城壁都市の衣食住
都市には旅で訪れる者が多かったようだ。
各国の言語で書かれた城壁都市案内の書物が多く、都市について書かれた文献を蒐集していた図書館の部署があることも分かっている。いわゆる旅行記や個人の旅行記録と言われるものも保存されていた。それら文献から都市の衣食住について簡単に紹介したい。
城壁都市の気温と季節
都市に吹く風は季節によって多少の変化はあるものも、ほぼ固定されており、北東からであったと分かっている。モンタンドロー山から駆け下りてくる風である。一定の降雨があるが、夏は日ざしがあり乾燥する日も多い。春と秋に数週間雨期が続く程度で、雨の殆どは山を越える前にエムロード湖に降り貯水された。
現在のエムロード湖は800km2ほどの小さな湖であるが、B.Dにおいてはモンタンドロー山を飲み込むほどの巨大な面積を誇る湖であったことが分かっている。(*1)
温暖で暮らしやすかったため、冬以外の衣服はほぼ替わらなかった。伝統的な衣裳は鮮やかな「ミルフルール」と呼ばれる刺繍が施されている。また第一次侵略攻防戦時の少女の奮闘(*2)を讃える行いから、都市の少女は手習いとしてタッセル(*3)を編み完成品を服や所持品、マフラーやスカーフ、アクセサリーにして身につけていた。
ドラゴンに騎竜するために履くライダーブーツが5cm以上のヒールを持つ構造のため、男女問わずハイヒールのブーツ姿の市民が多かった。都市由来の植物繊維「ダンドリット」を素材にした服が多かったが、革と羊毛、麻、貴人は絹織物を身に付ける者もいた。
城壁都市の食生活
都市の食事はどの時代も周辺の都市と大きな差はなかったが、もっとも特徴的であったのが「都市食用多肉植物」の存在だろう。都市の大地に適合した特殊な植物で、葉が通常の植物とは異なり厚みがあった。水を多く必要とせず成長も早い。こぼれ種や葉挿しで増えたという。調味料になるものや油分があるもの、十分な栄養を蓄えた主食代わりになる大型の多肉植物まで、多種存在し、色形も特徴があり発光するものもあった。
都市で改良が重ねられその数は500種以上で、独自の植物体系を作り出していた。またこの分野は発掘チーム内に特別チームができるほどに大きなプロジェクトで植物界に与える影響は大きい。
城壁都市を兵糧攻めすることは不可能であったと書かれている。
図書館には多くの飲食店メニューの素描などが残されている。
飲食店の数は周辺都市最大数を誇ったという、グルメ都市であったことが分かる。
野菜・肉・酒と幅広い扱いで、主食になったはの穀物を焼いたパン類、食用多肉の「壁のりんご」(ジャガイモのようなもののようである)、卵、ミルクや家畜やドラゴンのチーズと果実だ。料理はドラゴンの火で調理されることもあったという。
飲料は都市の持つ豊富な水を使って作る豆茶、紅茶、果物によって作られる果実酒と麦種が中心となる。
都市に入国するための長い審査列に並ぶ旅人や商人たちに、
「クリーム色のこざっぱりした生地に、華やかな刺繍が施されたワンピースと絞り染めをした木綿のカーチフを髪に巻いた乙女たちが、柑橘と都市特有の多肉植物を水に混ぜた爽やかな
都市平均寿命を支えたのは、安定した食生活と高低差のある街並で足腰が鍛えられてのことだろう。
都市の食事はどれも美味しそうだ。また改めて章を立てて説明できる機会を持ちたい。
城壁都市に住む
城壁都市の環境についてはすでに述べた通りだが、城壁都市には旅人として訪れ何度も足を運ぶうちに定住を決めた市民が多かったことが分かってきた。
エネルギーのサイクルが分かりやすいこと、自治体による結束と特徴がはっきりしていること、生活や職業によって住みやすい区がそれぞれ分かれていることが挙げられるようだ。
夜間決められた時間になると自治体間で門を閉じるため周辺都市と比べて治安はとても良かった。防犯体制は様々で、都市では自治体によって公共費集金がなされ、金額も差が出ていた。
格安の費用で済む地区は、商業施設や貴族の保護区であったりとそれぞれ理由があったが、暮らしやすさと結びつくかというと、そうとも言えなかったようだ。
飛行制限などが定められているが、都市は上空をドラゴンが滑空するため騒音に関しては多く事前の注意がされており、飛行経路上にある家に住む場合はドラゴンの落下などの事故発生の可能性から、保険に入ることを薦める大家もいたという。
城壁都市では騒音対策もあってかドアが他都市より厚く、窓のガラスは都市の職人が作った防音性が高く風圧で割れにくい「クレーヨナージュ」が採用された。
都市の結婚や出産に関しても文献が残されている。都市において結婚は15歳から成立しているところが多い。特別な年齢の制限はなかった。多くの種族が入り交じっていたため、各民族の習慣を尊重したのだろう。
独身者も多かったが、子どもの数も多かった背景には、水源の確保や飢饉による餓死の心配が少なかった点、入国審査において厳重な検閲が行われるなど、衛生管理の徹底による疫病の流行が押さえられていたところに由縁すると言われる。
都市では3000年の間、大きな疫病が流行したのは2回と記されている。
城壁都市では結婚の誓いをした夫婦は、王城のクラウンミルと対面することが許された。(祝辞会合
家業を継ぐ者も、戦士となる者も、全て教育を受ける義務があった。
都市では市民には日数にして3,000日間教育を受ける義務があった。それ以上の学問を修めるもの、教育者を目指す者は大学組織に入り知性を極めた。
日数は「第六感の扉(Porte du sixième sens)」という教育認定を受けた機関・教師からの付与にのみ認められた。規定の学習期間を達成すればいいので、何歳からはじめてもよく、中断や時間の割り振りも自由だった。机に向かって学習するだけでなくフィールドワークや集団による研修も必須項目として割り当てられていた。兵役や家業の事情などを考慮しての教育システムであったようだ。
通年で通い修了を納めるための学校も存在し、そこへ通ってスムーズに教育課程を終わらせる市民も多かった。
市民になるにはすでに都市に5年以上住む在住者3人の推挙と、身分証明、仮住居証明が(住む場所を確保してからでないと許可が下りなかった)必要とされた。入国許可を得ている時点でさほど難易度の高い申請ではなかったようだ。この市民権取得方法は、鳥の巣(
(*1)エムロード湖( Lac émeraude)
当時周辺最大の淡水湖で、モンタンドロー山、三大標高に連なるブレーシュ山(裂け山)に囲まれ、トリュモー(繋壁)渓谷に接続する。周辺地域で最大の三日月型の湖。A.Dに入って規模が縮小するも、古代湖として数えられている。
地層調査によると平均水深は4,883 mあった。城壁都市の水竜は平均全長35mであったので水中での移動に苦はなかっただろう。B.D800頃までは海と表現されることが多かったのも納得がいく。
城壁都市をはじめ周辺民族、国家を潤し続けたエムロード湖の縮小が都市が滅びた原因とする説が現在は一般的である。
(*2) 「名もなき少女は、4区を攻め上がる敵兵に怖じ気づくことなく、腰紐を解いて落ちている石を拾い上げてくくりつけ、投石して立ち向かった。立ち向かう少女を周囲の大人たちは助け、城壁へ向かった」(「都市の少女たち」より)
「マリーおばさんのタッセル」など手芸指南書などにも序文に記載が残る。この少女が腰紐を解いて石をくくりつけた様を、タッセルに似せているとのこと。
都市において、フォーマルデザインのタッセルには石(宝石や鉱石のビーズ)が必ずワンポイントに入っている。
(*3)素材は様々で地区によって特色がある。第一次侵略攻防戦前にもタッセルは編まれていた事実は確認されているが、爆発的に生産が増え、都市の生活誌に記述されるようになったのは第一次侵略攻防戦以降だ。
(*4)
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