暁の谷へ
「私は都市の象徴である
城壁都市のドラゴンマスター・赤靴下のピッピは、第二次侵略攻防戦ののちに戦後裁判でその称号を返上した。
その判断を支持する市民もいれば、剥奪だと反対する者もいて、一時は市民投票を行うべきという活動も起きたが、投票をする体力や資金があるならば復興へ回すべきだとピッピが言った。
なにより返上を当人が受け入れ望んだところが大きかった。
ピッピは敵との攻防で失われた命の重さの責任を感じていた。結果こそ勝利であれ、無傷で都市を守り抜いたわけではなかったのだから、歓喜だけが残る訳でないことは誰もが理解していた。
逆風が吹く中にあっても彼女はあらゆる追求に対して誠実かつ正確な表現を務めていたよ。批難も受けば、感謝もされた。
あの頃私は調子に乗っていたと言うべきだろう。
ピッピがドラゴンマスターでなくなれば、彼女が再び戦火に泣くことはないと思い、彼女がマスター位を返上するのを支持した。
後世の研究者たちは私がピッピに嫌がらせをしたと判断する輩もいるようだが、そうではない。悪意のない善意という愚行を正義と思って行っていた。黒歴史というやつだな。
マスター位を得たドラゴンライダーというものは、私的な理由で都市を離れることは許されない。だが、返上したライダーは自由だ。
彼女はその利点を生かし旅に出る決意をした。
貴婦人の死を彼女の故郷である暁の谷の仲間たちに伝え、
彼女はまず貴婦人の図書館にある情報を元に、位置が明らかにされていない暁の谷の手がかりを探った。この時すでにマスター位を返上していたので、彼女は貴婦人の図書館の機密情報を参照する権限は失われていた。
しかしピッピを支持する司書は多く、目を瞑り応援した者も多かった。
そこから得られた情報は『凍りの森のエルフが暁の谷に詳しい』という記述だった。
凍りの森とは、城壁都市のある大陸から北に位置する。
海を挟んだ向かいの大陸に存在し、深い山脈の麓に広がる氷土、人を寄せ付けぬ森には神代の生き物が住むと言われていた。森の守護者はエルフたちで、妖精王の名前はアルベロンとされている。
現代でいうと……ちょうど君の乗った飛行機がその上を通ったな。随分様変わりしたよ。
暁の谷で生まれ、城壁都市へやってきた
彼の王は何千年も前の記憶を掘り起こし、北を経由し『
ヒントは北にあることは確かだった。
ピッピは、4区湾岸地区から船を乗り継ぎ、凍りの森へ向かうことに決めた。
いつも軽装の彼女だが、旅に持って行った荷物は彼女の手帳の持ち物メモに記載されている。更新された身分証明書と最新の旅券、星図とコンパス、戦争報酬や仲間からの支援を受けた金貨、メパトラ羊革のコインケース、塗り薬に飲み薬、ブリングカモメのロープと旅ノート、CDTにハーブの石鹸、お茶とチョコ、キャンディに干し肉とパン。エトワールの十徳ナイフと短剣、水袋と寝袋にアーディスキンの革袋。着替えと防寒具。
そして肝心の
しかし鱗は彼女の管理下にはなかった。
ピッピが暁の谷へ鱗を納めようとするのに反対した者たちがいた。
その勢力にはもちろん、いやまたもや、
私はピッピを外へ放ちたくなかった。旅に出たら、もう帰ってこないのではないかと思っていたからだ。鱗がなければ旅立つことはないと判断した。
今思えばあらゆる事が裏目に出ていた愚か者だ。市民がつけた
戦後の私の立場は曖昧だったが、上層部は氷結王を
私を止めることができる存在はいなかったために、我が儘は冗長しあの手この手で邪魔をしたものだから、あの頃はピッピと顔を合わせても、口を利かなかったのに一層関係がこじれた。
貴婦人の図書館から見つかったピッピの手帳には私のことなど一切触れていなかっただろう? 私の事を避けていたのもあるが、戦後処理の多忙さで私たちは話しをする余裕もなかったのだ。
妨害をされても、彼女は暁の谷へ向かう意思を変えることはない。
結局、私は彼女に付いていく道を選んだ。
保管されていた
鱗という取引材料がなければ、恐らく彼女は私を無視し撒いただろう。
私は彼女と同じの都市生まれ都市育ちで、父母の故郷である暁の谷に関する記憶を持っていないから、ナビゲーターとしての役にも立たない。
氷結王やピッピ不在時、都市の象徴として王城に居を構えたのは、
彼は私がピッピと共に旅に出ることは嫌ったが、ピッピの道行きは後押ししていたので、象徴として都市を守る役目をこなしてくれた。
彼を伴って暁の谷へ行くのがもっとも相応しいのだろうが、彼の体躯は大きすぎたし、人に変成する能力を持ち得ない。なにより都市に住むサラマンダーの長として場を離れることはできず、ピッピを見送る立場についたのだ。
彼が戦後の都市を守護していなかったら、別の侵略を受け都市が失われていた可能性もある。
この時城壁都市のドラゴンマスターはグランヴェールという老骨だけだったが、この男の経験は豊富であったから、気性の荒い
この男は最期に
旅立ちを見送る人はいなかった。
彼女は旅に出ることをごく数人にしか告げていなかったし日程も告げてはいなかった。早朝まだ霧がけぶる船に乗り込む旅人や商人の背中を、今もよく覚えている。ピッピとの会話はなかった。
ごった返す甲板に出て、遠ざかる城壁都市をじっと見ている彼女の心の中は、今も分からない。
子供向けの絵本にはやたら前向きな出立をするピッピが描かれていた記憶があるが、それ以外では旅立ちへの安堵を表現したものが多くみられた気がする。
原本にあたるピッピの手帳には、ピッピがそう書いたからな。
そのページには乗船券が挟まれていたのと、茶けた汚れがあっただろう。何とかという研究者が化学分析して花粉の痕跡を発見していたが、それは正しい。あそこには当時押し花が挟まれていた。
ピッピは城壁都市の大風車塔が見えなくなると、その押し花をじっと見ていた。出立はたしかに前向きではあった。だが不安や哀愁も彼女の中には少なからずあったと私は思う。
海を掻き分け進むにつれて、慣れ親しんだ都市の香りは潮の香りに掻き消される。生まれてからずっと城壁都市で暮らし、外の世界に出ることも少なかった彼女と私にとって生まれて初めての大海原、そして大冒険のはじまりだった。
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