第34話 〈竜域〉での探り合い
「追手はお前だったか、ゼツ」
〈竜域〉に身を置いてなお、皇国最強の男は、以前と変わらない口調だった。恐々としながら、ゼツは振り向いた。
「……お久しぶりです、ガジン様」
「久しぶりでもあるまい」
のど元に槍が突きつけられている。動くことをガジンが許したのは、こちらがなにをしようが一瞬で仕留められるからだ。それだけ隔絶した実力差がある。
だが、ゼツは、安堵を覚えていた。この人が近くにいれば『竜』に殺される心配もない。〈竜域〉のど真ん中で野宿し始めるくらいだ、『竜』への対策はいくつもあるのだろう。
「ガジンさん、その人が?」
件の少年が近寄って来た。〈青眼〉は、事件の渦中にいるとはとても思えないくらい、澄んでいた。居心地がいいようにすら見える。
「ああ、追手の者だ」
「そうですか……あれ、貴方は、手を怪我してた人」
顔を覚えられていた。あの時、結構な数の負傷者を手当てしていたはずだが、この小さな少年は、意外と記憶力はいいようだった。
「お前が『竜』に襲われないか、ひやひやしていたぞ。リュウモに感謝するといい。途中で音が聞こえただろう? あれがなければ『竜』がお前に飛びかかっていたところだ」
「……やはり、あれは『竜』と話し合っていたのですね……」
「そうなるか。まあ、そういうことだ。私たちから離れれば、たちまち『竜』に襲われる。逃走は考えん方がいいぞ?」
驚くことに、敵対者を前にして、ガジンはのどから槍を下げた。それから焚火の方へ歩いた。暢気な、とゼツは思ったが、こんな環境だ、開き直っているのかもしれない。槍を下げたのは、仮に〈影〉が逃げに徹したとしても、追うまでもなく『竜』が始末してくれると考えているのだろう。
ゼツも、夜になる、しかもまったく土地勘がない森で動き回る馬鹿ではない。鳴子の縄を触れないように超えて、彼らが座る焚火の近くに腰を下ろした。
「これだけ隙を見せても、攻撃する素振りすら見せないとはな。私たちを消せとは命じられていないか」
「――我ら〈影〉が命じられたのは、貴方たち二人の捕縛。そして皇都へお連れすること。それ以外はなにも」
「私に言ってしまっていいのか」
「貴方様とて、薄々感じ取られていたはず。背任に等しい行いをして、手配書の一枚も出回っていないのですから」
「秘密裏に処理したいだけとは考えていたが、私はそこまで頭が回る男ではないよ」
気軽いに言いながらも、手から〈竜槍〉を離していない。もし、少年へ短刀を向けようなら、即座に穂先が腕の健を断ち切りに飛んでくるだろう。
「あ、あの、喧嘩は止めてくださいね? 血の臭いとか、騒ぎを聞きつけて『竜』が集まってくるかもしれないので……」
不穏な空気を感じ取った少年が、恐る恐る控えめに言った。
「む、この中にいれば、安全ではないのか?」
「この大きさの〈竜域〉なら、この鳴子で十分ですけど、食事中も寝る時も、『竜』に睨みつけられたまますごしたいですか?」
「だそうだ、ゼツ。騒ぎを起こすなとさ」
「この地で、荒らすような行為はいたしません。ここは、我らが住む領域ではないのですから」
〈竜域〉で無体を働けば、待つのは死だ。一個人が、巨大な自然に勝ることはない。自然の一部である『竜』に人は基本的に勝てないのだ。
人は、文明を発展させるために山を切り開き、木を切り倒し、征服してきたが、未だに〈竜域〉には打ち勝てないでいる。もっとも、神ノ御遣いたる『竜』を害しようなど、普通はまったく考えない。だから、こういった土地に人の手が入ることは永遠にないだろう。
「なら、大丈夫です。ゼツさん、鳴子の外には絶対に出ないでください。死にたいなら、いいですけど」
「ここでは君に従うのが利口そうだな」
両手をあげて、ゼツは降参した。改めて、この奇妙な組み合わせの二人組を観察し始めた。
黙々と鍋を作る少年に、ただ料理ができあがるのを待つ大人という、なんとも変な光景がそこにあった。
「ガジン様、〈禍ノ民〉とはいえ、いくらなんでも子供にすべて任せるのは、どうなのです?」
「前にな、私が作ったら、味が雑だと言われて、以降はこの子に任せてある……」
「そ、そうですか、それは、なんと言うか」
――情けない限りというか……。
口から出そうになった言葉を、ゼツは飲み干して腹の中にしまった。情けない姿をさらしている相手に、さらに追撃を加えるほど、ゼツは非道ではない。上司ならなおさらである。
「いや、まあ、鍋物にはこだわりがあるようでな。これがまた美味い。結局、私が手を出すと味がばらばらになるので、任せきっているだけだ――勿論、片付けは手伝うぞ?」
言い訳染みた言葉を並べるガジンを、生暖かい視線を投げつけたあと、漂ってくるいい匂いにつられて、焚火の方を見た。
「なるほど、確かに美味そうですな」
ここ数日、まともな料理と呼べる物を口にしていなかったせいで、猛烈に腹が減り始めた。ゼツの腹の中の虫が、抗議の声を大にして張り上げる。
「ガジンさん……」
物悲しそうな目で、少年に見られた。
「ああ、すこしぐらい分けてやってもかまわんさ。どうせ、この先に立ち寄る場所で補給する」
聞き逃せないことが耳に入った。
「行先を教えていただけると助かるのですが?」
「さて、何処になるかな。今のところ予定は決まっていない」
軽く流された。当たり前だが、簡単に行先を教えてはくれない。しかし、このままついて行けば、どの街に寄るのかはわかるはずだった。〈竜域〉を出た方向で、おおよその予測はつけることができる。
(さて、俺の仕事を始めるか)
接触は、思った以上に簡単にできた。警戒されてはいるが、積極的に排斥してくる様子はない。ゼツは、話を切り出す機会をうかがった。
「どうぞ」
と、鍋を作り終えた少年――リュウモが、椀を差し出してきた。なるほど、確かに美味そうである。大雑把な男料理とは違う。具材はすべて均等に切られ、切り口も見事だ。盛り方も、丁度よくなっており、偏っていない。
ゼツが感心している間、リュウモは手慣れた動作で新しい椀に鍋の中身を入れて、ガジンへ手渡した。
彼が口をつけてから、ゼツも食べ始める。
(まあ、毒なんて入れてるわけもないが、一応、用心しておくにこしたことはないからな)
椀に毒の類が塗りこまれていないのは、渡された時点で確認はした。もっとも、そんな小細工をしなくても、手を握る程度の気軽さで、ガジンは相対している者の息の音を止めるれる。
汁物を熱がりながらすすっている方の肩に立てかけている槍は、彼らに危害を加えようとした瞬間、ゼツの喉元を食い破る。
元々、〈八竜槍〉の間合いに入ったが最後、どのような手段を講じようとも意味は無い。
逃走、迎撃も不可能である。ある意味、すでに死んでいるようなものだった。
恐ろしいが、同時に彼が無意味な殺しをするはずがないと、ゼツは知っている。
汁物を口に含んだ。
「お、これは、確かに美味い」
つい、乾燥がこぼれた。携帯食しか口にしていなかったせいで、余計に美味に思える。味噌がいい具合に効いていた。
さすがに、皇都の料亭で出る料理の方が上等だが。味付けは、あまり食したことのない、不思議な暖かさがある。
(月並みな言い方だが、素材本来の持ち味を生かしている、のかこれは)
ゼツは、すべてをあっという間に平らげた。
美味い料理を食べれば、精神は落ち着いてくるものだ。腹に食べ物が詰まる幸福感をかみしめ、一息ついて、ゼツは本題を切り出した。
「ガジン様、此度の件、いったいどういうおつもりにございますか」
空気が変わったのを、二人は察したのだろう。中身の無くなった椀を地面に置くと、彼らはゼツに向き直った。
「私はただ、事件の解決に向けて動いているだけだ。帝がこの子を殺し、すべてを闇に葬ってしまう前にな」
「帝にはお考えが」
「砦で保護した〈青眼〉の男は、すでにこの世にいない。帝が直に言った言葉だ」
ゼツは初耳だったが、さして驚くべき事柄ではない。いてはいけない人物を消した。ただそれだけである。
消した人物から吐かせた情報を使って〈闇〉である自分たちが『後始末』をするだけ。ゼツにとって、変わった話ではない。むしろ、よくある。
「あのまま放っておけば、帝は国のために一切を消し去ってしまう。その中に、国を救う手立てがあるとも知らずにだ」
ゼツは、ガジンの言い分を黙って聞いていた。
――この御方には、確信がおありだ。
このままでは、国が滅びる未来が、彼には見えている。最悪を回避するために、自らの地位と信頼を捨てたのだ。
「だから、許されぬと知りながら、国に、帝に背いたのですか」
「国も、帝も、このままでは全部が燃え朽ちる。人がいなくなった時、地位や身分にどれだけの意味がある? 無い、まったくな」
相手を咎める、きつい口調だった。すべてが露と消えゆく前に、なにを取り繕っているのかと。
「では、貴方様が見つけた真実を、帝に申しあげればよろしかろう」
「言ったさ。返答は否、だったよ」
諦観を含んだから笑いが、暗い森に伝わった。
「帝が、そこまで愚かとお思いか」
「いいや。だが、帝だからこそ、このような選択しかできなかったのだと、私には思えたがな」
ガジンは、眉をひそめた。
「おれが〈禍ノ民〉だから」
そこまで、話を聞いているだけだったリュウモが、初めて口を開いた。
「〈禍ノ民〉だから、帝はおれを認められなくて、殺すしかないって、ことですか?」
端的に、あらゆる要素を拝して言うなら、その通りだ。非常な現実だが、これが事実なのだ。ゼツは、それでも首を縦に振れなかった。少年に、乾いた現状を突きつけることに、迷いを覚えたからだった。
「そうだ。帝はお前が〈竜守ノ民〉であるがために、殺そうとしている」
ガジンは静かに言い、子供に惨い現実を叩きつけた。
「そう、ですか……」
対して、リュウモはそれだけ言って、鍋を片付け始めた。
妙な沈黙が垂れ込め、ゼツは口を閉じた。舌には、まだ暖かい感触が残っている。
「もし、おれがいなくなることが、決まっていたら、帝はおれをこれ以上追わないでくれますか」
「なに……?」
死んでくれるならば、こちらで手を下す手間が省ける。ゼツは、現状の損得勘定を脳裏で行う。リュウモの青い眼は、嘘を言っていない。
「待て、どういうことだ、聞いていないぞ」
ガジンが厳しい表情で問い詰める。
「多分、〈竜峰〉で笛を奏で、『竜』を鎮めたら、おれは、死にます」
静かに、おのれの死を、少年は予見した。
「あのとき、ジョウハさんの村で『竜』を鎮めたとき、急激に体から『气』が抜け出ました。あれくらいの数で、气虚になるなら、きっと〈竜峰〉ですべての『竜』を正気に戻したら……」
ゼツは、少年がいきなり倒れ込み、皇都の牢に入れられても目を覚まさなかったことを思い出す。气虚は、体内にある自分の『气』が枯渇しかけた状態を言う。
体が「もう『气』を使えない。使ったら死ぬ」と訴える。もし、肉体からの上訴を跳ね除けてしまったら、どうなるのか。
答えは、リュウモが言った通りである。
「笛を使って鎮めた奏者も、亡くなったそうです。元々、体が強くなかった人らしいですけど、目覚めてもいない、体が出来あがっていないおれが奏でれば、どうなるかなんて」
ガジンが絶句する。
(なるほど、確かに手間が省けていい)
『竜』が鎮まり、それでいて少年が死ねば後処理も非常に楽だ。
だが――。
北方の『外様』は少年の後を追っている。〈闇〉の中に様々な情報が飛び交い、とりわけ危険な北方の領主たちが積極的に動いているという。
ゼツは国の在り方について是非を問うことはしない。やるべき定めに従い、おのれが磨いて来た技術を帝のために使うのみである。
「なぜそれを言わなかったッ!」
ガジンの怒鳴り声に、周囲のいた獣たちが一斉に逃げ出した。暗闇の奥でうごめく巨大な生き物の気配もする。ゼツの肝が冷える。
「言っても、意味がないじゃないですか。おれがやらないと、誰かが死ぬ。そんなの、嫌です」
「…………ッ」
皇国最強の男の顔が、少年の意志によって歪む。
ガジンの様子に、ゼツはすこし、いや大いに驚いた。
彼は子供が嫌いであった。何年も共に任をこなしてきたからこそ、ゼツは筋金入りの子供嫌いを知っている。
問おうとは思わなかったし、こういった過剰反応を示すのは、過去になにかがあった証でもある。
忌避する感情や対象を跳ね除けるほど、ガジンは少年に入れ込んでいるらしい。彼自身、自覚はないようだが。
「お願いです、おれを追わないでください」
青い、真っ直ぐで無垢な目が、ゼツを射抜こうとする。強い、覚悟と意志を感じた。
――この子供、危険だ。
どのような種類のものであれ、強さは人を惹き付ける。大小、性別、身分など関係ない。
少年は、万人を魅せる、言語化できない空気を放っている。一瞬、無意識の内に首を縦に振ってしまいそうになった。
「私に言っても無意味だ、少年」
だから、ゼツはいつものように心を冷え込ませる。相手の事情や背景など知ったことではない。帝より賜った命を実行するだけの道具に変貌する。
そうでもしないと、任務に支障をきたしそうだったのだ。
少年の顔が悲痛に変わる。同情を誘うとしているわけではないだろう。
ゼツは、少年、リュウモがそういった打算や策謀を張り巡らすことのできる人物には到底思えない。十一の少年に、〈闇〉を出し抜く策を考えろというのが土台無理な話だ。
――だから、恐ろしいのだ。
相容れない存在だ。ただあるがままにするだけで誰かに訴えかける人間の性質の悪さを、ゼツは任務上、身をもって知っていた。
「リュウモ、無駄だ。この男はなにを言われようと任務を放棄するようなことはせん。無駄話はここまでにしよう。お前はどうする、ゼツ」
「どうする、と申されましても」
「我々はここから出るが、その後どうせ報告に戻るだろう。それとも、今から鳴子から出て行くか?」
「遠慮しておきます。わざわざ自殺しに行くほど、酔狂な性格ではありませんので」
ゼツはおどけて言ってみせた。どうせ、槍が届く範囲にいたら逃げ切るなどできないのだ。お世話になった方が幾分かましだろう。
「……少年、ひとつ聞きたい」
リュウモはうつむいていた顔をあげた。
「なぜ、それほどまでに、頑なに北へゆこうとする。君に、なにか利益があるのか。それとも、本当に世の中を再び動乱に陥れたいのか?」
利益、野心、野望。大望を抱く人間に得てしてある意思。
おのれの命を投げ打ってまでに、帝に逆らってまで禁忌へと進む少年の心根を、ゼツは探ろうとした。
「国のこととか、利益とか、おれにはわかりません。ただ、ただ……もう、燃える村や人を、見たくないんです」
そう言ったリュウモの青い瞳には、暗い、陰鬱な黒い感情が差しているように、ゼツには見えた。
少年の返答に、増々ゼツの胸へうず高く危機感が積もった。
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