第24話 夢

 ――ああ、またこの夢だ。

 帝の意識は、体を離れ、時間を飛び越え、一人の少年を追っていた。みずほらしい衣に身を包んだ少年は、よろよろと歩きながら、体を木々にぶつけては進み、ぶつけては進みを繰り返している。朦朧しながらも、前に進み続ける足にもとうとう限界が来て、少年は深い森の中、湿った地面の上に倒れた。

 指先一つ動かす力すら使い果たし、仰向けになることすらできていない。

 森は見知らぬ新顔には厳しい。侵入者を撃退する兵隊のように、獰猛な獣たちが彼の周りに唸り声をあげて集まってくる。


「は、はは……」


 少年は、もう何もかも諦めきっていた。から笑いも虚しさを漂わせる。この世でたった一人だけの氏族になってしまった彼には、同情する相手も、親しくしてくれる人もいはしない。

 むしろ、この冷徹な動物たちを、心地よくすら思っていた。自分が縄張りに入ってしまったから、この動物たちは怒っている。何という、簡潔明瞭な動機と理由。利権や氏族の繁栄存続などは一切ない。極めて単純で、最も古い原理。

 生きるのに疲れ切っていた少年は、動物たちの牙が、身を裂くのをずっと待っていた。

 だが、命を途切れさせる痛みと闇は、いくら待ってもやってこない。


「……?」


 少年は、なけなしの力をかき集めて首を動かした。動物たちは、少年を警戒しているようではあったが、積極的に殺そうとはしていなかった。


「は、ははははは――」


 笑いがこみあげてきてしまった。少年はこの領域にいる、人を凌駕する力を持つ動物である彼らの気持ちなど欠片もわからない。だが、今わかった。わかってしまった。

 彼らの青い瞳。そこには――憐れみがあった。弱肉強食の世界に身を置いている彼らが、自分を憐れんでいる。長い間争ってきた人が無くしてしまったものを、人が恐れて近寄らない彼らが持っていることが、途轍もない皮肉のように少年には思えた。


「お前たちと、ぼくたち……どっちが獣なんだろな――――は、はははッ」


 くつくつと少年は笑う。もしかしたら、この世にもう人なんてどこにもいないのかもしれない。動物たちは、そんな少年の様子をうかがっていたが、やがて体の大きい一頭が鳴くと、何事もなかったように去って行った。少年は、またも一人取り残される。

 殺す労力すら惜しい。価値すらないと、彼らに言われた気がした。身を焼くほどの悔しさが、動かないはずの五指に力を取り戻させ、地面を抉った。


「ちくしょう……ちくしょうッ」


 小さく、深い嘆きが森に染みた。

 森に入って来た異物に反応したように、ガサリと、音がした。

 動物の足音ではない。少年が嫌と言うほど聞き慣れた、人の足音だった。


「……人? ――人ッ?!」


 驚きのあまり、搾りかすのような声が喉から伝って出た。

 声に導かれるように、一人の、少年と同い年くらいの男が駆けて来た。


「おいおい、大丈夫か!?」


 駆け寄って来るその人は、相手のことが心配で仕方がないといった風だった。

 久しく感じていなかった、相手を思いやる心を感じて、少年の視界は闇に閉ざされた。



 ――帝の意識は、そこで覚醒した。



「……何事か」


 帝は、わずかな気配に目を覚ました。もっとも、気配がしたのはわざとであることを、帝はわかっていた。皇国の魂たる存在の寝床に、無断で立ち入れるほどの手練れが、自らの存在を消せないはずがないからだ。

 決まった時間に寝起きする帝に対し、このように起こすのは無礼極まる。だが、それを許された者が皇国内で唯一存在する。

 代々、帝となった者にしか伝えられない者たち。帝は彼らを〈闇〉と呼ぶ。

 彼らが存在することは〈影〉ですら知らされていない。まさに帝にのみ付き従う、皇国の最も深き暗部を司る者たちである。


「ご報告がございます。帝」

「――〈闇ノ司〉か。なにがあった」


 暗色の衣に身を纏った、壮年の男が衝立より顔を出し、帝は内心で少々、驚いた。

 〈闇〉を統率する〈闇ノ司〉は、多忙を極めることもあり滅多に帝の前に姿を見せない。

 実際、帝も今までの生涯を通して、この男に会ったのはそう多くない。

 ――なにか、相当な大事があったらしい。

 〈闇ノ司〉が直接、帝に報告に来るというのは、そういうことだ。


「――〈八竜槍〉ガジン様が、件の少年を連れ、皇都を発ちました。行先は、北にある〈竜域〉と推測されます。御止めしようとしましたが、失敗いたしました」

「――――――――そうか。ならば、ガジンを追跡し、見張れ。他の〈八竜槍〉には余が直々に伝達する。それまでは決して、手を出すな」


 帝は、特になにも感じていないように、冷然と対応をくだした。〈闇ノ司〉は、帝の返答に、事務的な態度で、恭しく首を垂れた。


「承知いたしました。もうひとつ、申し上げたいことがございます」

「よい、なにか」

「〈影〉の『外様』出身の者が、なにやら領主たちと連絡を取り合っています。すでに見張らせてはいますが、不穏な動き在りと、報せが来ておりました。詳細は、こちらに」


 帝は〈闇ノ司〉からの報告書を受け取ると、目を通した。

 試し読みするようにぱらぱらとすべての項を確認する。普通は流し読みのように項をめくっているだけでは、全容を把握することは無理である。だが、帝にはそれだけで十分だった。


「……怪しげな動きをする主要な領主たちへの監視の目は緩めるな。ガジンの対応については〈影〉と〈八竜槍〉を使う。〈闇〉たちは、領主たちの動向に目を配れ」

「っは」


 頭を下げている〈闇ノ司〉の体が、本当にわずかだが、やや左に傾いているのに、帝は気づいた。以前の任務で負った怪我は、完全に治り切っていないようだ。


(〈竜槍〉で傷つけられれば、それも当然か)


 帝は、声をやわらげて、相手の体調を気遣うように言った。


「腕の怪我は、大事ないか」


 〈闇ノ司〉の体が、可哀想なぐらいにぶるりと震えた。


「は、は……今はもう、ほとんど以前通りに動かすことができます。頂いた御役目を果たせぬ腕など、無用の長物にございますが……」


 ――ああ、これはまずい。

 彼は、言い渡された任を果たせなかったことを、心底恥じている。このまま放っておいたら、事が収束した後には自刃してしまいそうな雰囲気すらあった。

 帝は慌てて――しかし、表には出さず――〈闇ノ司〉を宥めにかかった。


「〈八竜槍〉相手では、汝でさえ荷が勝ちすぎる。気に病む必要はない。必要なのは、次にどう備えるか、考えることだ〈闇ノ司〉」

「は、此度の失態、一命にかけて償う所存であります」


 相変わらず大袈裟な言い方だが、口に出した以上、やり遂げるのが〈闇ノ司〉だ。


(良くも悪くもだが)


 ともかく、彼を落ち着かせられはしたようである。


「汝は、この国に、余に必要な者だ。軽はずみな考えを実行に移すことは許さぬ」


 失態をおのれの命で償うことを、帝は禁じた。言っておけば、この男は絶対に帝の言葉に逆わないからだ。

 〈闇ノ司〉が、想像以上の言葉を賜り、さきほどまでとは打って変わって、歓喜で体が震えている。目尻には涙さえ浮かんでいた。


「もう報告はないな? よろしい、ではさがれ」


 音もなく、〈闇ノ司〉は消えて行った。齢六十となってなお衰えを見せない技術に、帝は舌を巻いた。あと数年は現役でいられるだろう。


「……ガジンめ。ここ一番でよくやらかす」


 亡くなった父から言われていたことが、帝には十年以上の時を経て、ようやく実感を伴って理解できた。

 ガジンは普段、堅実で公正明大であるのに、大事な局面に差し掛かると大体、面倒事を起こす。もっとも、大半は彼が望んでやっていたわけではないのは、よく知っている。厄介がどこからともなく足を生やして、ガジンの元に爆走してくるのだ。

 〈鎮守ノ司〉に至っては「最早あれは天命ですわ」などと言う始末である。


(余の失策だな。イスズに行かせればよかったか……)


 もし、の可能性を考えて、帝は頭を振った。益体の無いことに、いつまでも懊悩としているわけにはいかない。

 帝は立ち上がり、仕えの者を呼んだ。予定よりはるかに早く起きた帝に、顔色を青くしながら、慌てて若い者が走ってくるのを見て、申し訳なく思った。

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