第28話 波
二人は山を下り、町を見つけると、獲物に忍び寄る狩人のようにひっそりと入り込んだ。
一目に触れないように選んだ細い路地から見える町並みは、皇都と比べると華やかさを欠き始めていた。質素、簡略な建物が増えはじめている。
さすがにあばら家なロウハ見当たらないが、簡素な建築物が多いのは確かだ。
そんな町を、ガジンは、影が濃い路地から顔を出し表通りを窺っている。
いつも通りの安全確認だ。彼の合図が無い限り敵はいない。
(ちょっと疲れてきたかな……)
強行を重ねて積み上げた距離だったが、リュウモの足は鈍い痛みと熱さを持ち始めていた。捻挫したのではない、単純な疲労の蓄積だ。久々に、足が棒になっていた。
(休まないと、まずいかな)
壁に背を預け、右足を上げて脹脛を揉んだ。
「追手はない。宿も決まった、行くぞ」
今まで通り、リュウモは男の後ろにぴったりとついて行く。笠を深く被り、うつむき気味に道を歩いた。
尾行されていないことを逐一確認し、宿に入った。ガジンが店主に部屋を借りたい旨を伝えると、彼は机の上に銭を置く。店主が数え終えると、彼は部屋の場所を言った。
草鞋を脱いで、二階にある部屋に向かうために階段を上った。見た目以上にはるかに頑丈な作りだった。飛び跳ねてもびくともしなさそうだ。
二階の言われた部屋へ、リュウモは先に入る。後から敷居を跨いだガジンが、襖を隙間が無いようにしっかりと閉めた。
疲労を隠すこともできなくなって、リュウモは尻もちをつくように座り込んだ。
リュウモの人生で、ここまで目まぐるしく土地を移動した経験はない。心身共に疲れ切ってしまうのも仕方がなかった。
気を紛らわせようと、部屋の窓から外に目を向けた。それだけで大量の人間を観察できる。
沢山の人々がいた。声を張りあげている売り子や、屋台の店主、走り回って遊んでいる子供たち。
彼らを目で追っていると、母親らしき女性が八百屋の主人と話し込んでいる様子が目に入った。どうやら野菜の値段で交渉をしているようだ。
家の台所を預かる主婦の根気に負けたのか、八百屋の主人はうなだれて銭を受け取る。
(そういえば、お金って、大丈夫なのかな)
ここ数日で、ようやく経済、金銭のやり取りの重要性がおぼろげながらにわかりはじめた。
彼らが扱う金銭は、信用のやり取りだ。国が担保した信用を、労働によって勝ち取り、勝ち取った信用でもって日々の糧を得る。
それらが周り巡って人々を動かしている。
とはいえ、生きる糧を得るために働く、というのはわかるが、どうにもぴんとこなかった。そもそも、食料が欲しいなら、狩りに行くなり畑や田圃で野菜や稲を育てればいい。いちいち貨幣を手に入れ支払う過程が必要なのかわからない。
リュウモは、外の人々が何気なく行っている行動原理、理屈を醸成する社会構造の知識、経験の両方が欠如しているせいで、胸元に違和感が燻り続けていた。
胸のつっかえを取ろうと悶々と思考していると、ガジンが言った。
「今日はここで、ゆっくりと休む。明日の朝、北と中央を繋げる大橋を超える。疲れは残さないようにしておけ」
「わかりました。お風呂に入ってもいいですか?」
「ああ。だが、できるだけ人が居ない時間に、一緒にな」
出来得る限り瞳を誰にも見せないようにしているが、見えてしまうことはあった。
大抵、目を逸らして見なかったことにして立ち去って行く者が大半だったが、悲鳴を上げる人間もいたため、ガジンが近くにいないと対処に困るのである。やはり、子供と大人では発言の影響力が違う。
適当な時間まで体をほぐして疲れを取り、風呂に向かった。
何人か大人たちがいて、目を見られたが、予想していたよりは騒ぎにならなかった。
リュウモが風呂に入るなり、さっさと出て行ってしまったからだ。
「あの根性無したちのおかげで、貸し切り状態だな」
「こ、こういう時は、便利、かもしれないですね」
ほとんどがよくない方向に働きかけていた瞳の色も、今回ばかりは役に立った。
二人だけになったので、誰も気にすることなくゆっくりと湯船に浸かっていれてよかった。
暖かい湯の中に、溜まっていた疲労が溶け出すように消えて行く。
風呂から出る頃には、脹脛の重みもすっかりと無くなっていた。
やっとまともに休息を取れるとばかりに、体の芯から眠気が立ちのぼって来た。
リュウモが浴槽でよろよろと頭が船を漕いでいると、ガジンが気を使って立つ。
朦朧とした意識の中、霞みがかかった頭で彼に付いて行くと、部屋に辿り着けた。
口を動かす気力すら起きず、すぐさまリュウモは床につく。
予想以上に身の底に溜まっていた疲労が、意識を闇の中に引きずり込んでいった。
「もううちには連れてこないでくれ。ったく、なにを考えてるんだか。あんた、どんな事情があるか知らないが、さっさとそいつと手を切った方が身のためだぞ」
リュウモは、敵意、侮蔑を隠そうともしない視線が体のあちこちに突き刺さるのを、黙って耐えていた。
他の客たちも、店主の言葉に驚いて身を引いている。興味本位でちらちらと見て来る者はいたが、リュウモが彼らの方を向くと即座に目を逸らして奥に消えて行った。
「…………」
ガジンは聞く耳を持たないかのように、机の上に銭を置いた。すこし乱暴な置き方に、銭同士が当たって、硬質な音を立てた。彼の内から滲み出た苛立ちに、店主の肩がびくっと上下に動いた。
「邪魔をしたな」
うんざりした言い方をして、ガジンは出口に歩く。
彼の背中を追って、リュウモも旅籠屋を出た。
「まったく、子供相手に大人げない、いや情けない」
ガジンは不快さをあらわにしていた。何件か旅籠屋に寄ったが、出る度にああいったことを言われると、リュウモだってむっとする。なにも悪いことなどしていないのに、いわれのない中傷を受けたら言い返したくもなった。
ただ、下手に口論になると人目につく。警邏の人間に通報されでもしたら捕まってしまうかもしれない。結果として、リュウモは口を閉じて耐えるしかなかった。
「なんだか、慣れてきちゃいましたよ、おれ」
「そんな嫌な慣れ方はしないでいい。此処から先は、野宿が多くなる。馬鹿な言葉を聞かずに済むから安心してくれ」
ガジンは苦々しい顔をして、町の外を出る。深い溝のような皺は、彼の不機嫌さを示しているようだった。途中、子供がガジンの顔を見ると凄い泣き顔になって走り去って行った。
「どうしたんですか、その、怖いですけど」
「嫌なことを思い出していた。さあ、行こう」
「ここから先が、北方の領土なんですよね?」
「ああそうだ。北と中央を繋ぐ大きな橋がある。見物だぞ、橋を見るためだけに足を運ぶ者もいるくらいだ」
「は、はあ……橋を?」
意味がわからなかった。そもそも、橋は橋以外の何物でもない。もしかして、外では橋とはなにか重要な意味を持つ建築物なのだろうか。生活に欠かせない、というわけでもなさそうだが……。
リュウモが首を傾げていると、ガジンは「直に見ればわかる。一見の価値あり、だぞ」
そう言って、歩調を早めた。リュウモはここ数日で見慣れ初めてきた、岩壁のように立派な後ろ姿を追った。
二刻ほど経って、リュウモの視力はガジンが言っていた物を捉えた。
「わぁ……!」
ただの橋だろうと思っていたリュウモの口から、感嘆の声がこぼれた。
一見の価値あり、とガジンが言っていた意味がわかったのだ。
故郷にある橋は、木の板、丸太、縄を組み合わせて作った吊橋だった。
ここの橋は違う。巨大な川幅を誇っている竜降川には、一定の間隔で上部を支える柱が川に打ちつけられている。
「橋脚という。あれで両端にはる橋台を補完しているのだ」
「こんな作りの橋、見たことないです。それに、幅もすごい」
なにせ、荷車が何台も悠々と通れているくらいである。そこに旅人、通行人まで加わってもまだ窮屈そうには見えない。
リュウモは、もっとゆっくり見学していたかったが、人の流れの中で止まっていると邪魔になるうえに時間も無限ではない。好奇心を満たせないことに無念さを感じながら、橋へ第一歩を刻んだ。
「どうだ、見事なものだろう」
「はい、すごいです」
「国では最も大きな橋だ。はぐれるなよ、ここは橋の上でも人通りが多い」
今まで通り、ガジンの左後ろにぴったりとくっついて歩く。彼曰く、この位置取りが護衛対象を守りやすいのだとか。護衛対象は勿論、リュウモである。
行き交う人々の視線に、〈青眼〉を入れないよう注意しつつ、リュウモは彼らを観察する。
あの絢爛な皇都に比べれば、住人たちにも変化があらわれている。皇都の住人が着ていた服は、染め方から着こなしまで鮮麗され、染みひとつ無いといった具合だった。
ここの人たちは、着方も雑、適当に見えるし、擦り切れた旅衣を纏っている。外見よりも実用性を重視しているためか、見た目はよろしくない。
飾り気に気を使っても生活に余裕のある皇都と、そんなものにまで気を回していられないその他の人々。
(なんで、こんな風に違うのかな……)
同じ人間である。なのに、違う。この〈青眼〉が他の人間と壁を作り隔てるように、彼らは住む場所、金銭の違いが溝を作っている。
内なる問い掛けには誰も答えてくれない。
(落ち着いたら聞いてみよう)
橋の半ばに差し掛かった、その時だった。
最初、リュウモは耳鳴りかと思っていた。ところが、橋を渡っている間もずっと続き、次第に無くなった左耳に、火で炙られたような痛みが走り始めた。
「どうした、頭痛が酷いのか」
顔面蒼白になってしまったリュウモを心配して、先を歩いていたガジンが止まってしゃがんだ。彼は心配そうにリュウモの顔を覗き見た。
(この、痛み……来る――)
よろついて歩き、橋の欄干に体をぶつけながら立ち止まり、上流を見た。
「お、おい、本当に大丈夫か?」
リュウモは苦悶の表情を浮かべ、額から脂汗が滲み出てきていた。幼く細い体が心もとなく揺れている。
リュウモは、ガジンの気遣いに反応する余裕がない。
橋からも見える上流の先――巨大な山を睨みつけるように見つめている。
「あの、山は……?」
「あれか? 東と北の『外様』の領地を隔てている山、青竜山だ。一説には、巨大な『竜』の骸が、あの山になったのだと言われているが、それがどうした」
「じゃあ、あれ、は……〈竜域〉?」
ガジンはうなずいた。リュウモは欄干から顔を覗かせて、橋脚に当たる水位を見た。
緩やかな流れが橋脚に当たり、左右に割かれて下流に流れて行く。
だが、あり得ないことが起こり始める。
昨日、雨が降っていないのに、どんどん上にせり上がって来た。
川から感じ取れる〈禍ツ気〉の気配。それは上流から流れ出ている。突如として増大する水位。
「まずい……ッ」
リュウモは実際に見たことはない。ただ、教え込まれた知識と今の状況から、それが来るであろうことはわかった。
「ガ、ジン、さん……すぐ、橋の上にいる人を、岸にどけて、ください――川が、波、黒い波が、来ます……」
激しい痛みに意識をすり潰されそうになりながら、掠れた声でガジンに警告した。
「黒い波? なんだそれは」
問いかけに答える前に、リュウモが口にしたものはやって来た。
晴天の下に轟音が響き渡る。源は川の上流、山の方からだ。
途轍もなく巨大な音に、橋を歩いている通行人はつい足を止め、発生源の方向を見る。
堰が決壊し、水が破裂したかのような勢いで、それは猛進する。
墨汁の墨かのように漆黒に染まった川の水。自然の驚異を形どった暴威そのもの。
すべてを押し流す、黒い濁流。故郷ではそれを――禍波と呼んだ。
「これは…………皆、その場から近い町まで走れ! 中央にいる者は北の大都に避難せよ! 急げ!!!」
張りあげられた大声に、呆然としていた通行人たちが我に返った。いきなり湧き出した自然災害が、おのれの命を奪うに十分な脅威を持っているという結論に至ったのだ。
一秒でも早く危機から脱するために通行人は必死になって駆け始めた。ガジンの声は届いていたようで、指示通りの方向に走っている。
それでも、国で最も巨大な橋の上は、阿鼻叫喚に陥り、狂騒が満ちた。
緩やかだった人の波は、凶暴な高波に変り、リュウモを圧し潰そうとする。
「向こう側の町に走れ!」
彼に言われた通り、リュウモは前方の町に向かって走った。
混乱に陥った集団の力は凄まじく、まともに自身の意思で進むことができない。
流されるように、前へ前へと背を押されるしかなかった。背や肩に他の人の手や膝が当たって鈍い痛みが何度も襲ってくる。背の低さは、こういう時には不利に働く。
「ガ、ガジンさん……!」
橋の終わりがリュウモの目にも見えた頃、ガジンとも逸れてしまっていた。
恐怖と混乱は伝播する。集団の中にいるはずなのに、孤立しているリュウモの足と心を、怯えが揺らした。
「とにかく、町まで走れ、走るんだ!!!」
勇ましい声が、リュウモの弱気を吹き飛ばす。懸命に足を動かして、人波に呑まれないように力強く走る。通行人の足や背だけだった光景が、徐々にひび割れ向こう側が見えた。
あとすこしというところで、肩甲骨辺りに強い衝撃が襲った。痛みに肩を押さえると、それは見えてしまった。
人波が真っ二つに割れた、丁度真ん中より北側寄りに、ひとりの初老の男がいた。
欄干に片手をついて、左足を庇いながら不格好な歩き方で必死に動いている。皆が一斉に避難し始めた際に、倒れたか踏まれたかして足に怪我を負ったのだろう。
痛ましい姿に、リュウモの心臓が下から蹴飛ばされたように跳ね上がった。
(爺、ちゃん……)
橋で歩いている初老の男性は、ジジと似ても似つかない。
老いてなお、若い頃に鍛えあげた肉体を誇っていた村の『語り部』とでは体格も違いすぎた。
それでも、生き残るために必死になる姿が、痛ましさが、弱々しさが、最後に大好きな人が見せた儚い笑みを思い出させて……。
「どいて、どいてッ!」
リュウモは、集団に逆らい、反対方向に走った。
弾き飛ばされたように橋中央に逆走して行く少年を、ガジンは大声で諫めた。
「よせ、私が行く!!!」
リュウモは止まらない。声が届いていないようだった。
軽業師のように人を避け、欄干に手をついている男性に驚くべき早さで近づいていく。
黒い大波は、すでに大分近くまで迫っている。
混乱している通行人を押し退けてリュウモの元に駆けた。
のろのろとしか進めないのがもどかしい。一般人が集中している場所では『気法』は使えない。もしやろうものなら、避難している人間が橋の上から落ちることになるか、雪崩でも起こしたかのように倒れてしまう。
欄干の上を走った方がいい。端に飛ぼうとして、足に力を入れた。
「痛いよぉ……」
悲痛な、幼い声がガジンの動きを止めてしまった。耳から入ってきた声は、橋の上のどこに誰がいるのか、隠しもせずに伝えてくる。
遊んでいた子供だろう。突然、尻を叩かれた馬のように動き出した通行人に蹴られたか、倒されたかして怪我をし、動けなくなってしまったようだった。
男性に駆けて行く小さな背と、うずくまっている幼子。
(まだ間に合う……!)
子供を助けても、リュウモの援助には十分な時間がある。
痛みで涙を流している、庇護すべき対象の元へ走った。
(嫌な選択だ、くそ……)
本当に、思い出したくもないことを、この状況が過去を抉って掘り起こさせる。
満月の夜、明かりを持ってあの子を必死に探し回った……――。
胸に鋭い痛みが走った。
ガジンは顔を顰めて、蘇ってくる記憶を抹殺する。
「おい、大丈夫か」
「ひぇ……!」
いつも通り怖がられたが、相手の心情を汲み取っている暇はない。有無を言わさず子供を脇に抱えた。
町方向と比べて人が引いた橋の上で、ガジンは欄干の上に飛んだ。細い足場を迷うことなく駆け抜け、橋の終わりに着地すると子供を下ろした。
呆気にとられている人々の視線を無視し、再び欄干の上を走る。
リュウモは、男性の肩を持って、怪我人を引きずるようにして歩いていた。
間に合う。ここから飛んで二人を抱えて黒波の影響が及ばぬところまで逃げるのに、数秒とかからない。
「そこを動くな、今……!」
「ガジンさん!!!」
リュウモは、男性を小さな体で抱きかかえると、そのままこちらに放り投げたのだ。
ガジンは、自分が少年を予想以上に過小評価していたことを思い知らされた。
彼は、たった今出会っただけの他人相手でも、おのれの身を危険に晒してまで他者を助けることができる人間なのだ。能力があるだけではない。心までも、立派な強さを持っている。
(早く、早く……!)
放物線を描いて落ちて来る人物を受け止めるために待機している時間が、異様に長く感じる。すこしずつ、勢いを失った男性が落下してくる。
黒波は、それ以上に早い。
ようやく、両手に男性の重みがのしかかるのと、橋に波が到達したのは、ほぼ同時だった。
「行って!!!」
リュウモの言葉と共に、ガジンは後方に跳躍した。足の下すれすれを、黒い濁流が通過して行く。
大波は、少年の体を容易く飲み込み、橋から吹き飛ばしてしまった。
「リュウモォォォ!!!」
叫びに、応える声はなかった。
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