったね」

 そう言ってその店員は、俺たちに一枚の名刺を差しだした。

 そこには『漫画喫茶 漫太郎 店長 鹿島(かしま)孝治(こうじ)』と書かれていた。店長さんだったんだ。

 それを受け取ったケイは、興奮の表情を隠せないまま、それを懐に入れ、そして新たな便せんを取りだし、店長に差しだした。

「これ、私の姉さんからナ。渡して欲しいって頼まれたナ」

 品の良い薄ピンクの便せんだった。

 便せんの表にはたどたどしい日本語で『親切にしてくれた、あなたへ』と書かれていた。

 日本語の書けないケイの姉ちゃんが、翻訳ソフトか何かを使いながら懸命に書いたことが見て取れた。

 それを受け取った店長は、初め大きく目を見開いて、驚いていたが、やがて、優しそうに目を細めると口を開いた。

「うん、後で読ませて貰うよ。ありがとう」

 ケイはそんな店長を見ていて、なぜか涙ぐんでいた。


 『すおう』に戻ってからずっとケイは上機嫌だった。

 テレビを見ていてもベビースターラーメンを啜っていても、シャワーを浴びていてもずっと鼻歌が聞こえていた。

 今もコタツで、にこにこしながら、ラムネを飲んでいる。ちなみにラムネも『すおう』の商品だ。どんどん俺の売り上げが削られていく。

「ケイ。あの店長さんに渡した手紙には何が書いてあったんだ?」

 そう問いかけると、ケイは夢を見ているような瞳で「ほおっ」と小さく息を吐くと両手で頬を挟んだ。

「あんなにいろいろなことが分かるコーヘーなのに、それが分からないか? 私には分かるナ」

「なんだよ」

 さして考えることもせずに、俺は白旗を上げた。

 俺にはそれを推理するための情報が少ない。

 きっとケイは姉ちゃんから聞いていろいろ手がかりを得ているんだろう。

 わくわくしながらケイの次の言葉を待っていた。するとケイはにっこりと笑うとこう言ったんだ。

「秘密ナ」

「なんだよ、それ。どうせケイにも分からないんだろ」

 俺がそう言うとケイはその唇の前に人差し指をゆっくりと立てる。

「男と女のことを詮索するのは無粋ナ」

 そう言うケイを見て、俺はちょっとどきっとした。

 ガキのはずのケイが、なんか凄く大人の女っぽく見えたんだ。

 いきなり俺の年齢を飛び越えたように見えたんだ。

 俺はどぎまぎして、ケイから目を逸らせた。そして自分の気持ちを悟られないように、何か他の話題を探す。

「あー、ええと、そうだ。ケイはいつサイアムに帰るんだ? 日本に来た用事はとりあえず済んだわけだし」

「コーヘーはそんなに早く私と別れたいカ? とてもショックナ」

「え? いや、そういう意味で言ったわけじゃ……」

 予想もしない返され方をしたせいで、思いっきり動揺した俺はコタツの上に載せていたラムネをひっくり返してしまった。

 中身の液体がコタツの上にこぼれ落ち、あわてて布巾で拭き取る。

 そんな俺を見て、どう思ったのかケイは、楽しそうにくすくすと笑うと、こう言葉を続けた。

「冗談ナ。観光ビザは十五日ナ。まだあと十一日残っているナ。日本観光もぜんぜんしていないし、それまでいさせてもらうナ。ハルエさんとの約束ナ」

 ええ! あと十一日もいるのか! 

 さすがにその言葉を声に出したらケイが臍を曲げることが分かっていたので、それはぐっと堪えた。

 だけどコイツとの共同生活があと十一日も続くのかと思うと、ちょっと懐具合が不安になる。

 それにエッチな動画が見れなくなるじゃないかっ!

 ……でも、心のどこかでは、少し嬉しく思っている自分もいることに気が付いていた。

 ケイとの残り、十一日間。

 どちらにしろ、きっと退屈しない毎日になることは間違いないと思った。

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