第9話 炎路の旅立ち 後編
ど……っと、地面から〈禍ツ气〉による暴風が吹き荒れ、全員の体を打ちつけた。皆が体を木々へ叩き付けられる。
転がり、体中をしこたまぶつけて、リュウモはようやく止まることができた。
「げ、げほ……」
衝撃のせいで、肺から空気を絞り出され、リュウモは吐きそうになった。腹の中に残っている物を、すべて地面にぶちまけそうになるのを、なんとか止めた。
「いっつ……リュウモ、無事か?!」
「ど、どうにか……」
受け身を取って、後頭部を守っていたおかげで、大変な怪我にはならなかった。
リュウモは、吹き飛ばされた地点を見る。〈禍ツ气〉が、最初の時よりもずっと激しく噴き出していた。リュウモの顔が青ざめる。
「どうしよう、おれ、もしかして失敗した……?」
元に戻っていた緑の景色が、また黒に変って行く。幾束にも絡まった漆黒の光線が、森を変異させていく。肌がまた、ちりちりと痛み始めた。リュウモは、腕をさする。
「いや、成功していたはずだ……、これは、もっと別の要因だ」
「冷静に分析してる場合か! そこら中から〈禍ツ气〉が出てくる! 『竜』が狂って襲いかかって来るぞ!」
凄まじい勢いで周囲が変わって行く、一団の顔色が、真剣なものになった。吹き飛ばされた者たちが、リュウモの周りに集まり、円陣を組む。
「村まで走るぞ! 死んでもリュウモだけは守り抜け!」
おう! と、皆が声を張りあげた。一行は、リュウモを守りながら、全力で逃走を始める。帰途には、そこらから〈禍ツ气〉が噴出していた。
「くそ……! どこもかしこも〈禍ツ气〉だらけかよ?!」
「方向を変えるぞ! 迂回して村に向かう!」
リュウモの脳裏に、迂回したさいの道筋が浮かぶ。
「まずいんじゃ……ここから迂回したら、凶暴な『竜』の区域で」
「ここまで〈禍ツ气〉が溢れていたら、どこを通っても同じだ! なら、最短距離で突っ切る!」
有無を言わさぬ指示に、リュウモは黙った。彼が言ったことはもっともだったからだ。さっきから、自分たちに濃い殺気が向けられているのは、嫌でもわかった。
首筋に伝う、冷たい悪寒に、リュウモは肝が縮みあがりそうだった。
恐怖を振り払うように、全力で足を動かし続けた。獲物を追う狩人のように〈禍ツ气〉がそこかしこから噴き出している。
「おいおいおい?! これも『使命』の試練の内か!?」
「馬鹿言ってないで走れ! リュウモ、絶対にはぐれるなよ!?」
「わ、わかった!」
リュウモの走る速さに合わせて、一団も走る。足を引っ張らないよう、リュウモは懸命に動いた。
「――来るぞ、右前方から、数三!」
「迎撃する。全員〈竜化〉しろ! すり抜け様にのどを掻っ切れ!」
重苦しい音を立てながら、三匹の『竜』が襲い掛かってきた。肉食の『竜』である鉤爪が、足音を獲物に聞かせる醜態をさらすなどあり得ない。本来の生態から大きく逸脱していることは、彼らが狂っているのを示している。
殺気が、のど元に、冷ややかな牙を突き立てようとしてきた。青から赤へ変色した『竜』の瞳が、恐ろしかった。
「邪魔だあ!」
裂帛の声があがると、鉤爪ののどに、赤い線が引かれ、ぱっと血が噴き出た。地面に倒れた鉤爪の、一瞬で生気を失った眼が、まだ獲物を刈り取ろうと生々しい光をたたえている。
護衛たちは、指示通り、走る勢いを殺さず、駆け抜ける間に三匹の『竜』を瞬殺した。
「〈禍ツ星〉の輝きが……」
木々の間から覗く空にある〈禍ツ星〉。その黒き光が、他の星を呑み込もうと輝いている。
「走れ、走れ! 村まであと三つ区域を抜ければいい!」
――遠い、その三つが。
リュウモは、区域三つ分の広さを当然、知っている。ジジと一緒に『龍王』の亡骸まで行ったことが何度もあるからだった。この速さでは半刻はかかる。リュウモの足では、それだけの時間が必要だ。
「前方、十八」「後方から四十二、すべて鉤爪!」「速度を落とすな、強行突破するぞ!」
四方八方から『竜』の凶悪な牙、爪が襲い掛かってきた。そのすべてを、護衛たちは迎撃し、撃破する。槍が舞い、血潮が噴き、『竜』の首が飛ぶ。
リュウモには、ただいの一度も攻撃が通ることはなかった。
鍛え抜かれた精鋭の集団は、完璧に護衛対象を守り抜いていた。――しかし。
「――ッ?!」
超重量が上からのしかかり、大地が悲鳴をあげた音がした。
地面をたわませ、波打たせたかに思える、重音。皆の顔色が悪くなった。
「翼竜まで……!」
集団の右手側に、それは降り立った。『竜』には、ぶ厚い壁のようにそびえ立つ『格』が存在する。その中で、上位に君臨する翼の生えた『竜』。それが翼竜だ。
戦闘能力は、地に足が着いた『竜』の比ではない。戦えば、全滅は必至だった。
「俺が引きつける! リュウモを守れ!」
「ま、待って!」
集団から抜けて、ひとり翼竜の元へ駆けて行った者を止めようとした手は、届くことはなかった。決死の覚悟で翼竜に突撃していく男を残して、リュウモたちは走り続けた。
再び、音が響く。翼竜が、次から次へと空から降りて来る。
「行けぇ!」
ひとり、またひとりと、翼竜へと戦いを挑んでいく。勝てないと理解していても、自分たちの使命を果たすために。
「みんな……みんな――!」
いつしか、リュウモを守っていた八人の内、ひとりしかいなくなっていた。さっきまで話し、笑い、励ましてくれた人たちはもういない。また、ドスンっと、音が聞こえた。
「……! ――リュウモ、ここまで来れば、もうひとりで村まで帰れるな?!」
死に物狂いで足を動かしていたせいで、リュウモは『竜』が棲む区域から脱していたことにようやく気づいた。
「だ、大丈夫……」
震えながら、リュウモはうなずいた。満足気に、青年は笑った。
「よし、いい子だ。いいか、村に戻ったら、村長にすぐ外へ出発するよう伝えるんだ。あと、ほとぼりが冷めるまで、他の者たちはしばらく、村から離れるようにと」
「は、走れば、まだ逃げ切れるんじゃ……」
「はは、そうかもしれないが、誰かが足止めしないと、大変なことになる。他の連中を、待っていてやらないといけないしな」
「ご、ごめんなさい……おれ、おれが〈目覚めの時〉を、目覚めてれば、こんな……!」
「馬鹿言うな。俺達の中でも、一番早く〈目覚めの時〉を迎えたのは十六からだ。気に病むことはない――すまないな、お前と共に『使命』を果たせなくて」
さあ、行け。――ぱんっと、背を叩かれて、弾かれた玉のように、リュウモは走り出した。
「さあ、さあ! 我らが〈竜守ノ民〉の槍技、とくとご覧にいれよう。かかって来やがれぇい!」
リュウモが駆け出して、間もなく。後ろで激しい戦闘の音が、耳に伝わってきた。
あふれ出た涙が、尾を引いて地面に落ち、土に吸収されていった。
(早く、早く、早く!)
間に合わなくなる前に、もっと早く。『竜』が村を襲うよりも。ずっと早く。
努力を嘲笑うように、リュウモの頭上に巨大な真っ黒い影が通り過ぎる。
「なんだ……あの『竜』!?」
目にしたことも、習ったこともない巨大な黒い『竜』。まさか――。リュウモの脳裏に嫌な予想がちらついた。
――〈禍ツ竜〉?!
リュウモは、走り続けて、嫌な臭いをかぎ取った。これは、なにかが燃える臭いだ。
黒煙が、村の方角から、立ち昇っていた。
「そんな……そんな!」
最悪の想像が、頭をかすめ、足を折ろうとした。
「みんな、爺ちゃん!」
そんなわけがない。みんなが簡単に殺されるはずがない。自分に強く言い聞かせて、出すことのできる最大速度で森を駆け、出た。
叫びが聞こえてくる。親しかった鍛冶屋の人の声が、向かい側にいた同い年の子の悲鳴が、大人しかった『竜』があげる怨嗟の絶叫が。
すべてが燃えて行く。燃え落ちて行く。燃えて消えて行く。あらゆる物と者たちが、叫びと炎の中に包まれ、金切り声を発して死へと溶けて行く。
(さ、寒い……あ、熱い――ッ!)
炎の熱が、極端に上昇した温度が、肌を針で刺し貫かれたような痛みを伝えてくる。
体外は、体の表面は確かに熱い。煉獄の炎のようだ。だが、内は極寒だ。心の芯、魂の奥底からじわじわと冷気が立ち上ってくる。かたかたと全身が恐怖で凍り付いて震えた。
動けない。動こうとしても、入れ物が変わってしまったように、体が動かない。
この世の終わりが、生を途切れさせる暴力が降りかかって来る、その前。
リュウモの体が激しく動いた。手を引っ張られている。
「爺ちゃん!?」
ジジが、血相を変えてリュウモの手をとって駆けている。彼の顔色は、尋常でない。土くれっぽい色になった老人の顔は、すでに死んでいるのではないかと勘違いしてしまうほどだった。――リュウモの胸に、嫌な、どんよりとした暗雲が立ち込めた。
ジジは一度、後ろを向いて『竜』たちが追って来ていないのを確認すると、ようやく足を止めた。老体で急激に体を動かしたせいか、冷や汗が顔中にびっしりと張り付いている。
「じ、爺ちゃん」
「聞け、リュウモ」
言葉は遮られた。その態度が、まるで別れを告げる前のように思われて、リュウモは声を荒げた。
「爺ちゃん! や、休まないと、体が!」
「聞けッ!!!」
穏やかのジジの、聞いたこともない厳しい怒鳴り声に、リュウモは思わず口を閉じてしまった。彼は、片手をリュウモの肩において、真っ直ぐにリュウモを見据えた。
「もう、ここは駄目だ。わしも、そう長くはない」
見れば、ジジの脇腹、腰ひも辺りの衣が赤黒く変色している。出血が酷いことは瞭然だった。
「これを持っていけ。〈龍王刀〉、『龍王』の亡骸より作り出した、お守りのようなものだ」
手渡されたのは、見慣れない短刀と、前日に用意しておいた旅のための荷物だった。薬や食料が入っている。
「お前が持つ、短刀と笛。重い役割だ。幼いお前には、とても、とても背負わせたくはなかった」
「嫌だ、嫌だよ、爺ちゃんッ!!! まだ、まだ一緒にいたいよッ!!!」
『使命』何て、別に背負ったっていい。厳しい旅になるのだってかまわない。〈竜峰〉へ行けと言われれば行く。――でも、リュウモは、この人と別れるのだけは、嫌だった。
ジジは、そっとリュウモの頬に手を添えた。ごつごつとした、皺くちゃになった掌の感触が、異様に冷たい。血の気がなく、命が失われつつあることに、リュウモは気づいてしまった。眼から、また涙がこぼれ落ちた。
「楽しかったなあ、お前と語らっていた日々は……とてもとても、楽しかった」
「爺ちゃん、おれ、無理だって、ひ、ひとりじゃ、おれ、なにも……!」
リュウモは、怖い。本当は、村を出て〈竜峰〉へ行くのだって、この人と離れるから、嫌だったのだ。それが、今はたった一人で知らないところに行かなければならないなんて、とてもできそうになかった。ジジは、大丈夫だ、と言って安らかな笑みをうかべた。
「できるさ。お前はわしの大切な、誇り、生きた証。ああ、わしの孫なんだから」
野太い重音が、暗い森に響いた。『竜』がもうそこまで来ている。
「行け、リュウモ、行け、行ってくれッ!」
弾き飛ばされたように、リュウモは走り出した。一目散に、振り返らず、ただ真っ直ぐに、悲しみを振り払うように、矢のように、走り出した。
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